第17話

 過程など誰も見ない

 流した血や汗さえも

 結果如何で無かったことに



 ツィアのある場所。

 人家から遠く離れ、周りには人々の生活を支えるものを様々生産するプラントさえない荒野。街に押し寄せる砂埃だけを作り出しているかのように思えるほど、何も無い更地。

 そのど真ん中に、ぽつりと巨大な施設がある。外観は何かの研究所。規模は中くらい。明かりはその建物の周りだけで、街と建物とを繋ぐ道にさえ街灯はない。闇が際だつ空間に建つ箱に人の気配はない。外も、中も。内部に煌々と灯された明かりがまるきり用を成していないように見えるほどだ。

 内部は迷路のような造りで、白のタイルで床も壁も天井も統一されている。所々に転々とあるドア以外はまるで変化がない。外部の情報は遮断され、方向感覚さえもすぐに麻痺してしまう。

 そんなおよそ居住するには不向きな場所でネノーアは暮らしていた。

 地下一階、地上二階の建造物。地下部分は全て工場。生産物は蝙蝠。他には、テベルのゴミ捨て場から大量に拾ってきた機械人形を修理し、再利用している。しかし、地下からの音はおろか振動一つ地上部分には漏れていない。とてもそんなことをしているとは思えないほど内部は静かだ。

 一階は通常の二倍の天井高を持つ空間。主に機械人形の保管と、家事スペースになっている。勿論家主は家事などしない。料理も洗濯も、全て機械がやってくれる。

 そして、二階。部屋は一つだけ。天井高は十五メートル近くある。本来寝起きするための部屋を作る事を想定していない建物を無理に縦に三分割した結果がこの部屋だ。部屋の中を飛び回ることさえ出来る。家具はキングサイズの天蓋付きベッドが一台。一人で座るには勿体ないほど広いソファが十台ほど、何処でも休めるように置かれている。そのソファのそれぞれの前に全てデザインの違うテーブル。テーブルの下には毛足が長く大きな絨毯が、これもそれぞれに異なるものが敷いてある。あとは大小様々の照明器具。出入り口以外に二つある扉は、どちらも歩き回るだけで一苦労のウォークインクロゼットだ。空間の殆どを持て余していると言っていい。

 その有り余った空間の中心に、一際大きく、そして豪華なソファとテーブルがある。座っているのは黒髪に蒼眼の女。レースとフリルで重たくなった服に身を包んで肘掛けに凭れている。

 咒法師が一人。

 後は全て機械人形。

 それが、この施設の構成員だ。



 施設としては申し分ない。フルオートの工場。ドアというドアに仕掛けられた電子ロック。未だ一度も使用されていないが、有能な警報装置。作り置いたものを保管しておくための空間。そして、この部屋。外に出なくてもある程度飛翔できるのはなかなかいい。

 だが、利点はそれだけだ。

 これを住まいと果たして呼べるのか。工場の屋根裏に壁を作って壁紙を貼って家具を置いたに過ぎない。どこもかしこも箱形で、外観は可愛くないし、全体的に無機質で面白味など少しもない。

 落第点だ。

「ネノーアはもっとお城みたいに素敵で豪華で絢爛なおうちに住みたいのぉ!」

 広い空間では、声も響く。反響を聞いて、ますます気が立った。今は部屋に一人なので、余計に音が跳ね返る。

 駄々をこねても相手にするのは機械人形ばかり。形式的な肯定文が返ってくるだけで、どんなに騒いでも軽く流されている感が否めない。そして、やはり今は部屋に一人なので、受け流されるどころか相槌すら返ってこない。

「もぉぉぉっと空気の良いところにおうちを建てるのぉぉっ!」

 遙か遠くの天井に向かって叫ぶ。

「んー……?」

 反響する自分の声を聞きながら、疑問が頭に浮かんだ。

 本当にこんな理由だっただろうか。望み通りの住まいを手に入れるためだけに、工場を持つこの施設を奪い……否、居抜きを占拠したのだっただろうか。蝙蝠を二カ所に嫌がらせに送りつけ、先日は機械人形も向かわせた。シンに対しては完全に嫌がらせだ。それは今も変わらない。

