第19話

 答えを出すとは

 自分に見合った言い訳を見つけること

 自分で頷けるように言い含めること



 これは寝過ぎではない。

 別の原因を持った頭痛がする。

 痛みに揺すられ、シンは目を開けた。横目で時計を見ると、再び寝入ってから二時間と少し経っている。

 半身を起こし、右側頭部を抑え付ける。じわりとした痛みが加えられた圧によって広がっていくように感じた。

 近頃、頭痛がするときは良い予感がしない。

 痛みを忘れるためにもう一度眠ろうかと、一度考えた。だが、三度寝は流石に怠い。

 寝癖を通り越して鶏の巣のようにぼさぼさになった頭を手櫛で梳きながら、ベッドからそっと降りた。

 イヴェールはまだ眠っている。

 空腹はまだ遠い。腹が減るまで寝かせておくことにした。それに、彼女は日々の睡眠時間にムラがある。何も無いときはゆっくり寝ていればいい。

 着替えを持って、部屋を出た。

 洗面所の鏡を覗けば、色男の黒髪は好き放題に跳ねている。ちまちま直すよりもシャワーを浴びてしまった方が手っ取り早い。顔も洗えるし、眠気も覚める。やはり着替えを持ってきたのは正解だった。

 手早く服を脱ぐと、とはいえ下だけだが、それは洗濯機に放り込み、タイルに足を載せた。つま先立ちになることはなく、ひたひたと氷原よろしく冷えきったそこを歩く。カランをひねれば、こちらも寝惚けているのか、少ししてから湯が勢いよくやってきた。

 目を閉じ、顔を上げたまま、大粒で降ってくるシャワーに打たれた。

 痛みが拡散していく。顔が、胴が、指先が熱を取り戻すと同時に、頭の締め付けが緩んでいく。

 頭痛が無くてもこの感覚は心地良い。

 血管が拡張し、筋肉が弛緩し、思考が融けていくこの感覚。

 何にも縛られていないはずなのに、解放されていくような不思議。

 全身に血が巡ったのが解ると、後の作業は簡単だ。顔を洗い、髪を洗い、身体を流してそれで終わり。湯船に長く浸かるのは好きだが、シャワーを長く浴びるのはそうでもない。立ち続けるとは落ち着かないものだ。ゆっくりしたいなら湯船かベッドに限る。

 やっと温まったばかりの床をひたひたと踏みつけ、風呂場から出た。

 下だけ穿き、髪をざっと拭いたバスタオルを肩に掛けて居間に向かった。着替えのシャツをソファに放ると、テーブルに置いてあったタッパから、昨日イヴェールが焼いたパウンドケーキを一切れ取り出し、口に咥えた。

 茶色のケーキはココア味。甘さ控えめで、シンの口に良く合う。

 もぐもぐと手を使わずに食べ進みながら窓辺に寄り、カーテンを開けた。暗い空が明るくなっていることはないが、砂嵐はない。フェイが自室に戻るまでの間に起きていた砂嵐は、シンの右手が作用した現象だ。そもそも、ツィアにおいて外出できないほどの砂嵐など起きない。空が少し煙るくらいが限度だ。

 結論を言えば、無知を利用して騙した、ということだ。

 答えの片鱗が見えたからと浮かれて飛んでいっても良いことはない。だから止めた。やめろと言えば角が立つ。だから天候の所為にした。

 回りくどい、気遣い。

 不似合いだ、と、カーテンを元に戻しながら自嘲した。

 一つめのパウンドケーキを完食し、二つめを取りだし、同じように咥える。

 何度か咀嚼したとき、近づいてくる気配を感じた。口を動かすのをやめ、気配の正体を探るべく意識を集中させる。

 先日の機械人形ではない。まるで格が違う。数は一つ。遙か上空を、こちらに向かってゆるゆると飛んでくる。

 嫌な予感は当たった。最近予知能力まで身につけたらしい。ただし、効力は悪い未来に限る。

 折角の美味しいパウンドケーキ。出来ればゆっくり味わいたかったが、許してくれないらしい。食べ始めたばかりの二つめを口に押し込み飲み込むと、口の端を指で拭った。食べかすを舐め取りながら、

