第23話

 この世に正義など存在しない

 在るのは人の数だけの

 自己主張



「せ、生物兵器とか出てこないよな?」

 地図に示された場所に足を踏み入れたユンの第一声がこれだった。

 床も壁も天井も、真っ白の冷たいタイルで出来ている。白い蛍光灯に照らされて、異様に明るく、目に痛い。少し奥に行けば何かやましい研究でもしていそうな、そんな雰囲気であった。

「くだらん本の読み過ぎだ。現実を見ろ」

「……クロードに言われたくない気がする」

 ユンは口を尖らせて横目でクロードを見た。今はクロードも少し落ち着きを取り戻し、いつも通りになりつつある。ユンの無駄口にいつものように返すことが出来る。

 空腹甚だしいクロードのためにと、ユンは途中でパンを買うことを提案した。気は急いていたが、一度倒れそうになった身体だ。意地を張って無理をする利点が何処にもない。一番最初に見つけた店に飛び込み、そこで買った菓子パンを食べながらここまでやってきた。急激に血糖値が上がり、始めは眩暈を感じたが、今はそれもない。

 足で進むとは何とももどかしい。昔の様に飛ぶことが出来たらいいのにとこの八年で一番強く思った。全力で走り続けられる肺を持っていないので、小走りと早歩きを繰り返した。

 焦燥に耐えること約二時間。漸く塗り潰された黒と重なることが出来た。

 建物の規模は、外観を見ただけでもかなり大きい。だが、天井が異常なまでに高いことを考えると、せいぜい三階建てだ。入り口に鍵が掛けられていなかったのがいかにも誘っているが、ここは敢えて誘惑されておく。

 中に入ってすぐはがらんどうのホール。誰も居ないし気配もしない。目の前に一本だけある通路の先は二手に分かれている。

「初っぱなから迷わせるなぁ。二手で大丈夫か?」

「ああ。数が常識の範囲内なら凌げるだろう。ここは壊しても誰も文句は言わんだろうしな」

「じゃあ、分かれる前に一言本音を言わせてチョーダイ」

 何でもいいから早く言えと、クロードは横の人物に冷視を向ける。

 それでは遠慮無く、と視線を受けてユンは口を開いた。

「左目も咒法師にやられたら洒落になんねぇからな」

 聞いたセリフだ。

 頭痛を思い出しそうになり渋い顔でユンに目をやった。

「シンと同じ事を言うな。不愉快だ」

「俺、二番煎じ?」

「そうだ。不味くて敵わん」

「渋いのも結構いい味なんだぜェ」

 憎らしいユンを前に、クロードは左手を示して見せた。

「黙れ。その口吹っ飛ばすぞ」

「俺は今でっかい剣担いでるんだけど、頭上に落とすよ」

 建物に入るときに再び手中に戻った剣を肩に担ぎ、ユンは強気だ。

 勝敗はどちらにも付かない。

「貴様。今日は随分反抗的だな」

「いやぁ。久しぶりにコイツ振り回したら何か昔思い出してさぁ」

「もう殉徒じゃないとほざいたのは何処の誰だ」

「いや、だからそれは昔の話……」

 またいつものようにエンドレスの応酬になりそうだったが、ユンの方から口を噤んだ。

 二人が黙ると、ホールはまた物静かな空間に変わった。結構な大声で喋っていたのに、それでも誰かがやってくることはない。ネノーア以外にどれだけの量の敵がこの建物に潜んでいるか分からない以上、それなりの注意は必要である。

 慎重派のクロードに対し、何でもいいから動いてしまえいうユン。作戦を立てようにもそもそもその時点で噛み合っていない。それを互いに知っているので、まずそんなことをしようなどという事にさえならない。