「何だったかしらぁ……」

 クロードとユンの所への行為は、とりとめが無く自分でもよく解っていない。ただ、蝙蝠を送ったその時は、彼らは敵だという妙な確信があった。あの時は確固たるものがあった敵意が、今は曖昧だ。面倒なのでちょっかいを出そうという気にもならない。

 後はあの少女。キア、と言ったか。あの時もやはり、何かに突き動かされるようにして動いていたのに、今は思い出せない。

「もう、どうでもいいわぁ」

 人間を一人殺したが、気に病む理由はない。百年生きられない生き物など、殺したところで何の支障があろうか。寿命が短く、何の力も持たない人間は、一体何の何のために生きているのか理解できない。

 そもそも、シンにちょっかいを出そうと思い立ったのは何故だろう。エストラの一件以来、面倒になって存在さえも忘れていた男。からかい甲斐はある。しかし、相手にしていると時々血圧が上がるのを感じる。

 だが、腕の傷は以前よりも増えていた。排除するにはいい機会かもしれない。様子を見ながら削っていこう。一息に掃除したのでは面白くない。

 そう。身の回り、この街、果てはこの世界。何処に行っても面白味が足りない。心が躍るような興奮も快感もない。本能が求める破壊の贅を尽くせる場所も相手もない。そう考えると、シンは相対するのにうってつけだ。あんなに強い相手は他にない。

 不明瞭な動機は放っておこう。解らなくても何の問題もない。

 問題は、どうやって勝つか、だ。真正面からぶつかるなどという愚直な方法では、今のところ勝ち目がない。いかに削り、そして好機を掴むか。

 ノックがした。

「お嬢様」

「お嬢様」

「入っていいわよぉ」

 許可を得て入ってきたのはミトギとヒリダだ。二人とも白髪に水色の瞳をした機械人形で、ミトギは肩、ヒリダは腰で髪を切りそろえている。床から数センチ浮き上がった状態の彼女たちの右手にあるのは銀のお盆。ミトギの方には食事、ヒリダの方にはフルーツが盛り合わせになっている。テーブルの上の時計を見やる。丁度夕食の時間だ。

 食事の内容は、野菜のテリーヌ、ビシソワーズスープ、ローストビーフ、オリーブを沢山使ったサラダ、スライス済みのバゲットだ。冷たい料理ばかりで、コース料理からも若干ずれているが、ネノーアは気に入っていた。

 デザートのフルーツ盛り合わせは、マンゴー、パイナップル、リンゴ、オレンジ、いちごが載っている。どれも好物ばかりだ。

「待ってたわぁ。二人とも、新しい腕の調子はどーお?」

「完璧です」

「最強です」

「術もちゃんと使えます」

「キャベツの千切りもお手の物です」

「リンゴも片手で潰せます」

「コンクリートも殴れます」

「申し分ありません」

「申し分ありません」

 二人はせわしなく交互に喋りながら、持ってきた食事をテーブルの上に置いた。ネノーアはソファの上に転がっていたクッションを集めさせ、背中において上体を起こした。

「お嬢様。何からお召し上がりになりますか?」

「いつものようにフルーツからですか?」

「ええ。そうねぇ。そこのパイナップルから食べたいわぁ」

 食事は後。デザートが先。順序などどうでも良い。食べたい順に食べるのだ。

 ネノーアの言葉を受けて、ミトギがフルーツが載った大皿を手に取り、ヒリダがネノーアにフォークを差し出す。ネノーアはフォークを受け取ると、目の前まで持ってこられた皿から小さく切ったパイナップルを刺して口に運んだ。