「……あの女……この辺、更地にする気かよ」

 この土地に思い入れはない。だが、家を灰にされるのは困る。

 それに、巻き添えを食って死ぬ人間が出れば、ますます住みにくくなる。ただでさえ面倒が多いのに、加減を知らないじゃじゃ馬に荒らされるのは願い下げだ。

「あーあ、もう、こっちから出向いてやろうと思ってたのに、そんなに俺が恋しかったか。ん?」

 冗談を零しながら、ソファに放ったシャツを羽織る。ボタンは留めずに、いつもの黒のコートを着るとドアを蹴り飛ばし、外に飛び出した。

 騒々しい音を立てたドアは開け放したときの勢いを借り、一度全開になった後、当然の流れのようにバタンと音を立てて閉まった。戸締まりはしていないが、この際構っていられない。破壊魔より泥棒の方が安全だ。

 シンはもう空にいる。外に出た瞬間には既に足は地面から離れて風を切っていた。

 速い。

 迎え撃つ勢いでやってくる敵へと飛んだ。


   *


 やってきたのはネノーア一人だった。

 気配から分かっていたことだったが、少し意外だ。

 一人でやってきて歯が立つと思っているのだろうか。

 ある程度近づいたところで、シンは空中に静止した。シャツのボタンを留めながら、相手がやってくるのを待つ。

 その間、足元の様子を流し見た。

 命が密集する場所には違いない。もっと先へ行けば何も無い土地があるが、そこまで誘い込むのは恐らく無理だ。派手にやるなら人気のないところで、と、気が使える女ではない。むしろ、巻き込むことを前提に好き放題やることだろう。

 気に病むことなど無いのに。

 もう一人の自分が呟く。

 誰が死のうと、誰が苦しもうと、関係ない。好きにやればいい。それがおまえの性だろう。

 なあ、と肩を叩かれる。

 間違ってはいない。ボタンを留め終わり、コートのポケットに手を突っ込む。

 でもな、と反論。

 今ここに立っている人格は、人死にを好まない。この身一つで護れるのなら、護って見せたいと思う。たとえ、一つの感謝もなくても。何も知らない者達の白眼視が変わることがなくても。

 だが、背面に広がる空間は広い。全てを背負い込むだけの力を、右手が許さない。

 幸い、頭痛は殆ど引いている。無理は出来るが、いつぶり返すかわからない持病を抱えた状態で抱え込むには、この世界は広すぎる。

 両手を広げて約百八十センチ。眼下には無限の空間。護れて一キロ四方。死ぬ気ならば二、三キロ四方。今のシンにはそれが限界だ。

 顔を見に来ただけ、という可能性は捨てておこう。反応が鈍る。

 彼女の到着には思ったよりも時間が掛かった。焦らしているつもりか。やがて、五メートルほど前方にネノーアが静止した。

 相変わらず重たそうなドレスに身を包んでいる。地上からスカートの中が見えてしまわないのかと思うが、恐らく尋常ではないフリルが影を作って隠していると予想。どのみち今居る場所はかなりの高度で、見たくても見えない。そもそも、見たいと思うかが疑問だ。無駄なことにカロリーを消費してしまったことを反省。

 何故か、彼女は真顔で首を傾げた。

 何事かと黙って待っていると、一人何かに納得したネノーアはしきりに首肯しながら、

「あらぁ。いつもみたいにチャラチャラしてないから判らなかったわぁ」

 そういえば、髪を洗い晒したまま、いつものエクステンションを始めとするアクセサリを着けていなかった。どおりで風を切っていて抵抗が少なかったわけだ。

「素のままの方がいい男だろ」

「タイプじゃないから関係ないわぁ」

「良さが判るだけの目を持ってないだけなんじゃねぇの?」

「自滅したい人向けよねぇ、あなた」

 言いたいことを言ってくれる。不幸を招聘する趣味はない。

「お付きも付けないで何しに来たよ。遊んでやるほど暇じゃねぇんだけど」

「その割に血相変えて飛んできたじゃなぁい。あなたの方が構って欲しかったんじゃなぁい?」

「まさか。俺は自分の欲望満たすので手一杯なんだよ」

「食欲と睡眠欲以外ちゃぁんと満たせてるのぉ?」

「えげつないこと訊くじゃん。おまえもそう言うトコあるんだ。意外」

「シンに意外って言われる方が意外だわぁ」

 完全におしゃべりの姿勢だが気は抜けない。相手は楽しそうにしている。こちらはそうではない。お引き取り願えるまで、この場を動くわけにも行かず、僅かに苛ついた。

「そう言えばぁ、腕、怪我したんですってぇ? あの子達、それなりに優秀だけどぉ、あなたが大怪我するほど強かった覚えがないのよねぇ」

「俺が手の内開かすほど莫迦に見えるか?」

「見えないから煽ってるんじゃなぁい。その腕の限界って、存外近くにあるのかしらと思ってねぇ」

「試しても良いけどよ。試した瞬間、後悔するのはおまえだぜ?」

 さあ、どう出る。

 手はまだポケットに収めたままだ。しかし、戦う準備は出来ている。

 在る程度知り合っている間柄だと、これだからやりにくい。知られていることは隠せない。知られていない部分と力量差でどれだけ優位に立てるか。

「丁度良いわぁ」

 ――乗ってきた……?

