第2話

 解らないことがあるなら悩め

 知りたいことがあるなら動け

 止まっていては何も始まらない



 結局、シンが途中で音を上げ、片付けを中断して夕食作りになった。買い置きも大したものはなかったため、ワンプレートの食事となった。主食はイヴェールがつまみ食いしたパンの残り。ロールパンが各自二つずつほどある。プレートにはふわふわのスクランブルエッグにベーコン、無事だった生野菜が少しのっている。後は、淹れたてのコーヒー。

 量は少ないが、久しぶりの手作りご飯だ。味わいながらゆっくりと食べる。

 多少落ち着いたシンが、ペースを緩めフォークで卵をちまちまと掬いながら、斜め前に座るイヴェールの方を見た。

「で、これからどうする? ゆっくり考えればいいとは言ったけど、こうして俺たちと悠長に飯食ってるくらいだ。全部じゃなくても、何かしらの結論は出てるんだろ?」

「うん……まあ」

 ロールパンを小さく千切りながら、イヴェールは目を泳がせた。

「出来たら、ここに、置いて欲しいな……って。その日暮らしだったし、外に、あんまり居たくないし……」

 言いにくそうに彼女は言葉を濁し気味だ。

「生き方を……知らないの」

 やっと吐き出した。そんな感じの言葉が、フェイの胸に重く落ちてきた。

 一方、シンは相変わらずの様子で卵を掬っている。

「外じゃなくても、ここにだって男が二人もいるけど、それでいいわけ?」

「貴方はともかく、フェイは無害でしょ」

「有害なシンが居ても大丈夫なの?」

「……フェイ、切り返すポイント、違うから」

 違うのか。違うと言われてもよく解らないので、この話はもう終わり。

「イヴェールってさ、人間とは違うよね? 戮訃っぽい色してるけど、戮訃より赤い気がするし、目の色も違うし」

 質問に他意はない。疑問をそのまま口にしただけだ。

 なのに、変な空気が流れた。

「なんか……まずいこと言った?」

「まずくはないけど……」

 シンがイヴェールに目配せした。フェイには解らないやりとりが行われること数秒。

「貴方が、説明して」

 イヴェールがそっぽを向いた。

「了解」

 と言いながらも、シンは先ず、皿の上にある食事を平らげた。平らげ、パンも完食し、コーヒーで後味を整える。

 その間、フェイは殆ど食が進まなかった。こんなにも勿体ぶられたら、嫌でも構えてしまう。いつでも話を聞けるように、あまり頬張らないように食べていた。

 とん。と、中身を殆ど失ったカップがテーブルに置かれた。同時に、目の前のシンが正面に、すなわちフェイの方を向いた。

「天隷。天の奴隷。生まれながらの娼婦。その形態はどうであれ、自分の身体を売るのが生業。最終的に『否』とは言えない、それが本能。赤い髪、赤茶の瞳、白い翼を持つ生き物。それが、イヴェールの正体」

 何の感情も込めず、シンは淡々と言った。

 ……ぞっと、した。まだ感情的に言われた方が良かったかも知れない。シンの言葉が淡々と、その一定の速度で、一々胸に刺さってきた。

 自分が世界をよく知らないことは知っている。知らなかった白紙の部分が、今、残酷な色で塗りたくられた。

 その色の有様を自分の口で言うのは辛かったから、イヴェールはシンに言えと言ったのか。

 自分で言う。人が言うのを聞く。

 傷は、どちらが深くなるとも言い難い。

「ごめんね、俺、何も知らないで……」

「知らないから訊いた。それは悪い事じゃない。知ってからどうするか。その方が問題だ」

 残りのコーヒーを飲みながらシンが言った。

 知らないことはおよそ無さそうなシンが言うことは尤もだが、そのシンが初めて知ったときはどうしたのだろうか。疑問に思った。だが、また訊かない。シンには、あまり訊かない。

