第18話

 感覚、感情

 その深層の抽象に

 言葉はいつも追いつけない



 ほとぼりが冷めた頃、日数を言ってしまえば三日後、フェイはキアに会いに行った。

 あの後、シンには何も尋ねなかったので、もしかしたら冷めるほどぼりもなかったかもしれない。だが、あの悪魔のことだ。わざわざ人払いをしてまで穏和な話をするはずがない。

 今回の訪問は、訊くに訊けなかったあの時何があったのかを探る目的も兼ねている。

 今日は何をしに何処へ行くか、きちんと告げて出てきた。止められなかったのでそのままドアを閉めた次第だ。

 覚えた道を迷い無く歩き、一時間弱で目的地に到着した。普通に歩くだけでも足は早いほうなので、距離の割に早く着く。

 ドアを叩くと暫くしてユンが出てきた。

「上がっていい?」

 と訊けば、

「さっきクッキー焼けたトコ。それ持って上に行けよ」

 と迎えてくれた。

 今日はおみやげがない。腹ぺこのシンが吸い込むようにして食べてしまったからだ。朝食が済んだ後だというのに、昼食が待てなかったらしい。イヴェールにお目玉を食らっていたのを尻目に出てきたのはいい気味だった。先日は先日で、持っていたには違いないがニースに上げてしまった。でも、あれはいい。命を助けて貰ったことを思えば、安すぎる。

 クッキーと飲み物が用意されている間、フェイは居間を見渡した。

 クロードが居ない。気配すらない。もしかしたら、家の中にも居ないのかも知れない。そのくらい、あの独特の空気がない。

 黒猫はソファで丸まってお昼寝中だ。

 目に入る空間はすっきりとしている。三人で住むには勿体ないほど広い家で、空間ががら空きになっている。かといって、特に増やすべき家具もない。既に揃っているのに、この広さ。眩暈がする。

「あ。フェイ。来てたんだ」

 訪ねる前に先方が先に姿を現した。真新しいスカートに、ニットを着ている。服の色の所為か、錯覚か、キアが二階から降りてきた途端、部屋が明るくなった気がした。

「後は若い者同士でどうぞ」

「え、……うん」

 含みのある言い回しに差し出されたおやつを受け取るのを一瞬躊躇った。が、押し付けられるように持たされて、二階に追いやられた。

 案内されたのは、二階に三つあるうちの一部屋。問うまでもなくキアの部屋だ。

 隠す必要はないが、女の子の部屋にはいるのは初めてだ。そもそも、同い年の友人も今まで居なかった。飲み物とクッキーが載ったトレイを持つ手に、僅かに汗が滲む。心なし緊張しているようだ。

 彼女の部屋は、この家に見合う広さだった。ドア付近はソファとテーブルがある。しかも、ソファはテーブルを挟んで向かい合わせ。合わせて四人は楽に座れる。部屋の三分の二がリビング的空間。胸の高さの本棚と格子を間仕切りにして、三分の一にベッドが置かれていた。寝室部分はよく見えなかったが、クロードとユンが躊躇いなくキアに買い与えたというベッド。その足を見るだけで値段が高いことが見て取れた。恐ろしい。

 一部屋にこれだけ詰め込んでいるというのに、全く窮屈さを感じない。床面積にはまだまだ余裕がある。

 フェイの部屋の二倍以上はある。この家の家主の財布はどうなっているんだ。

「他の二つの部屋はどうしてるの?」

「空き部屋。ユンとクロードの部屋は下だから」

「ふえぇぇ」

 部屋だけ広くて物がない家。空き部屋は本当に空き部屋なのだろう。物置にするほど物があるとは思えない。

 立ち尽くしているわけにもいかないので、取り敢えずと例はテーブルに。ソファに腰を降ろし、改めて室内を一巡見渡す。

 正直、落ち着かない。

 女の子の部屋云々以前に、広すぎる。

「凄いね……。俺の部屋なんか見せられないよ……」

「そんなこと、ないよ。私もまだ、落ち着かないの……」

 階下に住む男と金銭感覚が合わないのは何となく解る。物のデザインや色合いなどはギリギリで重なる部分があるかもしれない。

 女の子らしさはあまりないが、だからといって無機質とは違う簡素なデザインが多い部屋。家具や小物の選択は、キアが妥協点を示したか、保護者が苦心して選んだ感がある。どちらにしろ良い雰囲気なので、後は本人が気に入っていればそれでいいと思う。