「ネノーア、すっごく暇だったのよぉ。試させてぇ。そして、後悔させてぇっ!」

 こういう形で乗ってくるとは予想に反する。準備を怠らなかったことだけが幸いした。

 ネノーアは風に靡くような動きで右手を前へと突き出した。瞬間、蒼の力が放たれる。

 それに相対するシンはポケットから手を出して伸ばすに留まり、術は放たない。

 一秒と経つ前に傷痕にネノーアの術が当たった。

「……!」

 衝撃。

 ――重い……!

 予想外のことが立て続くなど有り得ない。それでもこの重みは現実の物だ。

 彼女が強くなったのか、自分が弱くなったのか。疑問に思っている間も圧は腕に負担を掛け続ける。術は放っていないが、遠慮のない破壊の力を抑えることの負荷は避けられない。

「どうしたのぉ? 防戦してやり過ごすつもりなのぉ?」

 笑い声を鼻から零しながら、ネノーアは一度放った術に力を送っている。はじき返されまいとする欲は何処にもない。涼しげな顔をしている。それなのにこの重圧。

 ――見くびったか……。

 傷を負わずにあしらえる相手ではない、ということだ。

 食い込んでくる光球を、力を込めて握り潰した。蒼の光が、黒の空に霧散する。

 手に付いた傷は小さい。身体の波長も乱れていない。今なら戦えそうだ。

「血糖値が下がってただけ。おまえが急かすから朝飯食ってないんだよ」

「昼も過ぎてるのに寝てた貴方がいけないんじゃなぁい」

 見透かされている。乾いていない髪に引っかけてきただけの服という有様では無理もないか。

「あぁ。そうねぇ」

 何かを思いめぐらせたネノーアは、一人呟いた。

「その位置にいれば、後方一、二キロは護れるものねぇ。そっかぁ。じゃあ……」

 す、と視界からネノーアが消えた。

 思わせぶりな口調に下方に移動したかと思い目線を落とす。だが、それらしき影はない。

「護ってみなさいよぉっ!」

 卑怯な手に出れば、街中で術を乱発すればいい。建物は密集しているし、三百六十度全方位は護れない。ネノーアは汚い手に出るという思い込みがあったことは確かだ。だが、まさか上から攻撃してくるとは。

 足元全てが防御対象。そして、眼前、

「ていっ」

 軽い掛け声を合図に、ネノーアは両手で抱えるほどの術を全身を使って投げ落とした。

 シンは奥歯を噛んだ。

 避けられない。

 打ち返せない。

 こんな板挟みは初めてだ。

 巧く相殺できる自信がない。そんな細かい仕事は性に合わないのでしたことがないのだ。

 歯痒く思っている間に、先程とは比較にならない質量を持った球体が、まさに落ちてきた。

 何の策もないまま、シンは両手でそれを受け止めた。比較にならない重みがのし掛かってくる。一気に数メートル、地面に向かって後退した。踏みとどまろうとするが、じりじりと押されて止まれない。

「こんなデカイの、人間の世界で使ってんじゃねぇよ……!」

 住む生き物と同じく、世界もまた脆い。破壊の力を使うことを想定されていない世界は、呆気なく壊れる。少なくともここでは、ツィアでは、無闇に巨大な力を使うことは許されない。

 世界と心中するつもりならば話は別だが。

 腹立たしい。その怒りさえも右手に込めて、絶妙な加減を施す。

 記憶にある生の中で初めての作業は、蒼の爆発と共に終了した。結果は成功。余分な力が闇に抜けていったが、このくらないならば問題ないだろう。ただ少し目が痛い。至近距離で強い光を見た所為で、視界が白んでいる。