「貴様は左に行け。いいな」

「リョーカイ、隊長」

 方針が決まり、いざ動こうとしたとき、彼らの後ろで派手に入り口が開く音がした。

 敵襲を疑い二人同時に振り向くと、そこにはシンが無駄に偉そうに立っていた。

 ある意味、敵よりもやりづらい相手だった。

「はい、お二人さん。お届け物なんですがね」

「要らん。無用だ。不要だ。不快だ。消えろ。失せろ。死ね。去ね」

 早口で拒絶するも、シンは動じない。

「返品は中身確認してからにしたって遅くないと思うぜ?」

 あれだけ好き勝手なことを言い放っておいて、今更何を。

 クロードに負けず、今回はユンもかなり訝しげな顔をしている。

 待つこと一秒。

 シンの後ろからフェイとイヴェールと共に見知った女の子が出てきた。

 金の髪に、青緑の瞳。

「キア!」

 クロードが叫んだ。

 そう。どう見てもキア本人であった。

 二人は驚きのあまり口をなかなか塞げなかった。

「ど、どういうこと、これ? 幻?」

 ユンが目をぱちくりさせながら必死にシンの脇に立つ彼女を見つめた。どんなに瞬きした所で、そこにある姿は変わらない。クロードに至っては瞬きすら忘れていた。

 目を乾燥させている二人の前で、高慢な態度の男は人差し指を左右に振る。

「いいや。あんたらが勝手に早とちりしただけ。おまえら全員そそっかしいんだから。俺が一言〝死んだ〟って言っただけで引っかかりやがって。チョロイぜ、みんな」

「でも、死んでないにしても瀕死だったはず……」

「あーあ。あんたもそれ言うの? クロード。よく考えろよ。俺は誰だ?」

「は?」

 シンのこの言葉に対する反応は大抵誰でも同じものだ。クロードの場合はそこに病院に行って来いというニュアンスも含んでいる。が、年中湧いた自信家にはどんな反応も他人事。

 やれやれと言葉で言わずに動作で見せつけて、シンは手を腰に当てた。

「最高の咒法師目の前にアホヅラかますのはやめて貰いたいね。治療くらいお手の物さ。しかも、瀕死じゃない。多少ダメージはあったけど、気絶してただけだ」

 クロードを前に、シンは殊更に偉そうに振る舞う。

 そのシンの後ろでフェイは訝しげな顔をすると、

「さっき俺達には『最強の咒法師』って言ってなかったっけ?」

 方々で適当に言っているのがよく解る。

 シンの耳がぴくりと動いた、かどうかは定かではないが、フェイの指摘に対してシンは一つ咳払いをした。

「訂正しよう。最強最高の咒法師だ!」

「どのみち自惚れているんだろう、貴様」

「事実がそこにあるだけさ。俺は咒法師で、対価付きだけど実力はある。あんたも、ユンも同じ事だろ」

 違いない。

 このことに関しては素直に首肯するしかなかった。



 キアは視線の先を置く場所を探していた。

 どうやって正面を向けばいいか解らない。

 シンから聞かされた耳を疑うような言葉に、身体も精神も馴染まない。

 危ないからと置いてこようとしたのに何があっても待っていてくれなかった黒猫を胸に抱き締め、現実を直視しようと努力する。

 しかし、何を視ればいいのだろう。

 自覚もないことを、他人から与えられた情報一つで飲み込む方法が見つからない。

 喉を通らない。

 気が付けば腕の中の黒猫を絞め殺しそうなほど力を込めて抱いていた。慌てて緩めて床に置くと、足にすり寄ってくる。怨まれていなくて良かったと息をついたとき、不意に手を握られた。

 その手はフェイの物。彼は正面を向いたまま、

「心配しないで。どんな血が混じってたって、俺は、キアを望んでるから。ここに居るみんな、君を望まないことはないから。だから、信じて」

 キアはいつか自分がフェイに投げた言葉を思い出した。

 自分は望まれない存在だ、と。確かそう言った。悲観的な言葉を吐いて、失くすくらいなら突き放せばいいとさえ思っていた。それを知ってか知らずか、フェイの手にこもる力は存外強い。放すまいとするような、意地のような物さえ感じる。