 ツィアではなかなか手に入らないみずみずしくて甘味が強めのパイナップルは非常に美味だ。歯に繊維が挟まる問題以外は申し分ない。

 一つ。二つ。次はリンゴ。そしてまたパイナップルに戻り、偶にマンゴー。

 そんな調子で、あっという間に盛られたフルーツは半分になった。

「お嬢様。お食事の時になんですが」

 そろそろオードブルに行こうかと思ったとき、ミトギが切り出した。

「これからの計画のような物は立てておいでですか?」

「私たちが失敗してしまったので」

「腕まで失いましたので」

 字面だけ見れば申し訳なさそうだが、彼女たちに表情はない。眉を微妙に動かしたり、少しだけ俯いてみたりという動作が申し訳なさを演出しているが、それだけのことだ。

 薄ら寒い。

 内心ではそう思いながらも、ネノーアは主を演じた。

「だぁいじょうぶよぉ。気にすること無いわぁ。みんなの居場所ももうわかったし、みんなが束になってきたらエニロムにお願いするから心配しないでぇ」

 目は合わせない。無機質な水色と目を合わせても、何も伝わらないからだ。

 テリーヌを取るように指示すると、フルーツの時と同じように目の前まで皿がやってきた。フルーツ用のフォークがオードブル用のフォークとナイフに代わり、小さく切っては口に入れた。美味しい。

「エニロム兄様を?」

「暫くお会いしていませんわ」

 ミトギとヒリダは顔を見合わせた。

 兄様、とはいっても、エニロム型の機械人形の方が彼女たちよりも等級が上というだけのことだ。

 機械人形は機械であるが故にプログラムで動いている。だが、こちらが指示していないことまで時々実行することがある。エニロムのことを彼女たちが「兄様」と呼ぶのがその一例だ。血の繋がりなどあるはずもないのに、機械人形は一様に自分たちを兄妹だと思っているフシがある。人間だと思いたくて等級を兄妹に見立てていると解釈すれば、解らなくはないのだが。

「メンテナンスも兼ねてちょっと手を加えたから、あれからまた強くなってるわよぉ。ネノーアを越えちゃったらどうしようかしらぁ」

「お嬢様は最強の咒法師でございます」

「エニロム兄様といえど、越えられるはずがございません」

「シンは私たちからでさえ逃げましたわ」

「シン相手にお嬢様が相手をされる必要はありませんわ」

「私たちと兄様が居れば、彼らは敵ではありませんわ」

「お嬢様の敵ではありませんわ」

 因みに、「お嬢様」という呼称はネノーア自身がそう言えと命じてあるからだ。

 語気を強めて二人が言い張る間にテリーヌを完食したネノーアは、次にスープを催促した。やはり器が顔の近くにやってくる。ヒリダが持ってきたスープ用のスプーンに持ち替え、一口。やはり美味しい。

 毎日二食、ないし三食。欠かさずに食事を運ばせているが不味かったことがない。日に日に美味しくなっていくようにさえ思う。厨房で機械人形達がどこからか仕入れた食材を使い、無表情で調理しているのだろうが、味の好みのリサーチは完璧だ。機械ならではの不便さもあるし、戦闘用のものでさえ咒法師を相手にさせるには力不足ではある。しかし、補助的役割をさせればかなり有用だ。

 上手く使わない手はない。

「そいえばぁ、シンって、本当に怪我したのかしらぁ」

「腕から血を流していましたわ」

「顔を顰めて焦りの様子が見られましたわ」

「腕って、右腕だったのぉ?」

「右腕でしたわ」

「凄い出血でしたわ」

 右腕、というのが引っかかる。

 シンが右腕に傷を負う理由は知らない。どうすれば傷を負うのかは知っている。力を使わせればいい。そうすれば、シンの右腕の皮膚は裂け血を流す。だが、その傷は瞬時に塞がってしまう程度のものの筈だ。ミトギとヒリダ相手に過剰な力を使ったのだろうか。それとも、他の要因があるのか。

 そもそも、出血したと言うことすらフェイクで、こちらに勝機を抱かせるような作戦かも知れない。あのトリックスターならやりかねないことだ。咒法師の中でも飛び抜けた力を持ち、飄々と掴み所のない男。昔はもっと棘を持っていたように思う。久しぶりに顔を合わせて、今は大分丸くなってしまったように感じた。力も減っているようだ。力を表に露出しない術を得たのならともかく、明らかに昔より弱くなっている。

 ――一度、探りを入れてみようかしらぁ……。

 ローストビーフを咀嚼しながら思案。軟らかい肉を食めば、薄めの味が口の中に染み出て、これもまた美味。ガーリックの風味がほんのりするのがまたいい。女の子だからといって臭いを恐れることはない。美味しいものを美味しく食べるのに制限を付けては勿体ない、というのが持論だ。