「いいのよ。気にしないで。嫌だけど、事実だから。事実だからって従う気はないけど、それが定説だから」

 いつの間にか完食していたイヴェールは、苦味で全てを呑み込むようにコーヒーを呷っていた。少しだけ強がっている。それが少しだけ、子供じみていて。

「そんな境遇に生まれて、散々酷い目に合ってきただろうに、それでもこの男所帯に居候したいって言うのか? そんなにこのチビ、気に入った?」

「チビって言うな!」

 テーブルに食器が載ってなかったら間違いなくひっくり返していた。しかも、自分の皿だけまだ食べかけ。食べ物は粗末に出来ない。腹もやっと六分目、といったところなのに。

「さっきからそんな言い方して、追い出したいならはっきり言ってよ」

「いや、別に。変な気を遣って出ていきたいって言いにくくならないようにしてるだけさ。居たいなら居ていい。食わせるくらいはしてやれるし。でも、俺が男だってことは忘れんなよ」

「よっぽど自信がないのね」

「いや。俺が天隷の本能に喰われたくないだけさ」

 シンがニヤリと笑う。イヴェールが眉を顰める。

 駆け引きよりももっと次元が低い、これは探り合い。

「言っとくけど、女が嫌いな訳じゃないからな。むしろ大好き」

「群れなしてないけど良かったねシン」

 残りの食事を掻き込みながら言ってやった。何だかむしゃくしゃしたからだ。いつものもやもやがまた喉元にある。今日は特に多い。何処かに上昇気流でもあるのだろうか。

「てめぇ、誤解を生む発言を」

「シンが最初に言ったんじゃないか! 事実じゃないか!」

「今更大昔のこと蒸し返してんじゃねぇよ!」

「昔って半日前だし! それに、女の子は取り敢えず好きだろ! 事実じゃないか!」

「ひとを節操なしみたいに言うんじゃねぇよ」

「事実じゃないか!」

「てめぇ!」

「事実じゃないかぁ!」 

 イヴェールとの会話の時にあった緊張感は何処へやら。全員が完食しているのをいいことに、横暴な家主は立ち上がった。身を乗り出してフェイを掴もうとする。それが上手くいかないと解ると、テーブルを回って補足しに来た。

 無論、逃げる。

 狭い家の中でちょっとした鬼ごっこが始まった。偶にやるが、今回は新たに住人となったイヴェールが居る。二人だけで大騒ぎするのとは訳が違う。だが、そんなことをシンが汲むわけがなかった。

