第21話

 流れていく時間

 不平等なそれ

 同一は有り得ない



 眠れない。

 クロードは寝返りを打ち、身体を丸めた。

 僅かな期待を持って待っていた刃は、期待外れの場所に落ちてきた。鈍い音。その中に混じる金属音が、少し耳に残った。それだけだった。

 詰まらない期待をした。

 他人に手を汚させて得ていい安楽ではない。自分で断ち切ろうとしない時点で、どれほど本気だったのか自身でも疑わしい。

 死ぬ気など、本当はなかった。自分のことなのに確信がないが、多分そうだろう。

 楽になれそうな機会がそこに現れたから、身を任せようとしただけだ。楽になるためのことで楽をしようとしただけだ。

 何という怠惰。

 それまでの間、ずっと悩んだ。今まで以上に悩んだ。

 数日そうしていたが、キアは勿論、ユンにも向き合えないままだ。

 何をどう考えて良いのかももう解らない。

 シンの顔を見ても動くものは何もなかった。

 道ばたで独りになって解った。

 思考が止まっていたのだ。何も考えてなどいない。何も悩んでなどいない。

 止まっていただけだ。

 悩んでいた気がしていただけだ。

 時間の無駄をしていただけなのか。

「くだらない……」

 数日間の堂々巡り。それは殆ど空白で、無意味で、無駄だった。

 実にくだらない。

 咒法師は嫌いだ。だが、キアはキアでいいではないか。

 他の咒法師や、その血が混じった者に出会ったら、またその時に考えればいい。シンやネノーアは好く理由がない。だから今のままでいればいい。咒法師自体について割り切ることはまだ出来ない。憎しみは続くし、悪い夢も見る。嫌悪も感じれば、殺したい衝動にも駆られる。このことについては右目の疼痛が消えるまでは少なくともどうしようもないだろう。

 本当に思考は止まっていたようだ。

 動き出した途端これだ。

 もしかしたら、この数日間だけではなく、この数年間、ずっと止まり続けていたのかもしれない。

 しかし、まだ整理は付かない。

 抱え込んだ矛盾が、悪い癖で責めてくる。

 今得た結論を、忘れずにいられればいい。忘れ、再び沈むようなことがあれば、無駄な時間の再来だ。

 こんな風に一旦決着を付けたのは初めてではない。

 浮き沈みは何度も繰り返してきた。今回は深くまで潜ってしまったために、浮上した際の精神状態とのギャップが激しくなっている。

 やはり眠れない。

 折角浮き上がれたのに悪夢に沈められることを恐れている。眠ることで現れる夢。納得したつもりでも、深層では何も変わっていない証拠。それが暗闇から足を掴んで息が出来ない場所へ引きずり込んでくる。それが恐い。

