第20話
迷い惑わす戯言
空言極まる怨言
欲するは彼の至言
墓石のように虚ろになったクロードは、焦点を失って自室の机に向かっていた。何も見ず、何も考えが浮かばない。
数日間、殆ど同じ状態で居る。
ズタズタになった心が、形を失い飛散していく。日々、少しずつ散り、減っていく。
――何の為に、……一体何の為に……。
その言葉の続きには様々なフレーズが続いた。どれを繋いだところで、結局は尻切れトンボ。思考は完結しない。そのうちに、堂々巡りだった思考も動きをやめてしまった。
全てが無意味だと嘲笑して、止まった。
今まで一度も自分を嘲笑したことはなかった。他人をいくら卑下しても、自分をその対象にすることはなかったのに。
もう溜息も出ない。
残された半分の屑みたいな力の使い道など、何処にも見出せない。
無益な時間に漂うクロードが居る部屋に、重たい足音が近づいた。明らかに怒気を含んだものだが、クロードは意に介さない。
ノック。
返事はしない。
二度目のノックはなかった。断り無く扉が開くと、険しい顔をしたユンが入ってきた。
振り向くことはしない。どうせ文句を言いに来たのだろう。そのままユンの存在を無いことにして無視していた。
ばたん。
ドアが閉まる音。ユンの気配は部屋の中に残ったまま。
近づいてくるが、関知しない。足音が真横で止まったとき、
「おい! いい加減いつまでもウジウジしてんな鬱陶しい!」
突然胸倉を掴まれ、無理矢理引き立たされた。直前まで座っていた椅子は蹴り飛ばされ、壁に当たって転がった。
それでもクロードは無関心に顔を逸らす。
「あのな、今ここに至る結果は全部クロードが決めて招いたモンだろ? それを何うだうだ悩んでんだよ。ああ、そうか。今のクロードは思考停止か! 止まってて何が出来るってんだよ。それこそバカじゃねぇの?」
「……貴様に何が解る」
「解んねぇよ。クロードのことなんてなんも解んねぇ。だから無責任に色々意見出来るんだろうが。第一な、クロードのコピーでもない限り、おまえのことなんて誰もなんも解んねぇよ。解ってたまるかってんだ。けどな、解って貰いたくて解って貰えねぇって悩んでんなら、クロードのこと気にして塞いでるキアのことも少し考えろよな」
「キアが?」
この時初めてクロードはユンの顔を見た。頭を突き抜けていったその名前が、ユンの顔を正視させた。
「ほーら、どうせ全然知らねぇんだろ? これでもまだジメジメするんだったら、俺の持ち物出してさっさと部屋に立てこもれ。弱虫のクロードにはそれがお似合いだろ」
ユンはクロードを突き飛ばすように放した。その時蹴り飛ばされて倒れていた椅子に躓き、蹌踉めいて尻餅を付いた。
クロードの頭の中でユンの言葉がガンガン響いた。
――今まで一体、何がしたかった? 何がしたい? 今、何がしたい?
自問を繰り返す。ここ数日間とはまるで違う思考。
「シンに何言われたか知らないけどな、傷は抉っても全部正論なんだろ? だから動けなくなってんだろ? 何止まってんだよ。悔しかったら見返せよ。納得いくなら受け入れろよ。世界でたった一人ならずっとそうしてりゃいいさ。けどな、おまえは望んでなくても、誰かと関わってんだ。嫌な奴もいれば、心配する奴だって居る。独りになりたいなら消えちまえ」
こんな言葉を吐かれたのは初めてだ。強い口調も、ここまで強かったことはない。
いつもなら、前を向くように、宥めるように、諫めるように、辛抱強く降ってくる言葉が、今は握り込んだ拳だ。
躓き、しりもちをついた状態で、クロードはユンを見上げていた。見えない拳骨に殴りつけられ、呆然とするほか無い。
「消える前に、俺のものは返せよ。いいな」
言い放ち、ユンは部屋を出ると勢いよくドアを閉めた。
乱暴な音がして、部屋は隔絶された。たったドア一枚。それが途轍もなく厚い。
立ちはだかる絶壁のようで、鋼鉄の装甲のよう。
やるべき動作は簡単。立ち上がり、ノブを回し、引けばいい。それなのに、身体が動かない。何千何万と繰り返してきた動作が、今になって出来ない。
何故動きたい? 何故そこに行きたい?