 追う。追う。

 逃げる。逃げる。

「こら! 騒がしい! 片付け手伝いなさい!」

 ストッパー現る。以前はこのテーブルの周りをぐるぐると回るだけの無益なランニングが延々と行われていたが、今回はすぐに収束を迎えた。ありがたい。

「それと、服買いたいから、明日ちょっと付き合ってよ」

「ああ、服なら」

 と、シン。

「多分合う奴がいくつかあるから、それも使えよ」

「例の、女性の服……?」

「変な風に考えんなよ? そのカッコで外に出すのも何だしさ」

 シンが過去を引きずりそうな物を取っておいたのは意外だった。彼のことだ。もしかしたら、捨てるのも面倒になって引出の奥へ奥へと埋葬していたのかも知れない。

「じゃあ、ちょっと見せてよ。着てみるから」

 皿を流しに置いたイヴェールを、シンは改めて自室に案内する。

「覗くなよ、フェイ」

「シンこそ、何ドア閉めようとしてんの」

「家が傾いてんのかなぁ。ドアが勝手に」

「あら、手が勝手に」

 都合のいい言葉で流したつもりが、あからさまに追い出されたシンであった。

「やーい」

「うるせぇ」

 完全に部屋はイヴェールに占拠された形だ。自分で招いたことなので本人は不満そうな顔一つしていないが、多少不便そうではある。

 引っ越さない限り、このままだと半永久的にシンの自室は奪われたままだ。

 若しくは、今度はフェイが乗っ取られる番なのか。

「俺のは渡さないからな」

 結論だけが口からだだ漏れした。

 隣のシンはただ一瞥し、

「何。童貞? 頼まれても要らねぇや」

「なんで話の方向を下方修正するんだよ!」

 属性、家主。特技、乱反射。付き合ってると疲れる。でも、何でか憎めない。

 不思議だ、と、たった一言に息を切らしつつフェイは思う。そして、いつもの流れで怒っているのが莫迦らしくなり、やめてしまうのだ。

 今回もそのパターン。

 ごそごそという妄想を掻き立てられる衣擦れの音がしなくなって数秒。

「ちょっとだけ丈が短いけど、サイズはぴったり!」

 一回転しながらイヴェールが出てきた。

 おお、と声が上がる。どういう関係だったかは解らないが、少なくともかつて知り合っていた女性の服を着たイヴェールが出てきても、特段のコメントはないようだ。思い出が締め付けてくることは無いらしい。

「貴方が辛くないならありがたく頂戴したいんだけど、いいかしら? 貴方の過去に、触れるけど」

 思わせぶりに、上目遣いをするイヴェール。膝上丈のスカートに、レースやらで飾られた薄手の長袖。アレがシンの引出から出てきたのかと思うと、すぐにコメントが思いつかない。

 取り敢えずシンへ、

 ――えーと。…………うへぇ。

「構わない。どうせそれ、買ったきりだったんだ」

「やった。それならありがたく」

 嬉しそうだ。

 初めて見たときはひどく怯えていたのに、今はこの破顔。つられて微笑むことが出来る、いい笑顔だった。

 よかった。声に出さずに呟き、フェイは流しに向かった。久しぶりにお手伝い、というわけだ。

 一部雑然とした部分は残っているが、それでも見違えるように綺麗になった。明日もう少し頑張れば、入居してきた頃とそう変わらなくなるだろう。当然、流しの中にあるのは三人分の食器だけ。楽勝だ。数時間前がどうだったかは敢えて言うまい。

「私も手伝うよ」

 イヴェールが隣に立った。身長はフェイとあまり変わらない。

 彼女は残った片付けの一部をこなし始めた。

「フェイっていくつ?」

「歳? わかんない。シンが言うのを鵜呑みにするなら、今、十八くらい」

「人間だったら、ってことかな、その歳」

 言われてみればそうだ。この身に宿す色が本物ならば、自分は人間ではない生き物だ。

 見た目年齢、とでも言えばいいのだろうか。

「人間換算で言うなら、私と大体一緒なんだね」

 人間ではない者達も年齢は人間と同じ周期で数える。シンは以前そう言っていた。

「人間と私たちじゃ時間の感じ方が違うらしいから、実年齢言うと結構凄いことになるのね。だから、それは秘密」

 人間の一年が天隷のどのくらいなのか知らないので、推測することは出来ない。彼女も解っていて言っているようだ。

 咒法師もカテゴリとしては人間とは違うが、その辺りはどうなのだろう。人と同じ感覚で生き、同じ周期で寿命を迎えるのだろうか。それとも、独自の周期で年を重ねるのだろうか。

 ――多分これも訊かないんだろうな。

 知るに任せるのは、一見楽だがストレスだ。知りたいと思うことが多いフェイにはたびたびやってくるそのストレスが鬱陶しくもあった。

「歳は教えないけど、他のことだったら訊いていいよ」

「なんで?」

「眉間、皺寄ってる。悩んでる感じしたから」

「ああ……でも、訊きたいの、イヴェールにじゃないんだ」

「じゃあ、シン? あんな感じでも実は仲悪かったりするの?」

「悪くはないんだけどね。俺が、一歩引いちゃってるだけ。訊けばいいんだけど、何でか訊けなくて」

「余計なところ、掻きむしっちゃう気がするから、かな」

 そうなのかも知れない。

 昔のことを嗅ぎ回るな、などと面と向かって言われたのは初めてだ。しかし、訊いたのが初めてであったわけではない。まともに話してくれない。誤魔化され、流され、断ち切られ。それが何度かあったから、今日シンが声を荒げる原因を作ったあの一言を発するまで過去のことは詮索しなかった。