 どちらの所為というわけでもなくうやむやになっていたあの時の会話が、漸く結論を迎えて終わった。

 おまけのように、おまけ以上の真実が付いてきたが、それさえも受け止めてくれる人が居る。

 充分だった。

「……ありがとう」

 思わず泣きそうになった。縋る服の裾を探さなくても今は確かに掴めるものがある。頼るだけではなく、同位置に立てるようになれるだろうか。

 否。立てるようになろう。合わせて貰ってばかりではいけないんだ。

 キアはフェイの手を強く握り返した。

 強く強く。

 汗ばみ始めたそこから、溶け合ってしまいそうなほど強く。



 いい光景だ。

 シンは目を細める。

 甘くも酸味があって、実ろうと腐り落ちようとも、傍観者としては旨い物に変わりはない。

 結果的に勘違いではあったが、周りの目も気にせず取り乱して泣けるほどにフェイは本気だ。自覚の有無はともかく。

 その初心な恋心に、少女は何処まで応えるのだろう。

「フェイ。おまえはキアをちゃんと護るんだぞ。任せるからな」

「おう!」

 肩を叩いてけしかければ威勢の良い返事。

 覚悟の程は後ほど見せて貰うとしよう。

「イヴェールは――」

「私は大丈夫。前線には立てないけど、護るくらいなら出来るから」

「頼もしいね」

 これでひとまず懸念はなくなった。

 見渡せば、クロードとユンがいい目をしている。八年間腐っていた反動は大きいだろう。所詮そんな生き物。自分も含め、興奮を得る内容は似通っている。

「ふむ」

 先が二手に分かれた通路の更に向こうには、久方ぶりの享楽が鎮座していることだろう。

 頃合いだ。

 動きだそう。

「さあて。ちょっと一暴れするとしますか」

 フェイが評するに、綺麗が横柄の皮を被って派手な服着て宣伝看板背負って歩いてるに等しいシンは、この世で最も危険な微笑みをして、一歩を踏み出した。

 皆がそれに続く。

 二歩目からは揃って駆け出していた。


   *


 ネノーアが寝そべっているソファーの脇に、百九十以上の身長にスーツを着た男が立っている。若く非常に整った顔立ちだが、その顔に表情はない。髪は白髪。瞳は水色をしている。

「一番性能が良かったミトギとヒリダが壊されちゃったわぁ。エニロム。お願いねぇ」

「かしこまりました、お嬢様」

 エニロムと呼ばれたその男は、恭しく腰を折る。

「あなたの予備はないんだから、くれぐれも自分を大事に戦ってねぇ?」

「かしこまりました、お嬢様」

 同じセリフの後、エニロムは同じ動作を繰り返した。

 それを見て満足すると、ネノーアは目の前の低いテーブルの上に置いてあるフルーツを催促した。小さな皿に何種類か盛り合わせになっていて、勿論どれもこれもネノーアの好物だ。

 エニロムにフォークを渡して貰い、皿を丁度いい高さまで持ってきて貰うと、ネノーアは端から口に放り込んだ。

「絶対に倒してやるわよぉ、シン。貴方の蒼を奪って、ネノーアはもっと強くなるの!」

 腹の奥から笑いがせり上がってくる。

 何故あの少女を殺そうと思っていたのか、何故あの殉徒を構おうと思ったのか。かつてのことは全て忘れて、目的はシン一つになっていた。思い出せないことも気にならない。この異様に可笑しい精神状態もどうでもいい。

 楽しければ。

 壊せれば。

 何でもいい。

「ふふふふ。ははっ。んふふふふふ!」

 可笑しい。

 何が。

 愚かな男どもが? 自分が? 世界が?