答えは、……その答えは一体……。
動けないまま、動かないままで居た。
溜息を吐くと、疲労だけが身体に残った。
*
外に出れば不安が解消されるとでも思っているのか。
眼前に小さく見える光景に、シンは内心で舌打ちした。
こんな風に不用意に外に出ているのを見るのは何度目だろう。
自宅の前。まさに玄関先。そこにイヴェールとネノーアが居た。イヴェールは壁に背を付け、彼女が見る至近距離にネノーアが立っている。
イヴェールに抵抗するような素振りはない。表情までは見えないので何とも言えないが、少なくともまだどちらも手を挙げていないようだ。
そのままで居ろ。
速度を速め、何も始まらないことを願う。
今のイヴェールは身体のつくりが丈夫である以外は人間とほとんど変わらない状態だ。武器の一つや二つ持っていても、果たしてネノーアに対抗するだけの立ち回りが出来るかどうか。
フェイがその場にいないのは幸いだった。出来ればこのまま現れないで欲しい。面倒が増える。
はっきりと彼女たちが見えるまでに近づいたとき、ネノーアがシンに顔を向けた。悪巧みを隠そうともしない口元で、笑っている。一度イヴェールに向き直った後二言三言何か言うと、再びシンの方へと向いた。
「遅かったじゃなぁい。人間が護れても、もっと大事なものが護れなかったら意味無いじゃなぁい」
「うるせぇ。卑怯者に上から物言われたくないね」
「卑怯は元々貴方の持ち物でしょぉ?」
「じゃあ俺の卑怯返せよ」
「名前書いてないからどれだか判らないわぁ」
「全部寄越せばいいだろ」
「やーよ。使い勝手いいんですものぉ」
たとえ返却可能な物だったとしても、ネノーアが素直に従うことはない。
様子を窺うためだけの会話だ。意味はない。
その一方、意味ありげな笑みをして、ネノーアはふわふわと浮いている。こんな時も地面に足を着けていない。そんなに頑張って浮かばなくても、既に浮いているというのに、ご苦労なことだ。
「ネノーアはもうおいとまするわぁ。またねぇ」
「コラ! 勝ち逃げしますみたいな顔してんじゃねぇよ!」
言葉以外では何も絡んでくることなく、あっさりと身を引いた。機嫌の良さそうな笑みさえ浮かべて、ふわりと綿が風に靡くように緩やかに飛んでいった。
肩すかしを喰らった気分だが、これ以上振り回されないことが確定したのは喜ばしい。
後を追うことはしない。この後は住処に戻るだけだろう。それよりも、何をしにわざわざここまで来たのかということの方が重要だ。
「イヴェール。大丈夫か? なんかされた?」
彼女の唇が心なし青いように見える。一見外傷はないようだが。
「おい。大丈夫かよ」
「え……うん。大丈夫。怪我とか、は、ないよ」
「でも、何もなかったって訳じゃねぇな、それ」
反応がおかしいのは明らかだ。
目線の先がせわしない。青い唇は乾ききってかさついている。
「あの女に何言われた?」
「なんでもない。大丈夫だってば。いきなり押しかけてきたから、びっくりしただけ」
「居留守使えばいいのに、わざわざ外に出た理由は?」
「あの女が開けたのよ。中に入られたらたまらないから、それで……」
