第24話

 動いている 廻っている

 いつも何処かで

 見えない何かが



 この心に正義なんて無い。

 明確な悪もない。

 動機なんていつも不明瞭で、もやもやしてて、どうでもいい。

 動きたいのは衝動があるから。止まっていることを許せない自分があるから。

 憎んではいない。しかし、赦せないことがある。色々と。

 愛だって本当は知らない。

 自分のことも本当は良く知らない。

 それでも、自分自身を信じている。何の根拠も無しに。

 不確かなことばかり。

 どうせ誰も答えを知らない。答えなんて本当は存在しないのかも知れない。

 その中で確信している事の一つは、この世界は蓋をされているということ。

 巨大な蓋が、万人を塞いでいる。

 そして、今一番害である蓋は、この化粧臭い女だ。


   *


 まるで使いこなせていない巨大な空間は、異質だった。

 ベッドは一つ。ソファとテーブルを一セットにしたものは、あちこちに点在している。

 横にも縦にも広い部屋は、白く塗り潰された倉庫のようだ。たった一人が占有するには、あまりにも大きい。

「あらぁ。エニロムはやられちゃったのぉ?」

 シンが飛ばした扉の軌道とは別の場所に女の姿があった。

 ネノーアは豪華なソファーに沢山のクッションを重ね、その上に寝そべっている。

 肘掛けにもソファーを置き、肘を突いて何とも怠惰に半身を起こしている。足の短いテーブルに置かれた皿の上は何もない。食べ終わった後のようだ。

「屑を俺達に寄越すな。鬱陶しいだけだ」

 そう言い放つシンに、違和感があった。フェイはそれを盗み見る。

 両脇に垂れた手は不愉快そうに動きながらもその場から動く様子はない。斜め後ろから見ているので表情は僅かしか覗けないが、

「あらぁ。シン。あなた頭でも痛いのぉ? 右目が歪んでるわよぉ?」

「持病でね。ブス見ると頭痛がする病気」

 〝頭痛〟という言葉にフェイは息を呑んだ。

 先日のミトギとヒリダとの戦いが思い出される。シンの前腕に大きな傷を残したそもそもの原因は頭痛だ。つい先程まで好調だったシンに何がきっかけで変化が起きたか知る由もないが、今、不調に転じているのだとしたら悪い予感しかしない。