 全部全部可笑しい。

 そこに突然、すっと冷静さが降りてきた。奇声にほど近かった笑い声はぴたりと止まり、笑みは全て消え去った。

「……殺してやるわ。この手で、息の根を止めてやるわ……!」

 現れたのは殺意。

 どうしようもない凶暴な感情。

 手にしていたフォークをへし折っていたことにも気付かず、ネノーアは奥歯を噛んでいた。


   *


 建物内はまるで巨大な迷路だった。道案内も標識もない。変化に乏しい空間が連なっているので、だんだん方向感覚が麻痺してくる。

 この状況にめげないで一人元気なのはシンだ。先頭を行き、迷うことなく右へ左へと選び取って進んでいく。後ろにクロード、女子ども、最後にユンと続いている。

 敵は一人も現れないが、先にこの平坦な空間の方に参ってしまいそうだ。黒髪以外全員がげんなりし始めているのを、後方を行くユンには良く見て取れた。

 一面の白。

 ユンは白を好むが、全方向の白は精神を蝕む。良くこんな建物の中に居られるものだ。感心を通り越し、怖気さえする。ここの主は果たしてまともなのか、と。

「こっちだ」

 何度目かのシンのその発言で、クロードは遂に怪訝モードに入った。

「さっきから何故判る貴様」

「化粧臭い」

 あっけらかんとしたシンの答えに、ぎゅっと音がしそうな勢いでクロードが拳を握った。

「貴様。ふざけてるのか?」

「ふざけるもんかよ。ネノーアは気配より先に臭いがするんだよ。その位厚化粧しないと、あのババアの年は隠せねぇんだろ」

「犬並みか、貴様。それに、見た目そんなに年には見えないが、一体いくつだ」

「三桁行ってる」

「シン。嘘もその位にしないと限界を超えるぞ」

「や。だから嘘じゃないって。後でネノーアに会ったら、『にひゃくごじゅうご!』って言ってみ? 化粧がごっそり落ちるくらいキレるぜ?」

 シンは笑いながらだが割と真面目に言っている。年を食っていると言ってもせいぜい四十が限界と思っていたのが、トチ狂ったような数字が出てきたものだ。疑いたくなるのも無理もない。

「まあ、俺たちもあんたらと一緒で寿命が長いみたいだからな。非常識じゃないとは思うけどね」

「みたい、とは曖昧だな。自分のことだろう」

「ぶっちゃけ、俺もよく解ってねぇのさ。そもそも自分のことさえ七年分しか知らねぇのに、流れてる血のことまで頭回らねぇよ」

「……貴様でもそんなものなんだな」

「え。なになに。俺のこと買ってくれてたわけ? 嬉しいじゃん。もっと言えよ。褒めろよ讃えろよ」

「罵詈雑言ならいくらでも湧いてくるから取り敢えずそれでも喰っておけ」

「俺の舌肥えてるから、極上じゃないと喰えねぇぞ」

「じゃあ、前菜に一つ」

 と、何を言うのかと思えば、口は噤んで変わりに左手を突き出した。

「それは喰えねぇな! つーか、喰う口が無くなるな! 困るな!」

「貴様の不都合など知るか」

 そうは言ったがクロードは手を下ろす。

 彼が茶番に付き合うとは珍しい。彼もまた久しぶりに動いてテンションが上がっているのか、かつての状態に少し戻ったようだ。少しだけ知っている昔の彼。生真面目そうで若干黒い遊び心を持っている。