 どこで、どういう瞬間に、投げた疑問が個人の聖域に入り込むか解らない。

「そうかも。だから、あんまり訊かないんだ、きっと」

「何も教えない癖に、何も訊かせない感じの態度って嫌よね。お風呂上がったら鼻摘んでやろうかしら」

「風呂……?」

 そういえば、少し前から湯の匂いと豪快な水音がすると思ったら、あの家主、手伝いなどまるでする気もなく、勝手に一番風呂を取っていた。

「アノヤロウ」

 思わず、洗っていた皿に力がこもる。ぎ、と嫌な音を立てて。

 危うくゴミを一つ増やすところだった。


   *


 暫く、嫌な予感、という感覚は得ていなかった。

 だが、よからぬ予兆の感覚を、今はっきりと得ていた。

 昼近く。ベッド代わりのソファから起きて、ダイニングテーブルに移り、ブランチを頂いていた。ありつく前にイヴェールに寝穢いと叱られてからだったが。

 内容は昨日の夕食とそれほど変わらない。家の中が静かなのでまず、

「フェイは?」

 と尋ねたところ、出掛けたそうだ。きっと小遣い稼ぎに行っているのだろう。

 公言するべき事ではないが、実を言うとシンもフェイも無職である。その日暮らしぶりでいったらイヴェールといい勝負だ。とはいえ、一応家に金は入ってきている。真っ当な金ではないが。

 さておき、最優先は食事だ。行儀が悪くならない程度に誤魔化しながらゆっくりと食べる。

 嫌な予感は、その最中に降ってきた。

 小粒の悪意が大挙している。それが近づいてきている。引き連れているのは、よく知った気配。

「あーあ。莫迦に食わせるメシはねぇんだからなぁ」

 独りごち、大切に食べていた食事を、今度は打って変わって一息に掻き込んだ。

「どうしたの?」

「あの莫迦がデカイ面倒引き連れて帰って来やがる」

 面倒なだけだ。障害ではない。

 食器はそのままに、シンは扉を開け、外へ。イヴェールも付いてきたが、扉の所で立ち止まった。

 道の向こうを眺めやると、フェイが走って向かってきていた。

 一見するとそれだけだが、よく見ると黒い空に同化している黒い物体が無数に飛翔してフェイと同じくこちらに向かってきている。 

「シィィィィィィィィン! たぁぁぁぁすけてぇぇぇぇぇ!」

 いっそのこと扉を閉めて赤の他人をしようかという邪念が頭を過ぎっていった。だが、そんなことをしても問題児はこの家にたどり着くだろうし、何があっても中に入ってこようとするだろう。その方がよほど面倒だ。

 やめた。

 改めて、金髪頭の後ろにある物体を見る。

 丸い頭に楕円の胴体。羽根に似たヒレを胴に生やし、頭には大きく赤い目が一つだけ付いている。目玉以外の色は黒。体長は三十センチほどと言ったところか。

 ――蝙蝠……。こんなのがまだ稼働してるなんて。それに、何でこんなに居やがるんだ。

 使神の簡易使い魔的な存在であった蝙蝠も、今や昔の話だ。そんなモノで世界を監視するくらいなら、自分で赴くか子飼いの下階級の種族を派遣すればいいということにでもなったらしく随分前から見かけなくなった。