「にひゃくごじゅうご!」

 気を揉むフェイの後ろで、突然ユンがあの魔の言葉を叫んだ。

 空気を読めないというか、敢えて壊したというか。

 それぞれの表情がユンに集まったが、怒っているのは勿論この人。

「んまぁ! なんて失礼なの、このガキっ! 人肉ミンチにしてあげるわぁっ!」

 真っ赤になって眉をつり上げたネノーアの顔から化粧が剥がれ落ちたかどうかは分からない。それでもシンが比喩した通りに怒ったことは確かだ。

 面白い結果にユンは愉快そうだったが、ネノーアが向かってくる危険を察してか、適度なところで笑みを引き上げた。

 磨りガラスを爪で引っ掻いたような奇声を上げているネノーアを前に、シンは手をひらひらさせている。

「はいはい、ネノーア。それ以上怒るとホントに顔が剥げるぜ。ユンをミンチにしたいなら、まず俺からやってみろよ」

 シンの顔にいつものような軽い調子の笑みはない。笑っているには違いないが、雰囲気が、重い。

「いいわよぉ? あなたの蒼を奪って、それからミンチにしてやるわぁ! 新しいおうちの壁材のコンクリに混ぜてあげてもよくてよぉ!」

「まずは挽肉に出来てから利用法考えるんだな。ネノーア。あんたには無理だ」

「そんなことなくてよぉ!」

 寝そべったままネノーアは咒法を放つ。シンはそれを片手で弾くと、天井に大穴が空いた。その先には暗い空がある。

「クロード。頼んでいいか?」

「言われなくても頼まれてやる。早く耳障りな騒音をどうにかしろ」

「サンキュ」

 痛みの混じった笑みを残して、シンは床を蹴った。

 ネノーアは先程咒法を放った勢いを利用してソファーから降りて立ち上がっていた。立つと言っても、いつものように床から十センチ程浮いている。

「狭い部屋じゃ、戦いにくいだろ!」

 ネノーアの顔目がけてシンは咒法を放つ。勿論ネノーアは避けたが、その後ろは破壊され、表と繋がった。

「酷いわぁ、ネノーアのお部屋!」

「壊されたくなかったんなら吸収するとかしてみろよ。どんどん壊すぜ?」

 発言通り、シンはネノーアの居る所に術を放つついでに部屋の破壊も開始した。

 部屋が破壊され空間が開けてくるに連れて、二人の戦闘場所は屋外の空中に移っていっく。戦況を眺めるのも苦労するほどの高みにまで二人は昇っていった。



「酷いわ酷いわぁ! 弁償させてやるんだからぁ!」

「俺を壁材にするんじゃなかったのか? んなことしたら弁償出来ないぜ?」

「きぃぃぃぃっ!」

 揚げ足を取られたネノーアは、むやみやたらに術を放った。シンと違い両手で術を出せるので、攻撃効率はいい。しかし、狙いが定まっていないのでまともな攻撃になっていない。あまりに幼稚な攻撃は、まともにシンの方に向かってこない。時々来るのを弾くだけで事足りた。

「やる気あるのかよ、ネノーア」

「あなたがそうやって余裕かましてる間に、下の人たち木っ端微塵よぉ?」

 そう言ってネノーアは笑う。シンの足元ではもうもうと煙が上がっていた。そこには、置いてきた五人が居る。しかし、シンの余裕の表情は変わらない。

「多少薫製にはなってるかもしれねぇけどな」

「非情なのねぇ、シンって」

「いいや。俺はクロードに『頼む』と言ってきた。言ったからにはあいつを信じてる。あんたもクロードが実は何者か知ってるなら、侮らない方がいいぜ? 俺じゃなくてヤツに殺されるかも知れないんだからな」

 見透かすような目でシンはネノーアを見る。

 変化のない余裕に不安を覚えたのか、ネノーアは早く状況を確かめるべく、手の平を立ち込める煙に向けてうちわの様に仰いだ。それによって発生した巨大な風に煽られ、視界は開けていく。

 開けたその先に、クロードが左手を上に翳して立っていた。彼が見据えるはネノーア。

「卑怯な思考が頭を過ぎるようなら、シンに代わって貴様のその首、もぎに行くぞ」

 低い声でネノーアに告げる。建物は酷い有様になっていたが、五人には全く被害が及んでいない。

「な? 片目の使神もなかなかやるだろ?」

「なによなによ。クロードもユンも天隷の女もそこの子どももみんな中途半端じゃないのぉ。それが何を偉そうにぃ」

「そうかな? 一番中途半端、ってより、不足過多なのはあんただろ。特に、その頭の中身」

 ネノーアはまた何か騒いだが、だんだん聞き取ることが不能になってくる。

 それからまた咒法の応酬を繰り返すうちに、二人は更に高度を増していった。

「そもそも何でネノーアのこと目の敵にするのよぉ。ネノーアはあなた達からかって遊んでただけなのにぃ。天隷をちょっと構っただけでこんなにムキになってるわけぇ?」

「気に入らないことが多すぎて列挙するのもめんどくせぇ。取り敢えず、目障りなのを消せればそれでいいんだよ」

「くだらないわぁっ! それこそくだらないじゃないのぉっ」

「一々言葉で理由付けられる程、俺たち、単純じゃねぇんだよ!」

 俺たち。

 シンは無意識にそう言った。俺ではなく、俺たち、と。

 シンはネノーアに向けて再度咒法を放ったが、その時、側頭部に痛みが走って手元が狂った。蒼い光はネノーアの脇を通過し、黒い空に向かって飛んだ。

 ――しまった。

 術はなるべく物に当たって消失するように調節していたのだが、この術に関しては何にも邪魔されることなく進んでしまう。

 暫くすると、巨大な雷が空を駆けた。

 その程度で済んだか、と安堵しつつも、激しい頭痛にシンは奥歯を噛んだ。

 押さえていても気が済まない。鈍いのか鋭いのか捉えることが出来ない痛みは、シンから注意力を奪い去った。

「余所見してるとやられちゃうわよぉっ!」

 いつの間にか目の前にネノーアの咒法。避ける為の動作も追いつかず、シンは正面から喰らった。シンは喰らった咒法と共にまだ残っていた建物の屋根に衝突し、更にその下の階をもぶち抜いた。