「私が作った訳じゃないけど、どうぞ」

「いただきます」

 促され、クッキーに手を伸ばす。汗をかき始めたグラスに入っているのは、二人ともオレンジジュースだ。

 さく、と音がして、クッキーは前歯で容易く折れた。ひとまず割ったが、指に持っていた残りもすぐに口の中へ。

「うまっ」

 甘さは抑えめだが、バターの良い風味がして美味しい。

 二つめを頬張りながら、何気なくキアに目を向けた。

 会う度に顔色が良くなっていっているように思う。そして、表情も明るくなっている。

「あれから何ともない?」

「うん。私は大丈夫」

 私は、という言い方に違和感を覚えた。

 そういえば、家に招き入れられたときの、あの妙な寂しさ。

「クロードは今日、居ないの?」

「居るんだけど……」

 さっ、と音がしそうな勢いでキアの表情が曇った。

「やっぱり、シンが何か言った?」

「多分……。でも、何があったかは話してくれないの。話してくれないというより……」

 曇天は更に黒くなる。

「あれから一度も顔を合わせてないの……」

「三日間?」

「そう。部屋に籠もりきりで、食事も殆ど摂ってなくて……」

 想像以上の事態がここでは起きていた。

 あのクロードに限って。とはいえ、それほどきちんと接したことがないので断言するのは憚られるが。

「シンと口喧嘩で負けたにしては、凹みすぎだよな……」

「何か、言われたんだと思う。傷が、深くなるようなこととか……」

 正論を語ることが、すなわち傷を抉ることになるのを知って、それを平然と口にするのがシンという男だ。明らかに何かを抱えていそうなクロードの傷を探して指を差し入れるなど、容易いのだろう。

「クロードは、脆いところがあるの。本当は陥るはずがなかった現状に、クロードの矜持は壊れそうなの。そこに触れられると、凄く弱い……。他にも原因はあるかも知れないけど、今のクロードは、倒れそうなんだと思う……」

「弱い……か」

 シン程までは行かずとも、クロードから自信に満ちた雰囲気を感じていたフェイにとって、弱いとは不似合いな単語に思えた。

 知り合ってまだ間もない関係なのに、あの咒法師は一体どうやって隠している傷を見つけてくるのか。最早才能と言っていい。嫌な才能だ。見方を変えれば観察眼があるということだが、利用法があまりよろしくない。

 クロードも、シンの嫌味を言い返せないほどのどんな矛盾を抱えているのだろう。捻れは嫌っていそうなのに。

「クロードのことはあんまりよく知らないから、何とも言えないや」

 知りもせずに評することなど出来ない。

 クロードと出会ってからの時間はフェイの方が長いが、クロードと共に居る時間はキアの方が長い。その中で、彼女は何かを見、感じ、ユンとも話してその意見に行き着いたのだろう。見解が違うのは当然だ。

 オレンジジュースをストローで啜り、回答に行き着かない会話を一旦休ませた。

 キアの表情はまだ曇ったままだ。折角明るくなってきたと思った矢先に、この浮かない顔。シンの言葉が、こんな所にまで波及している。そのことについてはシンを恨めしく思う。

 たまらず、浅く溜息を吐いて天井を仰ぎ見た。

 くどいが、本当に広い、そして良い部屋だ。

 いくら財布に余裕があると言っても、普通、赤の他人、しかも殆ど成り行きで一緒に住むことになっただけの女の子に、ここまで尽くすものだろうか。この状況は最低限の生活水準を超えている。不自由なく豊かに生活していることは全く悪くないのだが、常識からは少し外れているように思う。