確かに鍵は閉めなかった。これはいつものことだ。
だが、代わりの結界も張らなかった。そこにつけ込まれようとは。
「ホントにそれだけか? 嘘だったら泣かすぞ」
凄みを利かせても、イヴェールは首を振るだけだ。
「ホントだよ。……この傷、どうしたの?」
「頭に一発喰らっただけ。傷はもう塞がってる」
「だけ、って。貴方こそ大丈夫なの?」
「なに。頭イカレてないかってこと?」
「茶化さないでよ。服もボロボロだし」
「あー、これ、もう捨てる。二回も地面に落ちたから背中痛ェ」
「そんなにやり込まれるなんて、また頭痛?」
「いや。人質取られてた」
「誰?」
「ツィア」
一言で、イヴェールはすべてが分かったようだ。彼女は言葉を失くしたまま、取り敢えず中へ、とドアを開けた。
促されるまま、中に入った。その途中でぼろに変わったコートを脱ぎ、ゴミ箱へ投げる。重たい音がして綺麗に収まった。
途中からあからさまに話題をすり替えられたのが少し気に入らない。あんなに分かり易く動揺しているのに、何もなかったはずがない。
だが、元々何の関わり合いもないイヴェールが、ネノーアに弱みを握られることなどあるだろうか。だがそこは女同士。男には想像が付かないことが格好のネタになる可能性もある。
「二人で何して……って、その怪我、どうしたの?」
丁度降りてきたフェイが瞠目した。
そんなに酷い有様なのか。引きつるような感覚がするこめかみに手をやると、固まり始めた血液がかさかさと崩れていく。
「フライングされた」
「誰に? ネノーア?」
「他にいねぇよな」
苛ついている。まともに受け答えする気が起きない。雰囲気が悪いことを悟ったのか、フェイもそれ以上口を開かなかった。訊かなくても状況を把握できたのかも知れない。
どちらにしろ、これ以上会話をしない方が互いのためだ。
「シャワー浴びてくる」
言い捨てて、本日二度目のシャワーを浴びに浴室へ入った。
湯をかぶってから、着替えを忘れたことに気が付いた。
*
夜。具合が悪いと言って、食事の片付けもそこそこに、イヴェールは自室に引き上げた。遅い昼食と夕飯は食べた気がしなかった。
お風呂は後で入ろう。早々にベッドに潜り込み、目を閉じる。
眠ったつもりはなかったが、次に目を開けると数時間が経っていた。もうすぐ日付が変わる。
妙に目が冴えていた。寝付こうとしてそのまま横になっているのに、意識は現に留まったままだ。
……ねえ、いいと思わない?
耳元で聞こえたような女の声に、イヴェールは飛び起きた。
無論、部屋には誰も居ない。
ベッドの上で膝を抱える。明かりはサイドテーブルのランプだけ。
……憎いんでしょ? 殺しちゃいなさいよ。
暗がりの中、イヴェールは身体を震わせた。
……今なら出来るわよ。だって、力を失くしちゃったんですもの。巧くやればあっさりいくわ。
耳を塞いでも声が聞こえる。
あの女の声。あの時言われた言葉。
ネノーアという女が、囁きかけるように言ってきた。違和感があったのは、幾度か聞いたような舌足らずな喋り方ではなかったことだ。
……痛むんでしょう? あなたの心。憎くて、許せなくて、消してしまいたいでしょう?