 寝る前と起きた後の精神状態がまるで違うことなど珍しくない。思考さえも反転する。天地が逆さまになったかのように、全てが逆になる。

 寝返りを打つ。そしてまた身体を丸めた。丸くならないと落ち着かない。入眠するにも必要な態勢だ。眠れるかどうかはさておき。

 目を閉じること。闇に入ること。眠る前の状態になることも時に恐ろしい。

 過去の映像が、幻の痛覚が、そこかしこに現れる。

 眠りたい。

 既に朝方近いが、せめて今夜は、浮上した心地のまま、安らかで居たい。

 安眠を。

 ささやかな眠りを。


   *


 シンは自宅の屋根の上にいた。

 コートは着ていない。Tシャツにスウェットという寝間着姿のままだ。

 屋根と言っても、箱のような家の頂上は平面だ。角に腰掛けて、足をぶらつかせる。

 熱は冷め、残っているのは気怠さだけ。怠さを散らそうと、眠っている女を置き去りにして表に出た次第だ。

 時刻は午前六時。いつもなら絶対に起きていない時間だ。街の照明が少しずつ強くなり始め、朝を演出する。

 煙草をくゆらせたい気分とは、こんな感じなのだろうか。

 何気なく出る溜息に、そんなことを思う。煙を吸って吐く心地は、やはり苦いのだろうか。

 ヤニは吸わないので全ては想像の域を出ない。

 口寂しさもある。咥えるものは何も無いので、紛らわすために膝を立て、そこに肘をついて顎を載せた。

 眺める先。同じ高さの建物の波。うっすらと広がる光の絨毯。上三分の二は、言うまでもなく黒。

 目線が低いだけで、いつもと同じ景色。それなのに、いつにも増して黒く重たく感じるのは、見慣れない時刻故か。

 柄にもなく感傷的になっているのは、後悔の所為ではない。

 少し、酔っているようだ。

 酒よりも甘く濃い陶酔。久しぶりの感覚。

 女の体温に、強い生を感じた。

 そう言えば、生きていたんだっけ。今更気が付いたようにそんなことを考えていた。拍動し、呼吸し、動き、思い、生むことはなく、壊してばかりで、生きていた。意識を持ってからの七年間も、その前の何年間かも。必死さなどまるで無くて、目的も目標も持たずに、ただ平坦に過ごす日毎夜毎。刺激に飢えている。壊すことしかできない右手の衝動を、抑え込まずに放ちたい。思いながらも叶わない毎日。それすらも忘れていた日々。

 しかし、思い出した。生きていた。そして、生きている。

 目覚めた感覚に、欲望がニヤリと笑んでいる。本能に限りなく近い欲望。食欲に似た貪り。まるで人間のような欲心。怠惰と表裏一体の渇き。

 表面では冷静を装っているが、内面は暴走寸前だ。

 一度冷めた熱はまた上がり、怠さは痺れのように残りながらも火照る心地よさを覚えている。

 一つの所にじっとしているのは、やはり性に合わない。動きたい。暴れたい。そうしなければ、吸って吐いての繰り返しがまた意識の外に逃げてしまう。

 そろそろ反撃をしよう。

 先制攻撃の機会は相手に取られてしまった。この借りは数倍にして返そう。これは礼儀のようなものだ。

「ふう……」

 切り替える。

 立ち上がり、爪先で屋根を少し押して宙に出た。

 ゆっくりと逆上がりをするように回転しながら、高度を上げていく。

 浮遊感。

 地に足を着けているときよりも落ち着く不思議。

 コートを着てくれば良かった。揺蕩うと広がっていい感じになるのに。

 自分の髪が目に入り、アクセサリを着けてくれば良かったとも思う。羽根が舞うような錯覚が好きなのに。

 空に溶け込むには黒の要素が足りない。気分が良いだけに、着の身着のまま表に出てしまったことが悔やまれた。

 それでもまだ昇る。

 いつものようなスピードは皆無。ひどく緩慢に、思い出したように逆さに回転しながら目指すわけでもなく高みへと行く。

 人間には許されない空という場所。今は戮訃も居ない。一人、孤独に、闇に在る。

「……そうか」

 思わず声にした。

 本来あるべきは、こういう姿なのかもしれない。

 現状が気に入らない訳ではない。二人を招いたのは自らの意思だ。だが、結局は独りで居る方が落ち着く。嵌る。

 もう少し。もう少し。

 暫くの間、だらだらと昇り続けた。


   *


 キアはベッドの中で目を開けていた。

 朝方に目が覚めてしまってから数時間。いつも起床する七時近くまで眠ることが出来ないまま過ごしてしまった。

 前日は特段早く寝付いたということはない。それなのに意識は早々に覚醒した。

 直前、何かの刺激に当てられたのか。覚えていないだけで夢でも見たのか。

 可能性は考えるが、どれもしっくり来ない。

 考えるほどに醒める。

 そうして醒めてしまった。

 黒猫はきっとベッドの足元で丸くなって眠っている。気配が動かない。

 時計を盗み見る。後数分で、目覚ましが鳴る。

 起き上がってしまっても良かった。

 しかし、丸まって上掛けの端を抱え込む。柔らかい感触と共に抱いているのは、言葉にならない胸騒ぎ。良い予感か悪い予感かは判別できない。起きてすぐには感じなかったざわつきは、自覚してから時間を追うごとに強くなっていった。