 この一件が片付いたら、もしかしたらキアは一人になることを選ぶかもしれないのに。

 ユンとクロードは、そしてキアは、どう考えているのだろう。

 こんなにも惜しまず金を使われたら、出ていきたくても言い出せなくなってしまいかねない。そして出資者は、彼女を手放す気がないのだろうか。

「キアは……この件が片づいたら、どうするの?」

 コップをテーブルに置き、尋ねる。

 キアはストローを咥えたまま、目線を落とす。

「……考えてない。私、一人だから、出来るなら誰かと居たい。でも、殆ど無理矢理この状況になっちゃったのは事実だから、元の状態に戻す必要は、あると思う……」

「元の状態……」

 ユンとクロードの生活体系。キアが出ていけば、確かにそれは元通りだろう。

 でも、出ていったキアは? また母親と二人になれるとでも言うのか?

「キアは、元に戻れないじゃないか……」

「でも、その為に人の物を壊し続けるわけにはいかないよ……」

「二人には訊いてみた? これからも、居てもいいかって」

「訊けば、多少無理してでも置いてくれると思う。だって、この部屋を見てよ。赤の他人に、成り行きで知り合っただけの小娘に、こんな風にする?」

 コップを置いた彼女の手は、今居る部屋を示すために広がった。思い切り広げても、壁にはほど遠い指先。今彼女に与えられている空間。

 遠慮。疑心。伝わってくる物。時に過剰。

 彼女もやはり同じ事を思うらしい。

「それに私……望まれない存在かも知れない……」

「望まれない?」

 話のベクトルが急に折れ曲がった。

 彼女の腕はゆっくりと力なく落ちる。

「フェイのとも、クロードのとも違う色……。特別な力もないのに、人間でもない。正体は、私も、誰も知らない」

 感情に耐えきれなくなったのか、キアは横にあったクッションを引き寄せると、胸の前で抱いた。

「だから、思ったの……。私の存在は……在っちゃいけないんだ……」

「そんなことない!」

 思わず声が大きくなる。殆ど反射のように立ち上がり、何をしようとしたのか。

 そんなことない。キアの存在が在ってはいけないなんて、そんなことない。

 でも、そこでもし「何故」と問われればきっと言葉に詰まる。

 後に続く言葉もないまま、何が出来る。

 立ち上がった足は何処へ進むこともなく、勢いは収束してまたソファに落ちた。

「望まれないとか、存在しちゃいけないとか……そんなこと言うなよ……」

「ごめんね……」

 謝られても困る。

 無責任な言葉を放って謝るべきは自分の方なのに。

 気持ちの整理が付かない。

 彼女が明るくなって嬉しいとか、自己否定して欲しくないとか。そういう思いは一体この心の何処から湧いてくるのか。本当のところ、彼女のことをどう想っているのか、自身でもよく解っていない。