 大嫌いだと公言している咒法師相手に随分と砕けたものだ。

 無理に仲良くしろとは言えないが、この悪くない状態が続けばいいとユンは思う。

「うーん。ねえ、クロード」

「何だ」

 声を掛けると呼んだ人物を含め全員が立ち止まった。

「これ、使うまで仕舞っておいてくれない? 暫く敵さん来そうにないし。何か邪魔」

「邪魔とか言うな」

 邪魔者扱いしたのはずっと肩に担いでいた大剣だ。

 床に突き立てると、渋々クロードは右手の中に仕舞う。床に傷だけ残して、跡形もなくなった。

「クロード。今の手品の他に、残った力で何が出来る?」

 腕を組んだシン。品定め、というほどの悪意はない。

「術はそこそこ使える。飛翔や移動は無理だが」

「それだけで充分。逆だったら使い物にならねぇからな。ユンはまあ、見たまんまか」

「飛べれば文句ないんだけどね」

「得物がなければ図体がデカイだけの莫迦だ」

「……クロード。俺の代わりに答えるなら、もっとまともなこと言えよ」

「充分まともなつもりだが? 不満か?」

「……」

 不満というか、不平というか。事実との乖離を感じるが、自分は賢いと胸を張る自信もないので口を噤んだ。

 面白くなくなりふて腐れてあひる口になったまま、行進を再開した集団に付いていく。

 小さく笑いを漏らしたままのシンの行く手に、初めて障害物が現れた。

 引き戸式の扉だが、認証端末が横に付いているだけで、手を掛ける場所が一切無い。

 試行錯誤するよりも先に破壊を。

 シンが迷うことなく右手を翳した。ユンもすぐに得物を手に出来るのなら似たようなことをした。だが、クロードは違う。

 預かったばかりのユンの剣を取り出すと、持ち主へと突き出した。

「貴様が斬れ」

「俺が?」

 受け取りながら疑問を返した。

「シンにやらせればいいじゃん。どうせ準備万端なんだし。刃こぼれしちゃったらどうする気だよ」

「ろくな手入れもしないで散々使ってきたのに刃こぼれは愚か切れ味一つ落ちてないんだ。今更躊躇う理由が何処かにあるか?」

「別に俺の方は構いやしないんだけど。後は撃つだけだし」

 と、シン。

「手を下げろ。その手に傷が増えて良いことはないんじゃないのか?」

 指摘され、シンは少しだけ目を見開いた。己の手の甲に傷を見、クロードを見。

「ああ……これね。知ってたんだ」

「見くびって貰っちゃ困る。この後は温存して凌げるとは思えんからな。抑えられるところでは抑えておけ」

「クロード、優しいね」

「……悔しいが、主戦力の貴様に倒れられては困るだけだ」

「そういうことにしといてやるよ」

 微妙な空気。しかし、いつものような一触即発の要素は持っていない。

 何だか不思議だ。

 そう思いつつ、ユンは剣を担いで扉の前に立った。

「五メートルくらい離れてて。何か飛んでくかも知れないから」

 後方に五人を下がらせ、一呼吸。

 本当は肉を割き、骨を断ち、血肉を喰らわせるための剣。そうすることによって、目には見えないものを断ち、示す剣。

 銘は〝アンサラー〟。

 扉一枚くらい難なく斬れるが、はきっと不満だろう。

 ――こんなモノを斬らせるな。正しく使え。

 ――解ってるさ。

 ――答えろ。応えろ。切り裂くことで。酬いろ。示せ。その手はまだ振るうことが出来るだろう。ならば振るえ。敵を殺すために。

 ――はいはい。少し黙ってろ。クロードに仕舞われて機嫌悪いのかよ。それとも、焔妃と仲悪いのか?

 聞こえてくるような気がする言葉に、心の中で応答する。問いかけをすると、それきり何も聞こえてこなくなった。本当にクロードの刀〝焔妃〟と不仲ならば、可哀想なことだ。だが仕方がない。仕舞ってやれないのだ。せめて、不平不満くらいは聞いてやろう。それが主としての務めだ。

 特に気負うこともなく、左下から右上へと切り上げる。滑り落ちる先のない扉を、靴の裏で蹴り付けた。

 すると、切れ目すら見えていなかった扉が、音を立てて向こう側に崩れ落ちた。

「はい、いっちょ上がり」

 どうぞ、と道を譲れば、クロードを先頭にぞろぞろと部屋の中に足を踏み入れる。

 最後にすれ違ったシンに、

「少し語らえた?」

 主語もなく唐突に言葉を投げられた。

 声なき声を全て聞いていたかのようなしたり顔。向けられてあまり気分のいいものではない。

 しかし、もし聞こえていたとしたら?

 可能性を考えて、ぞっとし、かぶりを振る。

 出来るはずがない。


   *


 中は極端に広い空間だ。部屋、という感じではない。何処かの空き倉庫かと思うくらいに何もない。廊下と同じく一様に白く、四方にいくつかのドアがある。

 今は中には六人以外誰も居ない。

 彼らは巨大な空間の真ん中まで足を進めた。見上げる天井はかなり高い。黒く影になり、まるで外で空を見上げているのと同じ様な感じだ。

 広いのに、息苦しい。

 フェイは胸を押さえた。呼吸を塞ぐ圧力を感じる。

 覚えのある感覚だ。屋内ではなく、屋外で感じたことがある。

 ――なんで、同じなんだ……?