 ――ま、いいわぁ。食べ終わったら考えればいいわよぉ。

 輪切りのオリーブをフォークに引っかけながら、思考を一旦停止した。

 暗く陰湿な日常で、数少ない楽しみである食事を心ゆくまで楽しむことにする。


   *


「あのー。クロードさーん。ぶっちゃけすんげー鬱陶しいんですけどー」

 朝食の時間になったので声を掛けたが返事がない。ドア越しに何度呼んでも無反応。ノックをしても同じ。仕方なくドアを開けてみたら、机に向かっているクロードが頭にカビを生やしそうな様子で凹んでいた。

 まだやっていたのか。

 正直、ユンは呆れた。

 シンとクロードを残して去ったあの後、暫くしてフェイの迎えが来、大分遅れて家主が帰ってきた。それはもう酷い顔色で、話しかけても全く応じることなく自室に引きこもってしまった。それから一日。この様子だと一睡もせずに凹んでいたようだ。

 落ち込むことに関しては本当に全力投球らしい。この調子だと、あと二日は眠らずに蟻地獄のような思考の渦に嵌り続けることだろう。そして、渦から抜けきれないままに体力が先に切れてしまうのだ。

 数年前と同じだ。

 シンに何かを言われたことは間違いない。あのお節介、もとい、性悪のことだ。クロードの痛いところを滅多刺しにでもしたのだろう。何を言われたかまでは解らないが、大体の予想は付く。

「クロード。メシ、食わないの? 食わないなら昼からもう作んないよ?」

 ここに居るのはクロードのドッペルゲンガーだっただろうか。こんなに精巧なものをいつ買ってきた……ということはないか。それにしても、目を開けたまま死んでるのではないかと思うほど動かない。瞬きさえもいつしているか解らない。

「なー、クロード。返事くらいしろよ。声まで喰われちまったんじゃねぇだろ」

「……出ていけ」

「あー……それが返事? わかった。わかりましたよ。後で腹減ったって言っても、なんも作ってやんないからな」

「……」

「じゃあな」

 ついカッとなって扉を足で閉めてしまった。凄い音がしたが、怒号は飛んでこなかった。その代わり、食卓でキアがびくりと震えたのが目に入ってしまった。

 猫はテーブルの下で餌を目の前に毛を逆立てている。

「あ、ごめんね。驚かせちゃったか」

「ううん。大丈夫」

 とは言うが、表情は硬い。

「クロードの分も食べちゃおう」

「……うん」

 今日の朝食はハムと卵のガレット、鶏ハムを載せた野菜サラダ、コーヒーないしカフェオレだ。手早くクロードの分を二等分にすると、キアのお皿と自分のお皿に取り分けた。

 微妙な空気の中、朝食を食べ始めた。

 ナイフが皿に当たる甲高い音が時々するだけで、会話はどちらも切り出さない。否、切り出せないで居た。

 あそこでドアを蹴ったのはまずかった。いくら頭に血が上ったとはいえ、キアが居ることをあの時は忘れていた。数年前の再来のようなクロードの様子に、ユンもまた同じ時間に戻ってしまったらしい。

「なんか……ごめんね。居辛くさせちゃって」

「気にしないで。喧嘩は、あまりして欲しくないけど、変化しないことを望むのは無理だし、意見の衝突はあってもおかしなことじゃないし……」

 気を遣わせないようにしようとすればするほど逆効果になる。

 せめて食べている間はクロードの話題は避けよう。そう思ったとき、キアの手がすっと止まった。

「前に、話してくれたよね。人間じゃないのに、ここに居る理由。でも、留まる理由は、……どうしてなの?」

 ――やっぱりそう思うよな。

 いつか投げられると思っていた。正体は明かしていても、ここに留まる理由までは言っていなかった。正確には、留まっていなくてはならない理由。ユン自身は構わなかったが、この話題に限っては、クロードが言い出さないことを言うわけにはいかない。ユンが言えばクロードのことも自動的に話さざるを得なくなる。ユンから話せないのは、クロード自身がまだこのことについて殆ど整理が出来ていないから。自分だけ綺麗な部屋を見せて、他人の散らかった部屋を曝すような真似は出来ない。