 そんな状態で、一体何をしてあげられるというのか。

 無能。無力。自己嫌悪に陥るだけの理由は充分に揃っている。しかし、嵌るのは家に帰ってからにしよう。ここで共に項垂れたら共倒れだ。

「上手いこととか、言えないけどさ。要らないなんて、思ってないよ。誰も。……俺も」

「……ありがとう」

 フェイが帰るまで、キアはずっとクッションを抱えたままだった。手放すことはなかった。

 不安や失望を拭ってあげられなかった。そのことは確かだろう。

 全ての会話が未解決且つ消化不良のまま、フェイはユンとキアと黒猫に見送られて家を後にした。


   *


「喧嘩でもした?」

 フェイを見送りドアを閉めたところで、唐突にユンに問われた。

「ううん。してないよ? なんで?」

「ちょっと声が聞こえたからさ」

「なんでもないよ。……私がいけないの……」

 これ以上詮索されないように、キアは逃げるように二階に上がった。目線が追いかけてきたが、呼び止める声はなかった。少しホッとして、自室のドアを閉める。

 一人きりになった部屋は、数分前と同じ物なのに異様に広く感じた。

 フェイが居なくなった部屋。気配だけが少し残っている。同じ場所に座り、同じようにクッションを抱いた。

 この後のこと。

 考えるのが恐くて、考えることを避けていた。

 不安でしかない自分の存在は不要だと、そう思い始めたのはいつからだっただろう。ユンやクロードに言ったら怒られると思い、胸に仕舞って腐らせていた。

 自分の存在。気が付いたら既にそこにあった。目覚めたら自我を内包した器が街の中に佇んでいた。

 知る限りどれにも属さない異物。

 そんなものに、居場所なんてあるのだろうか。

 居ていい場所など無いから、この部屋から違和感が消えないのかもしれない。自由に語れる人の存在を嬉しく思う反面、顔を合わせる度にそこはかとない罪悪感を感じるのかもしれない。……大切な人が、死ぬのかもしれない。居ていい場所など無いから。

 クッションを抱え、ソファの上で丸まっていても、不安はなかなか治まらなかった。

「私は、居ていいの……?」

 アリシアを裏切るような気がしながらも、思ったことを声にしてみた。

 今発したのは自分の声だろうか。発言した事実さえ曖昧な感覚がする。

 一時は、あんなに嬉しかったのに。あれほど強く誓ったのに。

 どんなに他人から許容されても、自分自身で許せない。

「私は、生きてていいの……?」


   *


 真っ直ぐ帰宅するつもりが、フェイは空き地にいた。鉄の廃材の上に腰掛け、目線は遠くにある。

 キアが自身のことをあんな風に思っていたなど、知らなかった。

 望まれない。自分の存在は、望まれない。

 どんなに自分の由来が不明確でも、フェイはそんな風に自分のことを思ったことはない。

 似たような立場にあるのに、キアは違った。不明確な自分は不要な物だと。彼女はそう思っている。

 何故そんな風に思い至ってしまったのか。

 フェイは始め、そのことについて考えていた。

 しかし、それは考えるだけ無駄だと気が付いた。思い至った理由など、既に明確だ。彼女が今生きていること。それが全て彼女が思考する理由だ。

 その彼女に何もしてあげられなかったこと、少しでも存在を肯定し、笑顔を引き出すことが出来なかった、そのことの方が問題だと思い至る。

 それにしても、そう思う感情はなんだろう。何故そこまでしてあげたいと思うのだろう。

 もやもやと湿度の高い視界の悪い物が胸の裡を埋め尽くしている。

 理解が及ばない靄の先。晴れたのなら解るのだろうか。

「あー。フェイだ。久しぶり。今日は一人?」

 聞き覚えのある声に、フェイは顔を上げた。その先で丁度、地面に足を着けた戮訃の少年が一人。ニースだ。

「いつでも一緒ってわけじゃないよ」

「そうなんだ。ま、そうだよね。でも、付き合ってはいるんでしょ?」

 付き合っている、の言葉の意味がすぐに理解できず、必死に単語を検索した。

 首を傾げたフェイの様子から、ニースは違うと解ったらしい。

「違うみたいだね。友達、ってところなのか」

「そういう感情、良くわかんないんだ」

 単純な好き嫌いは解る。だが、こと愛憎となると言葉は知っていてもそれがどういう物なのか、想像するだけでも限界がある。

 この心はなんなのだろう。欠陥品なのだろうか。

 そもそも思い返せば、シンと出会ってからの一年は感情自体に乏しかった気がする。喜怒哀楽が溢れ始めたのは三年くらい前のことだ。止まっていた機能が動き出したかのように、世界に色が付いたあの瞬間、まだ覚えている。

 経緯も前触れも、何もなかった。本当に突然だった。食べた物が旨いと、そう思った瞬間だ。感じること、思うこと、その回路が瞬時に構築され、膨大な情報に頭が熱くなった。

 何気なく生活するだけでこんなに大量の情報を得、心は動く物かと、慣れるのに時間を要した。だが、それも単純なことに限られていた。

 だから今、こうして感じることの出来ない想いに、気分が塞いでいる。

「慣れてないだけだよ。そのうち解るって」

「ニースは解る? 大切に想う感じとか、そういう人にどうしてあげたいとかその根拠とか」

「恋愛はまだしたこと無いからなぁ。アドバイスは出来ないや。ごめんね」

「いや、いいんだ」

 これは恋愛の類だろうか。これは愛情の問題なのだろうか。それさえも解らない。

「今日もここら辺で仕事?」

「ううん。今はサボり」

「サボっていいの? 怒られない?」

「ちょっとなら大丈夫」

 ニースはフェイより一段低い廃材に腰掛けた。黒い翼はもう見えない。器用に仕舞うことが出来るようだ。彼の服は以前と同じ物だ。デザインから見て取るに制服のようだ。戮訃という種族がどういう形態をして生きているのか、何を生業にしているのか、そういうことは一切知らない。