 反撃のために、態勢を整える。その横を、何かが落ちていって……。

「……って、おい!」

 横目で他人事のように流そうとしていたシンは、慌てて落ちていくそれを追いかけた。

 それ、とはネノーアが放った次なる攻撃。

 他人の迷惑など何一つ顧みない、利己の塊。

 その破壊力に対して、ここは弱すぎる。そして、壊せるものが多すぎる。

 ――だから嫌なんだ……。

 追いつき、跳ね返せば次が来る。シンの反応など待たずに、矢継ぎ早にネノーアは術を投げつけてくる。

 冗談抜きに防戦一方だ。躊躇っている間は、この状況は打開できないだろう。

 だが、何が出来る。

 自問してまた奥歯を噛む。

 存在する力に耐えられない空間で、無遠慮な無法者相手にどう対処すればよいというのか。

「しまった」

 一つ、拾い損ねた。

 気が付けば高度は落ち、かなり街に近づいてしまっている。

 まんまと策に嵌ったというわけだ。

 再び地面に向き、未回収の一つを追った。

「……ん?」

 街の一角、見たことのある顔が上を見上げて立ちすくんでいる。人間の女。確か、名をパオラと言っていた。

 このままだと、取り逃がした一つは彼女の近くに着弾する。直撃はしないまでも、建物に当たれば瓦礫が飛散する。それに巻き込まれたら人間の身体などひとたまりもない。

「寝覚めが悪くなるじゃねぇかよ……クソッ」

 知らなければまだ良かったのに。知ってしまったが最後。

 落ちる。新手の自殺になりそうなスピードで、ほぼ垂直に降下する。

 ――間に合え……。

 聴覚は風を切る轟音で一杯だ。他には何も無い。自前で集中線が現れるほどに百分の一秒単位で視界に地面が迫る。たとえ間に合っても体勢を変えられなければ、頭から地盤に突っ込むことになる。

 パオラは恐怖の類で瞠目したまま、微動だにしない。足が竦んでしまったのだろう。退けと言っても人の足で逃げられる攻撃ではない。下手に動かないで居てくれた方がむしろ助かる。

 ブレーキの準備。

 手を伸ばす。

 光球を拳で殴り上げ、身体は反転。上を向く。

 しかし、身体は落ちる。ブレーキは焼き切れそうだ。

 慣性が止まらない。

「っあ!」

 強制的に肺から酸素が押し出され、瞬間的に無酸素になる。

 後から背中に痛覚がやってきた。次に後頭部。

 見事に背面を地面に打ち付けた。

 一度全身がばらけたかと思うほどの衝撃だった。この大地、存外固い。

 否応なしに見上げた空に、ネノーアが居る。スカートの中が覗けるが、やはり影になって中は見えない。見えたら下着の色を目の前で言ってやろうと思ったのに。

 少しめり込んだ身体を起こすため、軋む背骨に鞭打つ。膝を立て、上体を起こそうとしたとき、スカートの影が蒼くなった。

 否。新たな術が放たれたのだ。しかも、間違いなくシンを狙った攻撃が。

 だが、よく見ると蒼の球体はもう一つある。どちらかに対処すれば、どちらかは間に合わない。

 なによりすぐ近くに、パオラが居る。

「あのアマ! ぜってぇ泣かしてやる!」

 左手を付いて身体を起こしながら、右手で反撃の術を放った。立て続けに二発撃つ必要があったので、威力はそれほど無い。向かってくる威力を多少でもそげればそれで良かった。