 だが、このまま彼女の疑問を放置しておけるのか。

 出来ればクロード同席が良いのだが。

「戻れ……ないの?」

「うん。戻るための力も失くしちゃったからね。堕とされて八年。ずっと暗い空の下さ」

「神様が、二人を追い出したの?」

 姿さえ見たことがない神。本当にいるかどうかも怪しい存在。神の徒と良いながらも、他の誰かの傀儡であっただけかも知れないと、今になって疑いを持つほど、正体不明。

「いいや。はっきりはしないけど、黒と蒼だけは覚えてる。だから、一番の原因は咒法師なんだと思う。最終的に堕とすことにしたのは神様なんだろうけど」

 必要な力を失くした者など、要らないということらしい。

「咒法師を、恨んでる……?」

「俺は別に。こうなった犯人はとっちめたいけど、それ以前に、その犯人が誰だかも覚えてなくて。頭絞ったって思い出せるモンじゃないし。だから、今できることをして、最善に生きればいいと、俺はそう思ってるんだけどさ」

「クロードは、違うんだね」

「性格の違いもあるけど、俺より傷が深いみたい。押しつけかも知れないけどさ、そろそろ顔上げて欲しいんだよね。このまま駄目になってくの、見てたくないし」

 こちらの願望の前には、クロードの個性というものがある。頑固で意地っ張りで負けず嫌いで我が儘。けれど、矜持に罅が入った今のクロードは、衝撃に弱い。すぐ崩れそうになる。立て直そうとして、頑張りすぎる。頑張る間もないときは、今朝のような有様だ。

 似たような会話を少し前にもした気がする。その時よりもキアの表情は真剣で、険しい。現状と理解が漸く噛み合ったのだろう。彼女は自分のことのように思い悩んでいるようだ。