 ――それなのにここに居るって事は、使神様の物じゃないって事、か。

 それなら使役しているのは誰か。

 勝手に口元に笑みが浮かんできた。

「フェイ! ウチにロクでもないモン案内してくるんじゃない! 銃はどうした、銃は」

「そんなのとっくの昔に弾切れだよ! 何でもいいから助けて! ニヤケた顔してないでさぁ!」

 フェイの右手には一丁の銃。マガジン式のごく一般的な物だ。それが彼の唯一の得物である。残弾数ゼロになったとなれば彼に戦う術はない。

 何をやらかしてこんな事になっているのか知ったことではないが、それにしても、数が多い。

「今週中に夜逃げ決定だな……」

 シンは前方に右手を翳した。手の平の傷痕を見せつけるようにし、指先まで緊張させ力を溜める。

 蒼い光が手の中に溜まり始めたとき、フェイが後ろに滑り込んできた。シンは余っている左腕でフェイを庇う。回した手に、フェイが抱きついてきた。

 シンの表情から正の表情が消えた。同時に手中にある光球が大きさを増した。

 敵を見据える。闇に同化する無数の敵。

 蒼い瞳の瞳孔が収縮した。

「手ェ煩わせんな、ガラクタどもが」

 蒼い光を帯びた咒法を、黒い大群目掛けて放った。

 始めは手の平に収まる程度の直径を持った追い光の線は、敵前方で突如拡大。術は敵を呑み込み、灰も残さず消し去った。

 目的を達成した術は、自然に薄れ無くなった。

 被害報告をするならば、隣家に多少の焼け焦げが付いたことと、術を放った手の人差し指に小さな傷が付いたことくらいだ。

 傷から滲む血を舐め取っていると、足元に黒い物が転がってきた。難を逃れて消滅は免れたものの、停止寸前まで追いやられた蝙蝠だ。

 赤い目が真上を向き、シンはそれを眺め下ろした。

「みーつけたぁ。ねえ、遊びましょぉ、シン。また手に入れた大事なもの、失くしたくないでしょぉ? それなら遊びましょぉ?」

 蝙蝠から女の声。高音域が耳に刺さる声だ。

 スピーカーが損傷していて音割れし、ノイズもかなり混じっていたが言葉は認識できる程度だ。

「……あの、女……!」

 過去が去来する。傷がまた赤みを持って、血を吹き出す。七年間空き続けた心の空洞に、女の声が反響する。

「もう見つけたのぉ。大事なもの。壊さなきゃ。一緒に行かなきゃ……ふふふ」

 言葉が向けられているのが徐々に自分から逸れていって居る気がしたが、そんなことはすぐに忘れ去った。心の裡を掻き乱す声が、血を沸き立たせ理性を掻き消し始めている。

 消える。消される。いつかみたいに乱されて、崩されて。一方的に何かが起きて、最後まで受動だけで終わって。残ったのは傷だけ。

 うんざりだ。

 同じ展開は二度とさせない。今回砕かれるのは自分ではない。

「黙れ!」

 足元の蝙蝠を、シンは一息に踏み潰した。声はもうしない。

 しかし、頭の中には聞こえた以上の声がしていた。

 錆び付いていた動機が軋む音を上げながら動き出す。



 声の主をフェイは知らない。

 過去にシンと何かあったのだろう事は解った。その証拠に、シンが静かに激昂していた。

 いつもなら大したことのない勝利でも余韻に浸り、何を言われても鼻で笑い飛ばす男が、高飛車な声の持ち主の言に感情を揺らすなんていつもだったら有り得ない。

 未だ掴みっぱなしであった腕を振り払われた。

 と、創作された笑みがこちらを向いてきた。何故なら、目が笑ってない。

「今度は脊椎動物みたいなホネのあるヤツ連れて来いよ。あれじゃつまらん」

「あれ以上のモノなんて持ってきたら、今度は俺が殺される……」