 上空を見上げていた五人は、その光景に息が止まりそうになった。

 何人かはシンの名を叫んだ。クロードとユンの二人だけがは驚きだけで止まり、それ以上動じることはなかった。

 その気持ちに答えるかのように、見えない所から青白い光がネノーア目がけて飛んでいった。その光を追うようにシンが飛んでいる。服は傷んでいたが、彼本体にダメージがあったようには見られない。

 ただ、シンは頭を押さえていた。傷がある所為には見えない。

 光に隠れてネノーアにシンの姿は見えない。

 先程エニロムに使ったのと殆ど同じ手法だ。

 ネノーアがやってきた光を弾くと、突如としてシンの姿が現れた。弾いた後の動作から、回避や反撃の動作に移る余裕は与えられなかった。至近距離からシンの第二撃が放たれる。

「きゃぁぁぁぁっ!」

 悲鳴と共に彼女は弧を描いて飛ばされていった。シンはそれを追わないで、咒法を放った手を払った。

 その動作の数秒後、クロードの足元に赤の染みが現れた。

 ハッとして改めて上空にいるシンを見上げる。

 ――滴る程の血が……。術の使い過ぎか?

 同じものを見たフェイが、顔面を蒼白にしてクロードの腕を掴んだ。

「ねえ、シンにこれ以上戦わせられない! 偏頭痛抱えて戦うと、リズムが合わなくて余計腕に傷が付くんだ! シンは右でしか咒法使えない。あんまり続いたら、シンの腕、壊れちゃうよ!」

「……腕が、壊れる、か。そういうことか」

 いつかネノーアが言っていた言葉が漸く意味を成した。恐らくそれは、咒法師としての死。術が使えない咒法師など、色と寿命が違うだけの人間と変わらない。

 堕とされた人ならざる者達と同じだ。

 シンの場合、出血が過ぎれば生き物としての命も危ういだろう。

 止めてくれ、とフェイの涙目が懇願している。いかに大切に思っているかよく解る。

 しかし、クロードはシンを呼び戻す為の声は上げなかった。

「だがな、奴の戦いを止める権利が何処にある? 自ら望んで戦ってるあいつに、第一……戻れと言っても戻るわけが無かろう」

「でも、……でも!」

 止めたい理由も、止められない理由も、過不足無く揃っている。

 しかし、まだ時機ではない。

 腕を掴んでくるフェイの手をとり、解ってくれと力を込めた。



 不安の目で見上げられているシンは、血にまみれた手で右側頭部を押さえていた。傷が走ったのは小指の付け根から斜め方向の手首に掛けて。一瞬の出血は激しかったが、既に傷は塞がっている。

 ――くそ……。これなら頭かち割られた方がよっぽど楽だぜ。

 時折意識まで持って行かれそうなくらい痛む。偏頭痛といってもこれは尋常ではなかった。何かに復讐されているかのような感覚を得る程に痛みは激しい。

 見えない過去に、知らない自分に、そして救えなかった過去に復讐されているのではないかという考えさえ浮かぶ。

「お洋服ダメになっちゃったじゃなぁい!」

 膨れ面をしながらネノーアが戻ってきた。

 彼女のスカートは見る影もなくボロボロで、腹や腕には火傷を負った皮膚が見えている。

 シンの頭にネノーアの姿が響いた。

 昔にまつわると頭痛がする。

 ネノーアはシンの遠い過去にあった存在だ。まだ偏頭痛が慢性的だった頃のこと。

 過去の存在が不愉快だからか、過去を思うと何かを呼び起こされるからかは分からない。とにかくそれを前にすると頭が痛くなる。ミトギとヒリダはネノーアに関わっているから結局は彼女に結びつく。

 ――過去の、……俺は過去の何に頭の血管を縛られているっていうんだ。

 自問した所で、到底答えは出そうにない。

 ネノーアが何か言いながら迫っているのが見えた。それを聞き取ることが出来ない。視界も霞む。

 意識が、もぎ取られる。

「く……」

 喉から息を漏らして、シンは必死に掴んでいた意識を遂に手放した。



 落ちかけたシンの胸倉を、ネノーアは掴み取る。術を使っているため、手には殆ど力を入れていない。

 シンの身体からは力という力が全て零れ落ち、完全に気を失っていた。

 一人の男を、正面からではそうそう太刀打ちできない男を、容易く掴み、吊す快感。

 悦だ。

「シン!」

「なんだよ、気絶してんのか?」

「阿呆が」

 下方で様々な声がするが、ネノーアにはそれが心地いい。

「頭痛抱えて戦うとリズム崩すんですってねぇ。間が悪かったのねぇ。でもどのみちネノーアが勝つんだから同じ事よぉ? お約束通り、新しいおうちの壁に練り込んであげるわぁ。しかも、ネノーアのお部屋よぉっ! 名誉を噛み締めて粉になっちゃいなさいっ!」