 シンはすぐさま横に飛んだ。五メートルと離れていない場所にいるパオラを正面から抱え、地面をもう一蹴り。

 背後で爆発音。爆風が建物を削ったのか、細かい瓦礫が降ってきた。

 悲鳴がする。怒号は少しだ。何故この状況にあって人々は留まり続けるのか、理解に苦しむ。パオラも含め。

 死人が出ていなければいいが。

「あなた、いつから人間の味方になったの?」

 真正面。パオラの背後。そこに、ネノーアが居た。

 珍しく眉を釣り上げ、あの舌足らずな喋り方もなりを潜めている。別人のようだ。

 急いで逆噴射をするがその場で止まれるものではない。一秒未満後に止まったとき、彼女の手はシンの顔面を捉えていた。

「あなたなんて……!」

「――ッ!」

 見えるは蒼ばかり。

 咄嗟にパオラの頭に手を遣り、庇った。自分は顔を背け、正面から受けることを避けるに留まる。身をよじる余裕など無かった。

 こめかみに熱を感じると、頭を持って行かれるようにして後方へ飛ばされた。

 僅かに気が遠くなった。自分が若干の弧を描きながら宙にいることが判る。腕だけは力を抜かないように意識しながらも、なすがままに任せた。

 三度の衝撃を背と頭に受けた後、漸く水平移動が止まった。

 二度目の固い地面に、身体中が痛い。しかも、今度は錘付きだ。

「ねえ、あんた。大丈夫? 生きてるよね?」

 身体の上で、やかましい声がする。だが、意識はまだ朦朧としていて、すぐに口が動かせない。

 頭が熱い。手で触れてみると、ぬるりとした感覚があった。こめかみに傷を負ったようだ。頭が吹き飛ぶことはなかっただろうが、顔に怪我をしなくて良かった。

「生きてる。だから、俺の上から退けよ」

「あ……。ごめん」

 人一人分の重みが消え、やっと身体が軽くなった。

 暫く横になっていたい。そのくらい背骨が痛い。ストレッチをしたらいい音がしそうだ。

 手を付き、膝を立て、起きあがり、立ち上がる。

 身体を痛めた甲斐あって街は無事だ。建物の角が崩れ、地面が僅かに陥没したが、人が死ぬのとは比較にならない被害だ。

 ネノーアの姿がない。気が済んで帰ったのならいいが。ひとまず、直近の危機は去った。

「ていうか、何であんたここに居るんだよ。家、もっと遠くだろ?」

 洗濯をするよりも捨てた方が良さそうなボロになってしまった黒のコートを叩きながら、未だ唇が青いパオラに問う。

 緊張が解けないのか、パオラは手の平の汗をひっきりなしに拭っている。

「この近くで働いてるの。あんたこそ何してんのよ」

「喧嘩」

「何が原因で?」

「意見の相違」

「痴情のもつれ?」

「もつれる痴情がねぇよ」

 コートから汚れは落ちない。叩けば叩くほど埃が出るので、適当なところで手を止めた。帰宅と同時にゴミ箱へ直行することが決定。

「大体、危ないと思ったら逃げろよな」

 術を使い始めてから現在に至るまで、数分はあった。それだけの猶予があれば多少なりとも逃げられたはずだ。

 恐怖を先行する興味。

 シンからすれば、人間とは危険を回避する能力が劣っている生き物だ。回避するための洞察力も、その手段も足りない。

 だから忠告した。

 自らに備わらない力から己の身を守るには、関わるな、と。

「余計なことに首突っ込むなって言っただろ。だから巻き込まれんだよ」

「首なんて突っ込んで無いじゃない」

「手でも足でも、現に突っ込んでるだろ」

 半分以上八つ当たりなのは判っている。小言を行っても始まらないことも、どうしようもないことも。

「俺だって万能じゃねぇんだ。全部背負えるかよ……」

 ――あなた、いつから人間の味方になったの?

 ネノーアの言葉が蘇る。確かに、と思い出して一人頷いた。

 昔はもっと周りが見えなかった。見ようともしていなかった。それなのに、今は見過ぎている気がする。一人、また一人と家の中に抱えるものが増えていく所為だろうか。欲張りになっていく。

 こんな時だけ昔に戻れたらいいと思う。

 向こう見ずは今でも変わりないが、もっと盲目で、手持ちはなくて、自分にさえも無関心だったあの頃に。普通に暮らすには不自由しかない。余裕も愉しみもない。しかし、背中には何も無い。そんな自由に。

 今のまま、背中だけを軽くするなど、無理なのは承知だ。だからこそ、回顧してしまう。

「ねえ……」

 窺うようにパオラが一歩、近づいた。

「あの時助けてくれたのって、あんた?」

「いつだよ。人助けはあちこちでしてるから一々覚えてねぇよ」

「あたしの恋人が、戮訃に殺されて、その戮訃を、今みたいな魔法で殺してくれた人が居たんだ。その人、ずっと探してるんだけど、見つからなくて」

「戮訃も相当屠ったから覚えてねぇや。悪いな」

 事実、覚えていない。

 精神的に不安定だった頃は、あちこちで憂さ晴らしをして歩いていた。その犠牲を一々カウントしていない。結果として人助けになっていた可能性はあっても、知るところではない。

「でも、それが俺だったとしてどうするよ。別に人間助けたくてやった訳じゃねぇと思うぜ? イライラしてただけかも知れないし。殺すだけだったら、別にあんたでも良かったかも知れないし」