「そうだ。よく解ってる。それに、何処で遊んで来ればあんなゴミに追われるんだ」

「ぎぇぇぇ。笑顔で首絞めないで~」

 首を絞める手にこもる力が、本気だ。酸欠で目の前が白っぽくなっていく。

 ――ヤバイ……。

 思ったとき、ぱっと手が離れていった。流石、加減を知っている。咳き込みながら見上げると、シンは何もなかったかのように落ち着きはらっている。

「……ごめん、なさい」

 術一つで勝てる相手を呼び寄せただけではシンは怒らない。経験上。

 何か面倒なことまで呼び寄せたのだというのは何となく解った。言うのは遅くなったが、言わないままよりマシなはず、と謝罪した。

 傷のない手が肩に載った。

「過ぎたことはいいさ。何があったかはともかく、先方は最初っから俺を捜してたみたいだし。引っ越ししろっていう啓示なんだろ」

「心当たり、あるの?」

「大ありだぜ」

 言い捨て、家主は数歩先の家へ向かった。

「入れて?」

「……うん。咒法師って、凄いね……」

「まあね」

 戸口で呆然と立っていたイヴェールをあしらい、シンは家の中に消えた。

 その代わり、イヴェールが戸を閉め表へ出てきた。

 ついさっきまでの喧噪を忘れ始めた街を眺めている。

 若干の焦げを抜かして、街には騒動の痕跡は残っていない。ススも破片もない。

「いくら蝙蝠だからって、あの数を一瞬で消すなんて……」

「あの黒いの、蝙蝠って言うんだ?」

「もう大分前に使われなくなった監視用の機械よ。使神が使役していたくらいで、強度だってそれなりにあるのに……」

「えーと、使神って……」

「事実上の支配階級。天隷の、主人……」

 イヴェールの語尾が震えた。

 昨日の会話を思い出し、フェイははっとした。彼女の背に手を当てると、息が乱れていた。

「大丈夫だよ。使神って偉い奴なんだろ? こんなトコには来ないよ。それに、狙いはシンみたいだし。イヴェールじゃないよ」

「そう……だよね。私の方、見もしなかったもの」

「ね。家に入ろう」

 促し、家へ歩み出して一歩。

 たった一歩で、イヴェールは立ち止まった。彼女は、シンが踏み潰した蝙蝠を見ている。

「私……怖い」

 声が涙を含み、怯えていた。

「いつか、地獄が連れ戻しに来るんじゃないか、って……」

 どういうこと? とは、訊けなかった。


   *


 夜という時間帯より少し前。つまるところ夕方。

 街明かりは若干落ち、視界は昼間より悪い。

 ついさっき、イヴェールの驚くべき能力を見、今は表に出ている。

 彼女の左腕は倉庫だった。手の平に収まりきらない物も、触れると消えてしまった。三十分もしないうちに、家の中はスッカラカンになってしまった。

 何故そのようなことをしたかというと。

「今夜の行事は夜逃げ! 各自準備するように」

 と、家主の号令があったからだ。

 その家主は、

「ちょっと下見に行ってくる」

 と言い残し、上空へ浮上していった。この咒法師、飛べるらしい。彼にとって重力は、生活がしやすいために一応あるくらいの認識しかないのだろう。

 あっという間に闇に溶けて姿が見えなくなってから、数分が経った。

 何処へ行き、どのくらいの時間で帰ってくるのか訊いてない。訊いてないからこそ、こうして外で待ち惚けをしている。家の中にいても何も無いから外にいるのだが、やはり、イヴェールに椅子だけ出して貰って引っ込んでいた方がいいだろうか。このまま何時間も戻ってこないなら、尚更こうしているのは莫迦らしい。