 知らないことに対しての興味はある。だが、戮訃に関しては悲しい現実が同時に引き出されそうで、訊くのを躊躇う。

「心配なことがあってね。気がそぞろなんだ」

「悩み事?」

「僕自身の事じゃないんだけど……」

 ニースは溜息を吐いて肩を落とした。どうやら彼も、フェイと同じく考え事をするためにこの空き地に来たようだ。誰も入ってこないこの場所は、割と静かで考えるには丁度良い。

「イラヴィスさんが……あ、すっごく強くて僕が尊敬してる人なんだけど……その人が、最近凄く思い悩んでる感じがして……。元々物静かで落ち着いてるんだけど、それがなんか、塞いでるみたいで……」

「心配、なんだ」

「……うん」

 ニースは爪先で地面を蹴る。砂が舞って、ざらりと音を立てて落ちた。

「僕なんかが心配したって、何にも解決できないけど……」

 心配せずには居られない。でも、何も出来ない。もどかしい。

「心配くらいは、してたいなって……」

 何かできそうなだけ、自分には進める道がある。落ち込むニースの横顔を見ながら、フェイはそう思った。

「フェイも何か悩んでた?」

「うん。でも、俺はまだやれそうなことがあるから……頑張ってみるよ」

 それにはまず、未知の精神世界を知ることから始めなければならないが。

「じゃあ、僕、そろそろ行くね」

 彼が廃材から立ち上がるのに合わせて、フェイもそれに倣った。

 家に帰れば、豊富な感情の持ち主が居る。まともに相手にされるかはともかく、訊いてみる価値はある。だが、それはもう少し自分で考えてからだ。

「ねえ、フェイ」

 翼を背に喚んだニースが、思い出したように振り返った。

「僕なんかと話してて、誰かに何か言われたりとかしてない? 迷惑だったりしてない?」

 悲痛な面持ちで、灰色の瞳が見つめてくる。

 何故そんな顔をするのだろう。フェイは眉を顰めた。

 黒い翼が気落ちしたようにしょげて見えるのは気のせいだろうか。

 迷惑。迷惑だなんて。知り合いが、あわよくば友人が増えて嬉しいとさえ思っている位なのに。

 彼は戮訃だ。だが、それが何だ。戮訃とは、自分たち以外の血とは話をすることもままならないのか。それだけで迫害の対象になってしまうと言うのか。

「ニースが、友達になってくれればいいなって、俺はそう思ってる」

「友達……」

「俺の保護者は戮訃のこと嫌いみたいだけど、そんなの、俺がどう思うかには関係ないし。でもそいつ、スゲェ強いから、ニースと知り合いってことは言ってないけど……」

 言い訳のようだ。だが、事実なので隠さない。

「俺、友達居ないからさ。こうやって話せる相手もあんまり居ないし。ニースと話せて、楽しいよ」

「フェイは恥ずかしいこと平気で言うんだなぁ……」

 そう言って、ニースははにかんだ。

 思ったことをそのまま言っただけなのに気恥ずかしくされるのは釈然としないが、伝えたいことは伝わったようなのでよしとする。

「なんか、……うん。良かった。それじゃあ……」

「またね」

「……うん。また」

 手を振って、黒い翼を羽ばたかせ、ニースはいつものように黒い空に消えていった。翼の色、服の色、くすんだ赤の髪。どれも闇に潜むには丁度良い。その為の色のようだ。

 見届けて暫くしてからフェイは自宅へと歩き始めた。

 そういえば、彼は何故、躊躇ったように言葉を残して飛び立ったのだろう。

 意味深な間について、答えは出なかった。


   *


 それは、愛の一方通行である恋なのだろうか。