一方的に言葉を押し付けられた。聞く耳を持つものかと思うほど、深部に囁きが響いていった。
……消してしまえばいいじゃない。
言葉の一つ一つは大したものではない。なのに、それが重なっていくと判断が鈍った。
惑わされるのは、現に迷っているから。
……要らない物は、消してしまえばいいのよ。そうすれば、あなたの心も晴れるんでしょう? 悩むこと無いわ。
家の中に閉じこもっていれば、意識を遠ざけて眠ってしまっていれば。触れずに済む。考えなくて済む。
覚えていない時点で根拠はない。それなのに、まるで本能のように使神が憎い。
憎い。
自らその意識を持ってしまったあと、頭が熱を持った。耳の奥がわんわんと鳴っている。こめかみが脈に呼応して締め付けられる。
……楽になりなさい。
気が付くと、自室を出て階段を降りていた。音を立てないように用心深く板を踏む。音よりも気配に鋭い家主が気が付かないことだけを祈り、玄関に向かう。
家中の明かりは消えている。時間を考えれば当然だ。
真っ直ぐ玄関へ向かう。
ドアノブを回し、最小限の隙間から表へ出る。最後まで気を抜くことなく、殆ど音を立てずにドアを閉めると、イヴェールは駆け出した。
*
「嘘つきめ……」
男は起きあがり、黒髪を掻き上げた。
*
一度も行ったことのない場所だったが、通るべき道はわかっていた。
それもネノーアが教えてくれたものだ。
疑問は何も浮かばなかった。爆発する衝動だけに任せて人通りが無くなった道を走った。
飛べればいいのに。地面を駆け回らなければならないことが煩わしい。以前のように飛ぶことが出来れば、数分で目的の場所へたどり着ける。しかし、どんなに舌打ちしても、無い物ねだりだ。
暫く走り続けたが、やがて息が上がった。苦しくなり、速度を落とし、やがて歩き始めた。
肺が痛い。こんなにも体力がなかっただろうかと首を傾げるほど呼吸が辛い。
こうしている間も出来るだけ距離を詰めようと、足だけは動かした。
道はわかっていても実際に通るのは初めてだ。その所為で距離感が掴めず、想像していたよりも道のりが長い。
溜息が出た。
「何……してるんだろ」
自分の言葉に、我に返った。
シンに言われたはずだ。使神を一人殺したところでどうなる、と。クロードは、使神であるだけで何の関わりもないかも知れないのに。思い出せない状態で、何の決め手もないままに、憎しみだけでここまで走ってきてしまった。
この憎しみはどこから来るのか。それがわかれば、きっと惑わされることもなくなる。どうでも良い言葉が一々引っかかってくることもなくなる。
でも、それはどうすれば知ることが出来るのか。
結局思考は堂々巡りした。
取り敢えず、家に帰ろう。昼間でも襲われる可能性が高いのに、夜ならば尚更だ。そして、夜は誰かの助けなど一切期待できない。二度シンに助けられたが、毎回幸運はないはずだ。
「こんな時間に何処に行く気だ」
視界の外からの声に、イヴェールは足を止めた。
ストレスのかかった、低い声。既知のもの。見るまでもなく誰だか判る。振り向くことで、確信する。
クロードだ。
目の色は影になって判らないが、金の髪は街灯の下にいなくてもよく目立つ。
心臓が、一度大きく跳ねた気がした。
何故、声に足を止めてしまったのか。
後悔を感じる前に、思考が短絡化していった。
取り戻した理性が、崩れていく。
「不愉快にさせるだけだから、もう行く。つまらん奴らに絡まれる前に早く帰……」
「消してやる……!」
右手には既に短刀がある。一度シンの肩を貫いたのと同じものだ。
クロードは後退しかけて、動きを止めた。広くない通りの壁を背に、眉根を詰めて立っている。イヴェールの姿を見据え、逃げようという素振りはない。
間もなく的に辿り着く。狙いはぶれない。左胸の一点。
標的は逃げずにそこに留まっている。少しも動かない。都合の良いことだ。このまま真っ直ぐに狙っていればいい。
殺してくれと言わんばかりだ。言われなくとも殺してやる。たった一人でも使神を殺し、溜まった澱を少しでも減らすのだ。
直前に抵抗がなければ、すんなりと目的は完遂する。ネノーアの言ったとおり、あっさりと。
簡単すぎる気がする。何故彼は動かないのか。逃げようと思えばいくらでも逃げられる。応戦しようと思えば、彼の方が遙かに強い。しかし彼は、不動という選択肢を選んだ。勝てると思わせるためか、若しくは、……勝たせるため、か。
何故勝たせる必要がある。同情や哀れみで命を投げ出すとは思えない。
生きるつもりがないのか。
この男はもう、諦めている……?