 高らかに笑って、胸倉を掴んだ手に力を集中させた。

 しかしその時、胸倉を掴む手を掴まれた。ネノーアの顔から笑みが瞬時に一掃された。

 掴むその手の主は、吊していた男。既に彼は自力で浮遊し、目には力を宿している。

 男の顔には余り見せない不機嫌の表情。むしろ怒りに近い。

 本気で怒りに満ちているシンの顔を、ネノーアはこの時始めて見た。

 見なければ良かった、と、血が退いていくのを感じながら思う。



 シンは掴んだ手に力を込めた。細いネノーアの腕は、軋む嫌な音を立てる。それと同時に彼女の表情が歪んだ。痛みを堪えているのか、それとも恐怖に引きつっているのか、両方か。

 苛々する。腹が煮える。エストラが死んだときですら、こんな事は思わなかった。

 これは怒りなのだろう。だが、何に対しての怒りなのかが自身の感情でありながら巧く捉えられない。

「あのなぁ、気が乗らねぇとか、頭痛ぇとか言って逃げられる事じゃねぇんだよ!」

 一体この言葉がネノーアに向けられたものか定かでない。

 苛立ち任せにシンは言い放つと、掴んだ腕を振り下ろすようにしてネノーアを建物目がけて投げた。それに追い打ちを掛けるように咒法を放つ。それも一発や二発ではなく、集中砲火のように。

 憎んではいないと言っていたが、それは恨みか憎しみを打ち付けているかのようだった。頭痛を呼ぶ過去を打ち砕くようでもあり、もっと軽く見積もるのであれば単なる腹癒せだ。

 建物の崩壊と、この街に常時ある砂埃によって、シンの眼下はあっという間に茶色くなった。

 気が済むと、シンはネノーアが落ちた場所に急降下した。そこは彼女の部屋より下の階で、工場のようだが破壊が過ぎて判別は難しい。

 その中から瓦礫に埋もれたネノーアを見つけ出すと、襟首を掴んで引きずり出し、入ってきた穴に向けて放り投げた。

 砂埃と共に着地した場所は、彼女自身の部屋。ネノーアに意識はあったが、足を折ったか挫いたかしたようで、立ち上がれない様子であった。手を付いて上体を起こしているが、それも辛そうにしている。

「畜生。また砂まみれじゃねぇか」

 愚痴をこぼしながらネノーアの部屋に上がる。頭痛は既に引き、気分は若干ハイだ。

 シンと同じく全身に砂を被ったネノーアの前に立つと、腰に手を当てて彼女を見下ろした。彼女に今までの威勢は全く存在していない。

 惨めな彼女の姿を、シンは薄ら笑いで見下ろした。

「なあ、キア」

 振り返ったシンに呼ばれ、キアはシンを見た。

「こいつ、殺そうか?」

 シンの問いキアは一瞬驚いたものの、すぐに厳しい顔をしてネノーアに視線を移した。しかし、睨むだけで首を縦にも横にも振ることはない。

 義理の母の仇。憎しみは持っても、彼女はその憎しみを癒すために誰かの死は求めない。尋ねる前から、いくら待ってもキアは首を縦に振らないだろうことは解っていた。

 シンは腰を折って右手を差し出すと、ネノーアの頬に触れ、親指でそこに付いた砂を擦った。ネノーアの肌色に淡い茶色が広がり、中には固まったシンの血の欠片も混じる。

「ど、どうする気よぉ」

 引きつった顔でどうにか叫んだネノーアを、シンは弄ぶように見た。

「どうするかな? 俺は男だし、あんたは女だし。出来ることは色々あるけど?」

「ひっ、卑猥だわぁ! 下劣だわぁっ!」

「でもな、あんたにあんま興味ないんだ、俺」

 そう言うと、シンはネノーアの耳に口を寄せた。身を縮めてシンを避けようとするが、頬に手が添えられている為に行動は制限される。乏しい体力に、痛む足。顔を歪めて睨むのが精一杯だろう。この状況にあって良く抵抗している方だ。