 一晩考えて、導き出された最後の可能性がこれだった。

 しかし、単語の意味は大体解るが、その正体をやはりフェイは知らない。どんなに考え、頭を捻っても、解る次元ではなかった。

 害の有無、信頼の度合い。それらから人の好き嫌いは感じる。だが、愛とは何だ。この心は欠陥品で、心に開いた穴から愛という感情が零れてしまったのだろうか。機能していないだけならまだ動き出す可能性はある。しかし、始めから存在していないのだとしたら、どうやってそれを知ればいいのか。

 睡眠は頭を整理すると言うが、今回は何の手助けにもなってくれなかった。目覚めても思考は寝る前の状態で止まったまま、何も変わらず雑然としている。

 頭が重い。寝付くのが遅く、その所為で長々と寝てしまった所為だ。時計を見ればそろそろ昼になる。食いっぱぐれないために、そろそろ居間に向かった方が良さそうだ。

 ベッドからのそりと起きあがり、着替えて階下に降りた。だが、居間には誰も居ない。食べ物の残り香はないので食事はまだなのだろう。二人ともまだ寝ているのだろうか。

 階段脇のシンの部屋を、ノック無しに開けてみた。入り口に背を向けて、家主は未だ就寝中。用事がない限り昼過ぎまで寝ているのはいつものことだが、それにしてもよく寝る。頭が痛くなったり背中が痛くなったりしそうなものなのに、寝過ぎを理由に身体の不調を訴えたことは未だ一度もない。何を貪るように寝ているのだろう。

 ……働いているわけでもないのに。

 揺り動かせばすぐに起きるだろう。大抵起き上がるのが面倒でウトウトしているだけなのだ。部屋は開け放したまま、中に入る。危機を感じないからなのか、部屋に入ったくらいではまず目を開けない。戦わせればめっぽう強いのに、寝込みに対する防御はなっていないのかと思うほど起きない。殺気を纏ったら違うだろうか。

 不穏なことを考えながら、シンの背中を正面に足を止めた。やはり起きない。

 食事が終わったら訊こうと思っていたが、今訊いてしまおうか。途中まで伸ばした手を一度引っ込め、質問用の言葉を用意する。なんと言えばすぐに通じるだろうかと夜の間に言葉を探し何度も組み替えた文章。

「ねえ、シン。聞いてよ」

 数回揺らすと、傷だらけの生腕が出てきて振り払われた。

 この男、少なくとも上半身は裸で寝ている。上着を着ないと寒いこの気候で相変わらずの暴挙だ。風邪を引かないのは莫迦ではないからなのか。

 肩から指先まで。シンの右腕は何度見ても傷まみれだ。

 この腕が。

 この腕に。

 思うことは色々あるが、それは今は置いておこう。

「シン、聞いてってば。っていうか、起きろよ」

 今度はもう少し強く揺さぶった。

「んー」

 気のない声がして、細く目を開けてシンが顔を向けた。

「なに。どうした、フェイ」

「俺にさ、人の愛し方、教えてよ」

「はあ?」

 すぐにも寝入りそうだった目はぱっと開いて、怪訝そうにフェイを見た。

 寝癖の酷い頭でそんなに見られても困る。

 暫く視線を合わせた状態が続いた後、シンは首を捻りながら半身を起こした。

「んーと。何言ってんだ、おまえ」

「もう……。真面目に言ってるんだから、ちゃんと聞いてよ」

「や、聞いてるけどさ。何だよ、突然。しかも何故俺に訊く」

 ベッドヘッドに寄り掛かり、シンは頭を掻く。寝起きの頭はいつものエクステンションも飾りもなく真っ黒。女性が羨むほど艶々している黒だ。わざわざ目立つ色で装飾しているのを見ると、染めるのは嫌なようだ。