「どうした。殺さないのか」
クロードの肩を押さえつけ、凶器を持った右手は振り上げたまま、イヴェールは動けなくなっていた。
過去のことにクロードは関わりすらないかもしれないのに、彼は何らかの理由で殺されるつもりでそこに居る。ただ無差別に使神を殺戮することにある意味とは、どの程度の物なのか。きっと、一笑に付す価値もない。
「なんで、動かないのよ」
「殺したそうだったからな」
血色の悪い顔色で、表情はない。いつもの声から抑揚を削って、クロードは他人事のように言った。
莫迦にされているようで、イヴェールは眉を顰めた。
「相手が殺したそうなら、あなたは黙って殺されるの? よくそれで今まで生きてこられたわね。そんなに誰にも好かれる聖人君子には見えないけど」
嫌味に対して、クロードはあくまで無表情だ。
「怨まれる方が得意だ。好かれるのは苦手だ。だが、今ではもう、どうでもいい」
目線が逸れ、眉尻が下がる。やっと現れた彼の表情は、疲弊、だった。
「なにがどうでもいいのよ」
「葛藤するのに疲れた。出ない答えを考えるのも、優柔不断な心に振り回されるのにも疲れた。楽になれるなら、楽になりたい……」
未だ振り上げたままの手を、落ちる場所に突き立てたい。殺意が蘇る。抱いた瞬間に手は動いてしまっていた。
がつん、と手に固い感覚が響いた。切っ先は肉ではなく壁を削って僅かに埋まっている。位置はクロードの首のすぐ横。数センチ内側だったのなら頸動脈を切断していた。そんな状況にあって、クロード間眉一つ動かさない。
「そんなの……ずるい」
「ずるいか」
「私があなたを殺せば、あなたは楽になる。でも、私はどうなるの? 本当に楽になれるの? あなたという使神を殺して、湧いてくる得体の知れない怨嗟は消えて無くなるの?」
そんなに単純ではないからシンは止めてくれたのではないか。
莫迦だ。
手に力を込めると、鈍い音がして壁が削れていく。
どうしようもない部分につけ込まれ、ただでさえ惨めなのに、更に惨めな様になっている。これ以上堕ちてなるものか。
イヴェールは壁からナイフを引き抜いた。
「重荷になって、後悔するだけなら、殺さない……。過去を取り戻せる日が来たとして、それでもまだあなたも含めて憎むようなら、もう一度この右手を振り上げる。……一人だけ、楽になんてしてあげないんだから……」
ナイフは仕舞う。代わりに、人差し指を突きつけた。
対するクロードは目を伏せて首を振る。
「それは残念だ」
彼の態度に、イヴェールは首を傾げた。
こんなにも覇気のない、塩に漬けられたような雰囲気の男だっただろうか。始めは落ち着いている所為だと思っていたが、どうも違う。
余裕ではなく、本当に殺されることを望んでいたのか? そうだとしても、何故。
「結論は出たか?」
背後からの声に、思わず背中が震えた。恐る恐る振り返ると、声の主が腕組みをして立っていた。いつからそこにいたのか、今まで全く気が付かなかった。暗がりに入っていて表情はよく見えない。今度こそ突き放される。少し前まであった殺意を押しのけて、捨てられる恐怖が口元まで昇ってきた。
言い訳など無い。
しかし、ありったけの言い訳をして縋り付きたい。
この感情は何だろう。
「あんたが殺されたら言い訳しなきゃいけない奴が二人くらい居るからな。そんな面倒臭いことしたくないしさ。悪いね。見たくもない顔見せて」
シンは憎まれ口を叩きながら影から姿を現す。一度寝た後に、起きて追いかけてきたのだろう。見慣れない黒のコートの中は、寝間着用のTシャツだ。
「別に、貴様でもいいんだ」
「面倒臭いことしたくないって言っただろ。それに、俺はイヴェールみたいに親切じゃねぇからな」
シンの手が肩を抱いてきた。見上げれば、彼はクロードを見据えて笑み、眼を少し細めている。
「もっと苦しめよ。誰が殺してやるもんか。楽できるなんて思うな」
何処から見ていたか知らないが、シンは全て見通しているようだ。やはり、クロードはイヴェールの手にかかることを望んでいたらしい。