 キアの第六感は嘘をつかない。良くも悪くも、裏切られたことはただの一度もない。

 だからこそ恐かった。

 良い予感であれば、この恐怖は杞憂だったと片付けられる。しかし、悪い予感であれば片付ける場所がない。受け止めて消化するしかない。

 気分は悪い。

 数週間前に同じ感覚を得た後、アリシアを亡くした。あの時は〝悪いこと〟を考えていた。今日は考えていない。むしろ、前触れさえなかった。

 無くす。失くす。亡くす。

 頭に浮かぶのはマイナスイメージばかり。考えていなかった〝悪いこと〟が呼びもしないのに口元に昇ってくる。

 ピピピピピ。

 アラームが鳴った。

 ベッドの中まで引き寄せ、スイッチを切る。そのまま両手で抱き締めた。

 悲しくなる未来なら、来なくていい。直感に裏切られてもいい。たまには嘘つきでも良い。

「にゃあ?」

 猫が覗き込んでいる。時計を抱く手に、前足を載せてきた。

 心配されている。そんな気がした。

「悪い癖だよね。怯えてたら、本当にそうなっちゃうかもしれないよね」

 艶のある毛皮を撫でてやると、気持ちよさそうに尻尾が動く。

 自分の感覚に流されすぎる自覚はある。しかし、百パーセントという実績が不安を激しく増殖させる。

「大丈夫。みんな強いもん」

 人間ではない彼らが、容易く死ぬはずがない。心配なのはこの黒猫くらいだ。

「おまえは私が護るよ」

「にゃあ」

「よしよし」

 ひとしきり撫でると、キアはベッドから出た。

 いつも通りならばユンも起きている頃だ。

 朝食は何にしよう。


   *


 ――いつもは引きこもりの癖に、目を放すとふらふらするんだから……。

 ドアが閉まる音がして足音が戻ってきたのは深夜。

 クロードが出ていったのも知っていた。だが、追わなかった。追ったところで、無益なやりとりが交わされる場所が表に移るだけだ。無益と判って人様に迷惑を掛けるような問題ではない。

 ユンは頭と枕の間で手を組んで天井を見上げていた。

 帰ってきたところで、どうせ眠らないのだろう。察しのいい男に嗅ぎ付けられて傷を深めていなければいいが。

 ユンのポジティブがクロードのネガティブには歯が立たない。

 かつての王は、雰囲気こそ変わらないが、もっと沸点が高くて高慢にポジティブだったはずだ。昔の話、とは言わせない。過去があるのなら、今もそうなれるはずだ。

 染みも飾りもない天井を見続けても、気に入らない現実が掘り返されるばかり。

 そんなモノを頭に浮かべるのはうんざりしている。

 どうせならもっと笑顔を呼ぶものを。

 ――ガレット、フレンチトースト、オムレツ、バゲット、スクランブルエッグ……。

 羅列するのは朝食のレパートリ。頭に入っているレシピをひっくり返す。

 ――トースト、リゾット、粥、チャーハン、パスタ、グラタン、シチュー、カレー……。

 徐々に朝食の枠から外れ、作れるもの全てを思い浮かべていた。

 クロードは鶏肉が好きだ。甘く味を付けなければ、一瞬で完食するくらいだ。本来ならば。彼が好きな鶏の調理法は……。

 ――香草焼き、悪魔焼き、塩鶏、クリーム煮、唐揚げ、薫製、薄切りにして湯通ししたものをサラダに添えたり……。

「なにやってんだ」

 彼の好物を思い浮かべたところで、今のクロードはろくに手を付けない。

 努力はした。もう思いつかない。浮かんでくるのは料理のレシピくらいのものだ。

 残る手段があるとするなら、殴ることくらいだ。それをしないのは、殴った結果、クロードが思い直す可能性はゼロ以下だから。悪い方向にしか進まないと判っていてするのは愚かだろう。