 閑話休題。

 何故訊く、という質問に対する答えは二つ。

「シンなら、知ってるだろうし。シンしか、訊ける奴居ないし……」

「あー。感情豊かで経験豊富な俺に朝から甘酸っぱい世界をご教授賜ろうと思ったってか。賢明な判断だな。可愛い奴め」

「ふざけんなよ。散々悩んで訊いたってのにさ。しかも、もう昼だよ、寝ぼすけ」

 訊く相手が他になかったとはいえ、やはり訊く相手を間違えただろうか。

 気分を概して口を尖らせたフェイの前で、シンは寝癖の髪を掻き上げて苦笑している。上半身は裸のまま、鳥肌一つ立てずに、大人の余裕と言わんばかりに立てた膝に頬杖を付いている。

 いつも通り何でも知ってるような顔をして。

 少し嫌味なその態度。

 でも今は、頼るしかない。

「たまに居るんだよね。『愛って何?』って言うヤツ。おまえも何かにつけて定義が欲しいタイプだな。大雑把そうなのに」

「大雑把で悪かったな」

 拗ねてみせれば、またカラカラと笑われた。

 もういい。そう言って出ていこうと思ったとき、

「なあ、フェイ」

 呼びかけられ、動かそうとしていた足を止めた。

 腕一本分くらいの距離で、半裸の男は笑いながらも真面目な顔をしている。これでふざけたら、殴ってやる。そう思いながら、言葉を待った。

「フェイ。愛なんてな、人が抱く形のないある種の感情に、勝手に付けられた名詞に過ぎないんだよ。そんな言葉持ってきて、定義づけても、俺にとってそれが愛でも、おまえにとっては違うかもしれない。言葉にこだわるな」

 シンの人差し指が、フェイの心臓の真上をつついた。

「今ココで感じてることに正直になれば、それが愛かもしれないし、違うかもしれないし。でも、少なくても後悔はしない」

「でも、俺……」

「何でも杓子定規に考えすぎ。おまえが解んないのは、おまえに無い愛し方だろ? 護るために愛さなきゃいけない法なんて無いんだし。したいようにすればいいじゃん。大切にしたいと思えばそれで良いし、好きだと思えばそうなんだろうし。旨いもの食って旨いって思う定義なんて、誰にも教わらなかっただろ? 感じてみて初めて、これが旨いって奴なんだって解る。何でも同じだよ」

 詳細は語っていないのに次から次へと出てくる表現に、全て見透かされているのを感じた。

 目を開けて、意識を持ったその時には既に目の前にいた男。この五年間、ずっと共に居てくれた保護者。敵わない。敵うわけがない。

「感情なんて、無理に解んなくたって、どうしたいかさえ解ってれば今は充分だろ?」

 それでいいのか。

 そんなことでいいのなら、もう答えは出ている。

「護ってやりたいんだろ? 大事な人を、さ」

「……うん。ありがとう、シン」

「礼なんか要らねぇよ」

 今度こそ部屋を出ようと踵を返すと、

「ちょい待ち」

 また襟首を掴む声がした。

「何」

「今日は出掛けない方がいいと思うぜ」

「なんで?」

「どうせ一日砂嵐だよ。それに、おまえ、酷い隈。すっきりしたところで今からでも良いから少し寝ろよ。そのツラ、デートには向かない」

「う、うっさいな!」

 何もかもお見通しと言わんばかりの笑みに、フェイは思わず蹌踉めいた。顔が熱くなるのを感じて、慌てて部屋を出、ドアを閉める。今の窓から外を眺めれば、シンの言うとおり砂嵐だ。これでは外に出た瞬間に砂まみれになってしまう。ツィアでは偶にこういう日があるが、今日は一段と酷い。シンの言葉に従って大人しく引きこもることにしよう。