「今回も、シンに何言われたかは知らないけど、持論を通すだけの元気と自信があればこんなに凹むこと無いと思うんだ。少なくても、昔はこんな事無かった……」

 意識が遡る。

 人を寄せ付けない雰囲気を漂わせた、孤高の王。

 その男は、憧れこそ無かったが、一目を置く対象ではあった。

「昔から知り合いだったの?」

「階級が二つも違うから、殆ど会った事なんて無かったけどね。でも、芯のしっかりした、君臨するに相応しい感じだったよ」

 願わくば、クロードにあの頃のようになって欲しい。扱いづらさは別方向に増すだろうが、背を丸めて卑屈になっている様を見ているより遙かに良い。

 脱却には、過去を取り戻すより他にないのか。不可能に近いことを目指すより、別の良い手段はないのか。

 ユンがどんなに努力をしても、クロードが受け入れなければ意味がない。

 朝食も、意見も、なにもかも。

「まあ、こんな状態続いたら、一連の事件も片付かないし、なにより、次シンに会ったら爆発するかも……は、ははは……」

 笑えない。

 間を取り持つのも限界がある。

 さっきから口に運んでいるガレットの味がしない。食事は美味しく食べる主義なのに、この朝食にそれは望めないようだ。

 キアも少しずつ食べているが、口の動きが小さい。食べた量よりも咀嚼回数で満腹になってしまいそうだ。

 せめて楽しい食卓を。

 叶わない願いを、ユンはクロードの分の苦いコーヒーで飲み込んだ。



 そういえば、苦しみは大分和らいできたように思う。

 再びガレットを左端から刻みながらキアは考えていた。

 鼻孔の奥から鉄錆の臭いがするような幻覚から殆ど解放されている。夜も割と熟睡できるようになってきた。

 その一方で、クロードは病んでいる。八年前、身の上に起こったことで塞いでいる。

 少しでも負担を減らせたらいいのだが。

 考えながらキアは食べ進める。

 経済的なことに関しては無理だ。表に出るのがままならないこの状況で、働くなどと言い出すのは逆に迷惑になる。

 家の中のことはある程度手伝えている。料理は基礎なら何とかなっているし、掃除も洗濯も出来る。けれど、必要なのはもっと別の所の負担軽減だ。

 それ以外のこと。

 出来そうなこと。

「ねえ、ユン。私、強くなれるかな……?」

 口いっぱいに頬張ったユンは、不思議そうな顔をして首を傾げた。

「充分強いと思うよ?」

 どうやら食い違っているようだ。

「自分のことは、少しくらい、自分で護れるように、なれないかな……」

 心もそんなに強いとは思わない。けれど、押しとどめ、奥歯で噛み潰すくらいのことは出来る。今欲しいのは、内の強さではない。

「あー……。そっちか」

「私も、人間じゃないなら、何か力を持ってたらいいのに……」

 今のところ知っている人ならざる者達は皆、何かしらの戦う術を持っている。フェイは人の道具を使っているが、使い方を知らないか何かで使えていないだけかも知れない。彼もまた、自分の正体を知らない一人だ。可能性はある。

「破壊の力が欲しいって事?」

 もぐもぐと口を動かしながら、ユンは若干渋い表情だ。

「良くないことかな……」

「んー。悪くはないけどさ。ほら。騎士ナイトの役目が無くなっちゃうっていうか」

 口の中の食べ物が減ってきたユンは、コーヒーを一口。

 飲み込んでから、

「クロードの所為でそう思ったなら、心配要らないよ。負担に思うくらいなら、始めから頷かないから。それでふざけたこと言ったら、俺が殴ってやる」

 と、大きな手を拳にして見せた。

「だから、焦らないでさ。ね」

「そう、だね」

 頷き返して、朝食を再開した。

 首肯して、解ったような顔をしている自分がとても嫌なもののように思う。

 ユンの言いたいことは解る。けれど、心の何処かで求めて止まない。アリシアが死んだ、あの時からずっと。

 入って行かなくてもいい世界に自ら足を踏み入れることはない。そんな風に言われているような気もした。でも、無理矢理突き落とされることだってある。頼んでも居ないのに向こうからやってくることもある。そんなとき、無力では何も出来ない。何も出来なかったのが今回の一件だ。こんなに悔しい思いは、もう二度としたくない。せめて、持てる力を持って最善を尽くせれば、後悔も和らいだかも知れない。力を持っているにも関わらず何も出来なかったときの悔しさも、それはそれで大きいのだろうが。

 クロードのように。

 そう考えれば、どうするのが良くて何が最善かなど、判断するのは難しい。

 ユンは強いからあんな事を言うのか。身を以て感じたから言っているのか。これも判断できない。

 しかし、忠告は止めておこう。

 焦っては、それこそ迷惑になるだけだ。

「食べ切れそう?」

 食べ進めるのが遅いからだろう。ユンが訊いてきた。

「クロードの分が、ちょっと多いかも」

「等分にしちゃったからね。ちょっと貰おうか」

「うん」

 食べていない分を半分にして、ユンの皿に移動させた。

 取り分けたのはガレットだけで、まだサラダがある。コーヒーは既にユンの胃の中だ。

「無理に食べなくていいよ」

「でも……」

「捨てるのは勿体ないからね。お昼に……って、こら。おまえそんなの食べちゃ駄目だろ」

 黒猫が椅子に立ち、サラダの上に乗っている鶏ハムを、皿に顔を突っ込んで食べていた。塩気の強い食べ物なのに、至極美味しそうに食べている。朝食用の餌だけでは足りなかったと見える。勢いよく鶏を完食すると、その下にあるレタスやサラダ菜まで食べ出した。ドレッシングは別掛けにしてあるといっても、そもそも猫がこんなモノを食べるだろうか。

「食べさせちゃって、大丈夫かな……」

「どうだろう。美味しそうに食べてるけど。なんかあっても俺、獣医なんて何処にいるか知らないから……なんかあったら、嫌だな」

「おなか、痛くならない?」

「にゃあ」

 大丈夫だ、と言っているようだが、暫くは変化にすぐ気がつけるように目を離さないで居た方が良さそうだ。

 放っておこう、となった頃には、クロードのサラダは殆ど無くなっていた。

 三度朝食を再開。

 もう一度途切れることはなかった。

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