 大体、彼の顎が耐えられるかどうかも疑問だ。試したことがないので判らないが。

 何か起こるのを待つしかないのか。その何かが、最悪に近い何かであった場合、取り返しは付くのか。

「ああっ。もう……!」

 サイドテーブルの時計を掴み取る。

 七時五分。鳴るはずのアラームは黙ったままだ。仕掛け忘れたらしい。

 嫌な朝だ。

 ユン自身もあまり寝ていないが、今更眠れない。キアがそろそろ降りてくる頃だ。

「朝飯何にすっかなぁ」

 わざと声に出し、上掛けを蹴り飛ばす。

 部屋を出ると、丁度キアと鉢合わせた。


   *


 女は微睡んでいた。

 自分のものではないベッドの中で、心地好い匂いがする毛布を抱き枕代わりにして。

 夢のような現。心地好い疲労。堕ちる快楽。

 全てに身を委ねて、彼女は目を閉じている。

 独り取り残されていることなどにはまるで気づかずに。

 熱は全て自分のもの。与えられているのはではなく、戻ってきているだけ。

 抱かれているのではなく、変わり身を抱いているだけ。

 彼女は知らない。

 目覚める瞬間まで気が付かない。

 目覚めた瞬間に偽装されていれば気付くことはない。

 全てはその瞬間に決まること。

 毛布を改めて抱き寄せる。頬を寄せ、埋もれる。

 幸福と眠りの中。

 女は微睡み続ける。


   *


 ネノーアは部屋の奥にあるソファの肘掛けに腕と頭を載せて寝そべっていた。

 気配を探っていたらいつの間にか眠ってしまったらしい。

 囁きは、思った通りの状況を作った。しかし、最後まで思い通りには行かなかった。使神も天隷も、方向性の違う諦めを抱いて、潰し合いには至らなかった。

 つまらない。

 シンが邪魔をしに行かなくとも、結果は変わらなかった。

 仕方がない。

 それほどまでイヴェールは憎しみに浸食されてなかったということで。もしくは、憎しみに歯止めを掛ける何かがあったということで。

 止める物があったとして、それは何だろう。

 罪悪感か。嫌悪感か。信念か。

 一度流されながらも、最後の一歩を踏む前に留まれるもの。

「何かしらぁ」

 内から湧いてくる物であるならば、もう一歩というと所に行く前に踏みとどまれるはずだ。しかし、彼女は家を飛び出した。ギリギリの所まで辿り着いた。

「何でシンは止めに行くのかしらぁ。何が嫌なのかしらぁ」

 使神が一人いなくなることに心を痛める男ではない。天隷が手を血に染めることを厭う男でもない。

 可能性があるとして、エストラの二の舞を見たくないから、という理由。あの一件についてはそれなりにこたえているようだから、あり得る話だ。

 シンがイヴェールを止める理由はこんな所だろう。

 では、イヴェールは何故手を止める。踏みとどまる。

 思案。

 模索。

 繋がり。

 関わり。

 時間。それが生み出す物。

「もしかしてぇ……」

 辿り着いた一つの可能性に、ネノーアは笑みを零した。

 腹の中まで黒いあの男に堕ちた哀れな女が、また一人。

「可哀想」

 怠惰に寝そべりながら、くつくつと笑った。

 哀れな女。哀れな天隷。ただでさえ哀れな存在なのに、それ以上に堕ちて何処へ行く。

「いいわぁ。堕ちたいなら、もっと堕としてあげる」

 嗜虐思考が、咒法師の本性が口角を上げる。

「シンも一緒に堕ちればいいわぁ」

 与り知らぬ所で起きたことに再び巻き込まれ、また傷付けばいい。そこから滴る血はどれほどに赤いだろうか。

 見てみたい。弄り回して広げてやりたい。

 天窓の外には黒い空。ソファから見上げると天井まで距離があるために黒いタイルのように貼りついている。あんな風に黒く、心の中まで染めたしまいたい。今以上に黒くなったら、あの男はどうなってしまうのだろう。

 見てみたい。

 転がり出しそうにネノーアは笑った。

 笑って笑って気が済むと、おもむろに起き上がり、ベッドに向かった。

 やはり、寝るべき場所で寝なくては。

 横になり、目を閉じる。

 眠気とは関係なく、ネノーアは眠りに落ちた。


   *


 少年は、目を覚ました。

 非常に目覚めの良い、稀なる朝。

 これから始まる一日への期待を胸に、一息に起き上がる。

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