死を考えるような性格には見えない。それに、最後に会ったときには、こんな失速した印象はなかった。姿を見ていなかった間に、一体何があったのか。
「じゃ、うちのお嬢様、貰ってくぜ」
もやもやとした疑問は晴れないまま、クロードを残し、抱かれた肩から攫われるようにしてその場を後にした。
時折振り返ったが、クロードはその場から動く様子はなかった。道を曲がり見えなくなるその寸前まで、彼は動かなかった。
この後、変な気を起こさなければいい。気にしたところで、この後を知る由はない。
「あいつもな、おまえと一緒で、落ち着く場所が無くて彷徨ってるんだよ。だから、持論も理念も矜持も揺らぐ」
一つこうと決めたら揺らがずに直進できるシンだからこそ言える事のように思う。
無理をしないと追いかけられなくて、無理をしても並ぶことも出来なかった。無理をした結果、破綻して、こじれた思考回路は据わりが悪く、統一性のない行動を呼ぶ。
「手を止めたのは褒めてやる。後は、自分で出した答えに自信を持て。そうじゃないと、また揺さぶられて我を忘れる」
そう言って、頭を撫でられた。
「貴方みたいに強くなんて、なれないよ……」
「別に、強くなくたっていいじゃん」
「でも……」
「自信も持てないんだったら、せめて、揺らいだら動く前に話せよ。聞いてやるし、必要なら止めてやるから」
と、肩をそっと叩かれた。
優しい触感。
途端、ぶわりと涙が込み上げて、止めどなく溢れ始めた。
「やめろよ。俺が泣かしたみたいじゃん」
そうは言われても、簡単に止まるものではない。
突き放されるに違いないと思っていたのに、真逆のことが起きている。無理をして優しい言葉を作っているだけかも知れない。たとえそうでもいい。欲しかったのは、この言葉だったのだから。
何と単純なことだろう。
問題の根本は解決していないのに、言葉一つでこんなにも胸がいっぱいになる。
言葉の所為だけだろうか。彼が言ったから、というのは関係ないだろうか。
止まらない水滴を手で、袖でと懸命に拭う。
「ゆっくり帰ろうぜ。道は長い」
「……うん」
――きっと、そうなんだ。
漸く理解できた。そう思う。
堕ちてしまいたいのかも知れないと思ったあの日から数週間。
――私は、堕ちてしまったんだ……。
深くも鮮やかなあの蒼に。
*
イヴェールは顔を洗いに行っている。シンはコートを脱いで自室に入り、ベッドヘッドに凭れていた。
クロードがあの場にいたのは偶然だ。眠れずに、人通りがないこの夜中に街中を徘徊していたのだろう。鉢合わせたあの場でイヴェールが刺してしまわなくて本当に良かったと思う。クロード側にいる者もそうだが、彼女自身も傷付くだけだ。傷付いた女の末路の形を一つ知っているだけに、止めに行かずには居られなかった。結果として何も無く、彼女は彼女なりに答えを出した。悪くない。
そもそも、ネノーアがそそのかしさえしなければ今夜の面倒事は無かったはずだ。
ネノーアにとって、囁いた言葉の結果がどうであれ、関係なかっただろう。せいぜい、面白くなればいい、程度だ。
不愉快なことをしてくれる。やっと大人しくさせたと思ったのに、余計なことをしてくれた所為で、寝間着で街をうろつく羽目になった。挙げ句、泣かれてしまってはもう敵わない。
まあいい。どれも済んだことだ。
寝てしまおう。サイドテーブルの明かりを消そうとした時、ノックも無しに部屋のドアが開いた。
イヴェールだ。
薄明かりではよく見えないが、確かめるまでもなく目を腫らしているに違いない。
服が変わっている。外にいたときは普段着のカットソーにスカートという恰好だったが、今は部屋着用のワンピースだ。胸元にレースがあしらわれていて、イヴェールが気に入って良く着ている。シャワーも浴びてきたらしい。ほんのり湯の香りがする。
彼女は、ワンピースの生地を手のある位置で握り締め、少し俯き加減で立っている。