「でも、あたしは、生きてるよ」

 随分と都合の良い解釈だ。

 害と思えば人間であろうと容赦なく手に掛けてきた。それを前に話したはずだが、聞いていなかったと見える。

「それなら、折角生き延びたんだから死に急ぐな。急いで彼氏んトコ逝きたい訳じゃねぇんだろ」

「やっぱりあんた、悪い奴じゃないね。突き放すために頑張ってるんだ」

「そんなつまんねぇことに使うカロリー余ってない」

 何処まで楽観的なんだ。自分のことは棚に上げ、シンは目の前の相手に嫌気が差してきた。

 溜息を吐きたくなっている目の前に、つい、と手が差し出された。

「助けてくれてありがとう。今度から、あんたの忠告、ちゃんと胸に留めとくよ」

「ああ。そうしてくれ」

 求めには応じない。代わりに右手を振ってわざとらしくすれ違った。

 後始末などするつもりは毛頭無い。ただでさえ地面に落ちてからずっと尖った視線に曝されているのに、これ以上関わっても不愉快になるだけだ。

 首を回すと軽い音がした。

 そう言えばこめかみに血糊が付いたままだ。このまま帰ったら問い詰められそうだが仕方がない。傷はもう塞がっている。

 爪先で軽く地面を蹴ると、シンは飛び立った。

 真っ直ぐに自宅へ向かう。

 それには理由がある。

 実はまだ、嫌なざわめきが消えていなかった。

 ネノーアが大人しく姿を消したと知ったときに予感すべきだったが、結果として出来ていない。

 あの女が素直に引き下がるはずがない。わざわざ重たい服を引きずって出向いて来たのだ。かすり傷を負わせて満足するはずがない。

 詰めが甘かった。

 猛省しつつ、元来た道を急いだ。


   *


 一画に通常の空気が戻ってきた。

 張りつめた緊張は解け、人々が動き始めた。

 騒ぎ出さない様子から、死人は出ていないらしい。大怪我をしている人も居なさそうだ。

 突風のような出来事は、地面に罅を作り、建物を僅かに削っていった。

 二人の咒法師がぶつかったにしては被害が少ないと見て良いだろう。

 彼のおかげだ。彼が街を背にして戦わなかったら、こんなものでは済まなかっただろう。

 結局彼は、最後まで線を引いて近づいてこようとしなかった。

 それはそれで正しいのかもしれない。

 シンが去っていった方向を向いたまま、パオラは考えていた。

 過去の謎は分からず終い。もう一度彼に問うことは恐らく無理だろう。問うたところで、返ってくる答えは同じであるようにも思う。

「ま……いっか」

 わかったところで何も変わらない。

 善意。悪意。気まぐれ。偶然。結果論。

 なんであってもこの状況が変わることはない。少しだけ、すっきりするだけだ。

「頑張ってたんだけどな……」

 どれだけの時間を費やしたことか。やっと生き証人に行き着いたと思ったのに、殆ど振り出しだ。簡単に諦めるのはやはり難しい。しかし、諦めようと今決めた。

 心残りは確かにある。

 暫くはこの諦めを後悔することもあるだろう。

 それでもいつか、本当にそれで良かったと思える日が来るはずだ。

 大きく息をついた。

 早鐘を打っていた心臓は、今は落ち着いている。彼に強く抱き締められた感覚だけが、まだ僅かに残っている。

 悪く言いながらも身を挺して護ってくれた。知り合った縁の所為で見捨てられなかったと想像する。

 もし、あの時の人物が彼だったとしたら、

「二度、護られた……のかな」

 その感覚は妙にくすぐったい。

 後ろの方で、人々が好き勝手なことを言っている。悪態、罵声、悪口雑言。咒法師と一括りにして、言いたい放題だ。あの状況を見て、彼までも敵だと思っているらしい。同じ咒法師でも、敵は女の方だけだ。

 彼らの戦いの勝敗は、知ることが出来ないだろう。

 しかしその時は、また激しい音が聞こえてくるに違いない。気が付いたら、今度は音の方角を眺めるだけにしよう。枷になる物がなければ、彼がきっと勝つ。

 根拠はない。一過性の熱が、信頼と安心を感じてしまっている所為だ。

 果たして、これは一過性のものだろうか。既に信じてしまっているのかも知れない。事実と掛け離れていても、構わない。信じれば、後悔もしない。それが事実になるからだ。

 我ながら良いアイデアだ。

 パオラは向いた方角に歩き始めた。仕事場に戻るためだが、今日はきっと仕事にならない。早く帰ることが出来れば、帰ってしまおう。

 そして、帰ったら報告しよう。

 見つけたよ、と。

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