 そして、外耳に唇が触れそうな程近くでシンは囁く。その声はざらつきを持ってネノーアの中に侵入した。

「俺はね、身体カラダを犯すより精神ココロを犯す方が好きなんだよ」

「どっちにしても下劣よぉ!」

「よく言われる」

 顔を彼女から遠ざけると、今まで彼女の頬に当てていた手を目を覆うように移動させた。傷つき、固まった血がこびりついた手を開いて、親指と薬指は彼女のこめかみを押さえる。丁度手の平が彼女の目を覆う。

 ネノーアが震え出した。何をされるのか解ったのだろう。

 何故なら、数年前、ある女にしたことと同じ事が自分の身に降りかかっているのだから。

 身体を支える為に手を付いていなくてはいけないネノーアは、片手だけをシンの右手を掴むことに使った。しかし、この段階で咒法を封じられている彼女に、抵抗の手段など無かった。

「嫌ぁぁぁぁっ! やめてぇぇぇっ!」

 ネノーアは叫んだ。

 塞がれて暗くなった視界が尚、恐怖を煽ったことだろう。

 掴んだシンの右手に爪を立てても、その手を引き剥がすことは出来ない。

 全ては彼が支配している。抗いさえも奪われて、全てを無くすまで委ねるしかない。

 シンは笑む。

 端整な顔を見る者に怖気を走らせるような残酷な笑みを持って、泣き叫ぶネノーアを見下ろした。

 いつか空中からクロードを見下ろしたのと同じその表情。卑猥な粘質を持った視線。掴んだ彼女の運命を握り潰すことを微塵も厭うことのないその冷徹さの出所は、一体何処なのか。

 シンの表情を見られる位置にいる者はネノーア一人。だが、その人は視界を塞がれその気配だけを見ている。

「死ね。咒法師として」

 風が起きる。

 風に悲鳴が舞い飛んだ。

 蒼の光がシンの手を包む。

 起きる風によって、シンとネノーアの黒髪は靡いた。

 やがて靡いている黒髪のうちネノーアのものだけがその色を失っていった。シンの手の中で見開かれた目も、蒼を失い、黒になってもまだ色を失い続けた。

 シンはやめない。

 蒼を奪うだけでは飽き足りない。

 その目的は、力を奪い喰うことではなく、精神を喰い破ること。

 神が好み、貪り食うものと同じ。美味なそれは、いくら舌で味わい腹に詰め込んでも満腹にはならない。後を引き、いくら求めても足りない。

 と同じく、シンも満足する様子を見せない。

 ネノーアの光彩は黒さえも無くし、やがて白になった。美しく艶のあった黒髪も、一本残らず白く変わり、縦ロールにした形も崩れ乱れている。

 命を奪い始める一歩手前で、シンは漸く力を止めた。

 手を離し立ち上がったときには、誰も今までその顔に残虐な悪魔が棲んでいたとは想像も付かない程、表情は綺麗に切り替えていた。

 自分だけの悦。見られてたまるか。

 解放された目は、焦点を失っていた。宙を彷徨い顔を動かしてみるが、涙も枯れ果てたその目が何かを見ている様子はない。何処を見て良いかも解っていない様子だった。

 彼女の目は視力を失い、もう二度と焦点を結ぶことはない。

「殺さないのか?」

 シンの横に立ち、哀れなネノーアを見ながらクロードが問うた。

 訊かれたシンは鼻で笑い、今しがた出来たばかりの手の甲に付いた小さな傷の血を舐めた。

「殺されるよりも辛いことは世の中いくつかあるんだよ。あんただってそれ、知ってるだろ?」

「……確かに」

 誰に向けてか冷笑して、クロードはネノーアに背を向けた。

 シンは改めてネノーアを見る。

「さて。有害ジジイとの約束通り、あんたを送りつけてやるとしますか。目が見えないんじゃ何かと不便だもんなぁ。ジジイも可愛がってくれると思うぜ。宜しく言わなくていいからな」