 シンが去っていった空。真っ黒の空。何も無い、虚無。

 こうやって見上げることに、何か意味はあるのだろうか。闇以外が見つかる空は、あるのだろうか。

 何故か、胸が痛くなった。

「……ん?」

「どうかした?」

「や、なんか……落ちてくるような……」

 二人で見上げ、眉根を詰める。

 何か黒い物が落下してくる。

 今日の出来事を思い返し、咄嗟に腰に差してある銃に手を掛けたが、それはすぐに離した。

 蝙蝠ではない。もっと、大きな物だ。

 人型の、大きな……。

「シン! 寝穢いのも程々にしろよな!」

 フェイの大声にも反応がない。気絶しているのだろうか。それとも……。

「……ヤバイ」

 今のシンの状態がどうであれ、この落下速度は問題だ。頑張って腕を出したところで、フェイごとスプラッタな様を曝しつつ地面に埋もれてしまう。

「ちょっと、どうするの」

「どうするっていわれても、ねぇ……」

「そう、よね」

 イヴェールも考えは同じのようだ。どうにかしたくても、手がない。差し出す手も、ない。

 覚悟して、目を閉じた。このままの起動で落ちてくるならば、前方数メートルの所に落下するだろう。

 ――あばよ、シン。穴はちゃんと屍ごと埋めておいてやるから……。

「――……え……と」

 予想していた頃合いを過ぎても、物音一つしない。若干風は通りすぎていった気はするが、まともに落ちてこんな微風ということはあり得ない。

 恐る恐る片目を開けてみること暫し。視界一杯が、ぼやけた青色で一杯になっている。眉間がくすぐったいような気もする。

「シン!」

 イヴェールが何か言ったが、情報は暫く頭の中を彷徨った。

「よお、フェイ。死んでなくて残念だったな」

「ぬぉわぁぁぁ!」

 慌てて飛び退くついでに両目を開眼したフェイは、あぐらに腕組みをして浮いているシンを目撃した。

「もももももももう祟りに現れちゃったワケ?」

「残念ながら幽体離脱も金縛りも経験無いのね、俺」

「えーと、そう言うことはつまりこのこれのここにあるそのアレがそうああなっているこれは……」

「指示語で喋るな。しかもどう繋ぎ合わせても意味成してないし」

「つまりはえーと」

「おまえの妄想と願望の果てで俺を殺すな、莫迦」

「すっげ、生きてる!」

 色々通り越して気が抜けた。一年分くらい疲れた。座り込んでしまいたいくらいだ。

「心臓に悪いことやめてよ」

「悪い悪い」

 女の子にはすぐに謝るのに、こちらは莫迦呼ばわり。扱いの差が大きい。

「ちょっとドッキリなサービス。刺激はないとな!」

「んなサービス二度とすんな有害物質」

「だまれこぞう」

 ほら。睨むし。

 よくもまあ、こうもころころと表情を変えられるものだ。あまり切り替えスイッチをばちばちとオン・オフしていると、電球よろしくぷちんと切れるに違いない。そうなったら見物だ、と邪心が頭をもたげる。

「それで、何処まで行ってきたの?」

「すぐそこ。そういや、イヴェールは飛べる?」

「今は、もう飛べない」

「そっか」

 眉尻を下げて首を振るイヴェールは、かつては飛べたということか。飛べないのは、人間くらいのものだろう。そういうフェイ自身も飛べないが。そもそも、人間以外の種族がどれだけ居るのか、フェイの知るところではない。

「じゃあ、近う寄れ」

「いかがわしいわね」

「良く言われる」

 この男、笑顔で肯定した。

「ほら、フェイも来い」

 手招きした手が、地面を向いた。傷だらけの手。少なくとも肘辺りまで大小の傷痕があるのを知っている。その手がやることと言ったら破壊以外見たことがないのだが、何をするつもりなのだろう。

 見ていると、手を翳した当人の足元に直径三メートルほどの円陣が現れた。ただの円ではない。青白く光を帯びたそれは、咒法の陣だ。大枠の中には複雑な記号や図形が書かれている。

「これ、何の咒法?」

「いいから来いよ。駆け込み乗車は突き飛ばすぞ」

「もー、何って訊いてんのにー」

 訊いたときくらい答えて欲しい。仲間外れは嫌なので、シンの隣に駆け寄った。

 円の外周から、膝丈ほどの高さまで光が上がっている。風に揺られることはなく、独自の周期でゆらゆらと揺れている。

 広場か何処かでやればいいものを、道ばたでやっているので通りかかる人が好奇の目を向けてくる。気にしたら負けだ。

「一瞬だから、ここから出んなよ?」

「だからこれってなんなのさ」

「移動すんだよ。引っ越し先にな」

「引っ越し先って何処」

「着いてからのお楽しみ」

「肝心なトコぼかすんだから……」

 着けば解るというなら、待つとするか。一瞬と言うことだし。

 ちら、と横目でイヴェールを見てみた。表情は不安げ。掴む物を持たない手は硬く握られている。

 押し殺し、握り潰すかのように。

 地面から上がっていた光が眼前を通り過ぎていった瞬間、おかしな感覚に襲われた。

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