 シェフが起きるまで一寝入りしよう。

 階段に向かうと、丁度そのシェフが降りてきた。

「おはよう。ごはん、今から作る?」

「お腹空いてるならすぐ作るけど……どうする?」

「出来ればちょっとだけ寝たいんだけど」

「いいよ。じゃあ、一時間後に起こしてあげる」

「お願い」

 そうやって入れ違いにフェイは二階に上がった。

 部屋に戻り、やっと冷め始めたベッドに潜り込む。上掛けを引き寄せ、抱え、丸くなった。

 身体が少し熱い。浮かれていると判断。きっと寝付けないだろうと思いながら、目を閉じた。


   *


 朝っぱらから湧いたことを。

 腕に力を込めるのをやめ、シンはもう一度上掛けを被るために整えた。

 不完全な幼い心は、何を思ったか愛なんて単語を持ってきた。正解がないそんなモノの答えを教えろと、酷なことを言う。

 どれを取っても正解になりうる。逆に間違いにもなる。したいようにするほか無いのが感情だ。

 自分はもう、感情の定義や在りようなど一々考えるほど青くない。

 フェイもいずれ解る。

 もう一寝入りしようと横になり、顔まで上掛けを掛けた。

「優しいのね」

 部屋の扉が開く音と共にイヴェールの声がした。

「優しいかね?」

 起き上がるのは面倒なので、肘をついた手に頭を載せた。

「盗み聞きは行儀悪いぜ」

「聞こえちゃっただけよ」

 居合わせたのは偶然でも、全て聞くために立ち止まっていたのも事実だろう。

「で。少年の青い悩みを聞いて、イヴェールなりの答えなんてあったりする?」

「天隷に色恋のこと何て聞いたって駄目よ」

 だって、と彼女はすぐ側まで来ると覆い被さるようにベッドに乗ってきた。

「私たちは感情より身体が先だもの」

 わざとらしく誘うように少し暗い赤の瞳が上目遣いに見てくる。

 無理をしなくても良いのに。そんな芸当がイヴェールに向かないことは知っている。

「でも、それはおまえには欠けた本能だろ」

「……」

 雌豹のような態度はあっという間に冷め、肩を落とすと断りもなくベッドに入ってきた。本当に警戒心のない女だ。慣れきってしまっている。

 イヴェールはベッドヘッドの寄りかかり、指先を弄りながら口を尖らせた。

「嫌な奴。何処まで知ってるの」

「俺が訊きたいね。どのくらい天隷として欠落してるのか」

「知ってるんでしょ?」

「いいや。全部は知らない」

「嫌な奴」

 使神への忠誠、従順。淫売への無抵抗。他の種族より強い淫欲。最終的には快楽に堕ち、溺れる短絡さ。

 多かれ少なかれ、イヴェールにはそれらが足りない。特に前者二つが圧倒的に不足している。

 彼女が自分からこのことについて語ることはないだろう。語るような内容でもない。

 訊いたのは、少し意地が悪かった。

「俺、もうちょっと寝たいんだけど」

「あんまり寝てると埋めちゃうよ」

「……何処に」

「お尻だけ出して玄関先に」

「谷間じゃないのか……」

「なんか言った?」

「いいえ、何も」

 甘い夢には縁がないらしい。とはいえ、今は求めても居ないが。

 結局、脅しに屈することなく、シンは上掛けを被った。頭のてっぺんまで、余すところ無く被った。

 空間に間仕切りを設ければ、彼女も諦めると踏んだのだが。

 結果は予想に反していた。真逆だった。彼女も一緒になって潜り込み、結局同じ空間にいることになった。

「一緒に寝るつもり?」

「一人は寂しいもん」

「子どもじゃないんだから」

「一人がいいの?」

「別に。寝かせてくれるなら今は何人でも」

 強く出ていけと言って、いつかのように泣きながら丸くなられたのでは寝覚めが悪くなる。

 先日、クロードをつついて帰ってきた日。イヴェールは勝手に人のベッドに潜り込んで、涙で枕を濡らしながら眠っていた。何故わざわざ他人の部屋まで来て寂しさに泣いていたのか、多少理解に苦しんだ。当人は「寂しかった」と言っていたので、そういうことにしておいた。

 だんだん幼くなっていくようなイヴェールを、正直どうして良いか解らないときがある。甘やかして図に乗ることはないが、近づくことに慣れきってしまった。

 ――困ったことにならなきゃいいんだけど……。

 思ったときには意識はもう遠くに。

 寝息はすぐ傍に。

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