恐い夢を見たといって初めてこの部屋にやってきたときも、始めはそんな風に入り口にいた。
「なんだ。早速か?」
言いにくいことがあるから部屋まで来たのに黙っている。経験からそう判断し、声を掛けたが彼女は首肯しなかった。
「違うんなら何だよ。眠れないだけか?」
いつもと様子が違う。最近は無断で部屋に入って勝手にベッドに潜り込むなど、躊躇わなくなっていた彼女が、何の用もなく立っている理由が解らない。
「用がないなら寝るぞ。おやすみ」
一方的に切り上げ、スタンドの明かりを消す。ベッドに潜り、上掛けを口元まで引き上げる。
その上掛けが、強引に引き剥がされた。
身体に上から重みが掛かり、顔に手が触れてきたかと思うと、口を塞がれた。
眩暈がする。貪るようなキスに呼吸がままならない。
硬直した両手はどうするべきだろうか。彼女を突き放すべきか、抱き締めるべきか。
悩んでいる間に彼女の顔が離れていった。だが、馬乗りになったままそこから退こうとはしない。
「天隷の本能には喰われたくないって言わなかったかな」
「天隷の本能じゃない。女の本能よ」
「それって、俺個人に向けられたものって解釈していいわけ?」
「……そうよ」
困ったことにならなければいいと思っていたが、思ったときには手遅れだったようだ。
同じ感情に接したのはこれが二回目。一回目よりも、今回の方が真っ直ぐで、率直。分かり易くて結構だが、その代わり、かわしにくい。
「俺の気持ちはどうすればいいのかな」
「据え膳が嫌なら、レイプされたとでも思ってて」
「それ、本気?」
「冗談で男に乗れるほど軽い尻じゃないの」
「もっと段階ってもんがあるだろ。一緒に暮らして、一緒に寝て、キスして……って、順番は酷いけどさ、次はほら、好きになる、とか」
「貴方にそんなこと望んでない。愛してもらえるなんて、思ってない」
だから、強引に身体だけ繋げようというのか。こんな所だけ天隷らしい。恋愛の仕方をまるで知らない。隷属の証明と愛情の表現が一緒とは。
「もしかして貴方、初めて?」
いきなり膝を折るような問いが。
「何を訊くかと思えば……。童貞が良かったらフェイを襲えよ」
「それならやり方くらい知ってるでしょ」
「退く気はないわけね……」
溜息が出た。
愛情が無くても行為に及ぶことは出来る。そのことに何の罪悪感も疑念もない。人間や他の種族がどうかは知らないが、それが悪いことだという倫理観はない。相手が同意している時点で、問題は無い。
躊躇う理由は、主に二つ。一つは、これ以上に面倒臭いことになるかもしれないという懸念故。もう一つは、シンもイヴェールも今は昔の自分を知らないが、思い出す日が来たとき、特にイヴェールが今夜のことを後悔するかも知れないという懸念。
どちらにしろ、傷付くのは彼女だけだ。それでもいいと言われたら、シンに断る理由はそれほど無い。
「痛い目見るのも、後悔するのも、おまえひとりなんだからな?」
「貴方を引っ掻いて消えたりなんてしない」
そう言って笑むのは、理解の証拠か。
まあいいかと思ってしまうのは、刹那的に生きるが故の短絡なのか。
シンは自分からイヴェールの頬に触れた。数十分前までは涙に濡れていた頬。今は僅かに紅潮して火照っている。
空いた方の手で彼女の腕を掴む。膝を立てて、身体を返した。一瞬で上下が逆になる。
「そういえば、昼間、嘘ついただろ。何もなかったなんて、嘘ばっかり」
「……ごめんなさい」
「嘘だったら泣かすって言ったよな? お望み通り、泣かしてやるよ」
理由が欲しかったわけではない。
こんな時にも、いつもの癖が出ただけだ。
悪者なんて要らない場所で、一体何を被ろうとしているのか。
――莫迦らしい……。
浮かれた熱に、酔ってしまおう。
柔らかい女の身体をそっと押さえ付け、首筋に顔を埋めた。
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