 見えないネノーアに手を振ると、その手を彼女に翳した。彼女はもう何も言わない。言うだけの気力も声もとうの昔に失っていた。

 その姿を見てシンは密かに微笑。そして、翳した手に力を意識する。

 彼女の足元に青い円陣が現れると同時に、その姿は忽然と消えた。

「ねぇ、頭痛は?」

 清々した顔で戻ってきたシンにフェイが尋ねた。

「要は気持ちの問題って事」

 その答えによるフェイの消化不良のことなど少しも考えていない。

 不満そうなフェイを他所に、シンはキアの前に立った。

「あれでいいだろ? 返事がなかったから俺の好きにしたけど、望むなら殺してきてもいいんだぜ?」

 淡い誘惑に、キアはやはりどちらにも首を振らず、シンを見た。

「……解ってる。殺してと言ったら、シンは殺してくれただろうけど、そんなコトしても、意味はないもの。あれでいいの」

「あの女が殺されても誰も怨まないとしても?」

「たとえ怨むような人が居なかったとしても、いつか巡ってくる。そしたら、きっとまた私は何かを失う。もしかしたら、貴方が何か失う。そんなのは嫌だもの」

「そう」

 負の連鎖。それを知っているのか。

 シンは嗤った。

 真似など出来ない。自分ならば、どれだけ泥濘に嵌ろうとも赦すことなどしないだろう。それが出来るほどの懐など持ち合わせていない。

 聡い子どもの頭を血の付いていない方の手で撫で、一息。

 次の段階は、帰宅だ。ここは最上階。戻るには降りるのが常套だが、散々破壊した後だ。道が残っているかも怪しい。

「戻るのも、大変そうね」

 キアの言葉に皆が頷く。

 仕方がない、と言う空気が流れる中、シンは別の意味で頷いていた。

「そんじゃ楽しよう」

 言葉の意味を誰一人理解する前に、次の瞬間彼らは入ってきた場所に居た。

 見事にほぼ全壊した建物が目の前にある。こんなモノの中についさっきまで居たのかと目を疑う。こうなると立派な建物も見る影もない。

「便利だな、貴様」

「あんたも昔は出来ただろ」

「昔の話だ」

 過去に置いてきた物を、昔の話と片付けて笑うクロード。少し前までの迷いも憎しみも、何処かへ忘れてきてしまったらしい。

 その袖を引く手がある。

 キアだ。

「ねえ、クロード。シンに、……聞いたの」

 不安に塗れた顔で、彼女はクロードを見上げている。

「私の、血のこと。さっき、大した怪我もしないで済んだのも、この血の所為だって……。でも、クロードは――」

「キアは、キアでいい」

 目を合わせ、逸らし、また合わせ。そうしながら、見つけた答えをクロードは言葉にしていく。

 いい大人が、何て初々しい。

 挟む口もないので、シンは大人しく傍観者で居た。

「でも……」

「不満があるなら別の道を考えればいい。そうでないなら、生きたいと思う場所が出来るまで居るといい。……もう、惑わされはしない」

 紅い目が、こちらを睨んだ。

 蒼に相容れない紅。

 強い意志を持ったそれは、もう簡単には押し潰せそうにない。からかい甲斐のあるひとときも、終いのようだ。



 フェイは渦中にて、一人、胸を押さえて空を見上げていた。

 先程ネノーアの建物の中で感じた息苦しさを、何故かここでも感じたのだ。

 圧力を感じる。上からも横からも。

 蓋をされた鍋の中にいるような感じだ。

 その様子にイヴェールが気が付いた。

「フェイ。どうしたの?」

「ん……なんかね……」

 なんと言おうか迷い、言いかけで一旦口を閉じた。

 この感覚、なんと言おうか。

 胸をやんわりと押さえてくるこの、気持ちの悪い感覚を。

「世界って、息苦しい感じなんだな、って」

 出てきた言葉がこれだった。少しズレたかと懸念したが、浮かんできた最初の言葉を行ったまでだ。

 別の会話をしていた者も、揃って視線を向けてきた。今、フェイは全員の視線の中心にいる。

 その中心へ進み出てきたのはシンだった。

「それが世の中ってヤツだよ。もしかしたら、それが大いなる秘密の答えかも知れないぜ? 世界は狭い割に不思議なことと知らないことがあまりに多い」

「秘密?」

 フェイに続いて、キアにヴェール、ユンもシンの方を見た。

 クロードは既に向いていたので、首を動かす動作の代わりに眉間に皺を寄せるに留まる。

 誰もが違う面持ちで見つめる中、シンは闇の空を見上げた。

 星もない。月もない。雲もない空。ただ存在を許されているのは黒という色。

 何もない空を仰ぐその顔は、何かを嘲っている。

 漸く顔の向きを戻すと、魅惑を持った唇がゆっくりと開いた。




「秘密。そう、たとえば、この世界の名を〝バベル〟ということとか」

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