 首を傾げたとき、前方のドアが開いた。そこから中に入ってきたのは、長身白髪の青年。手には身の丈にやや足りないくらいの大きさの剣がある。

「あれが、エニロムかな?」

 新しいオモチャを見つけたような目でシンは現れた機械人形を見た。

 すると、後方の口だけになった場所も含め、四方のドアからミトギとヒリダが、二人一組でぞろぞろ入ってきた。家まで襲いに来た数の比ではない。髪の長さが二種類。顔は全て同じ。それが大挙して部屋に雪崩れ込んできたのだ。

「うへぇ。同じ顔ばっかり……気持ち悪ィ」

 ゲッソリした表情でユンは舌を出す。シンを抜かす他の者も一様に眉を顰めていた。

 シンは息をついて沢山のミトギとヒリダと、一人のエニロムを見比べた。

「ユン。得物から見てあの大男はあんたの敵だな」

「じゃあ、このうじゃうじゃ居るのはあんたとクロードに任せるぜ?」

「望む所だ」

 シンとクロード、ユンの位置が他の三人を中心にすぐに入れ替えられる。それぞれ自分の相手を見据え、それぞれの表情で攻撃態勢に入った。

 戦いに生きる者達の目。

 鋭く、挑戦的で、そして好戦的。

 ――スゲェ……。

 圧倒される。

 すぐそこで展開される覇気に、圧倒されるばかりだ。味方であるのを解っていても後ずさりしたくなる。

 そこに、肩を並べることを望むことは、無謀だろうか。

「フェイ。後ろは任せたからな!」

「お、おう! 了解!」

 フェイの返事を合図に、三人は飛び出した。

 任された。任された。任せて貰えた。

 腰から銃を抜く。勝つための戦いに、撃鉄を降ろした。


   *


「ヒリダ」

「ミトギ」

「行きますわよ」

「殺して差し上げますわ」

「ヒリダ」

「ミトギ」

「来ますわ」

「援護を」

「ヒリダ」

「ミトギ」

「ヒリダ」

「ミトギ」

 同じ声のやりとりが方々で飛び交っている。それでも互いに意思疎通は出来ているようで、彼女たちに混乱はない。混乱したのはよほどシンとクロードの方だ。慣らしとして初めは適当に相手をしていたものを、強硬手段に切り替えた。声も表情も同じ機械人形を相手に、しかも冗談のような数があるのに、一々動向を窺うなど不可能であるし、ナンセンスだ。

「数だけ集めてもねぇ」

 シンは右手を。クロードは左手を。

 それぞれ伸ばし、己の持つ色を遠慮無しに撃ち込んだ。

 一つ爆発が始まると連鎖的に広がっていく。密度の高さも手伝って、あっという間に一帯が高熱と爆風に曝された。

「クロードもやるじゃん」

「褒めても何も出ないぞ。それより、この部屋でこの規模の攻撃は問題だと思うがな」

「ん?」

「ほら。誘爆して――」

「ぶわっ!」

 背後から突然襲ってきた熱風に、全身を持って行かれた。吐いてしまった息をそのまま止める。下手に息を吸えば肺を焼かれてしまう。

 クロードは巧くシンを盾にして避けていた。

「クロードズルイ! それに危ないだろぉ!」

「下手に褒めるからだ」

「なに。俺の所為?」

「次が来るぞ」

 逃げた。

 口を尖らせても敵は来る。

 クロードは早くも次へと向かって行ってしまった。

 かなりの数を灰にしたのに、リセットされたかのように数が増えている。四方のドアから大量に追加投入されたらしい。在庫にも限界はあるだろうが、今のところ底が見えない。こういう目標地点がはっきりしない事は嫌いだ。そして、右手のこともある。本命が控えているだけに、あまり使いたくない。

「面倒だけど――」

 狙いを定められているのは視界の端で捕らえていた。

 ――物言う数を黙らせてやろうじゃねぇか。

 爪先で軽く床を蹴り、舞う。それを合図に、敵方の同士討ちの幕が開けた。



 一方ユンは、似たような得物を使う相手に拮抗していた。剣を合わせては分かれを繰り返すだけで、互いにダメージを与えられていない。こんなにやりづらい相手は初めてだった。何があっても表情に出ないし、変化が読みとれないので動きづらい。思い返せば、過去に機械を相手にしたことがない。

 やりやすい点と言えば、サシの勝負を誰も邪魔しに来ないことだ。

 何度目か別れ、距離を取る。

 スーツに大剣という一見不似合いな恰好のエニロムは、ユンを見、首を傾げた。思い通りに事が運ばないのが解せないのか。単なる動作の一つなのか。

 エニロムとユン。鳶色と水色。目が合い、一呼吸の間。そして二人同時に地面を蹴った。

 剣がぶつかる。ギリギリと音を立てて合わさり、顔と顔とが近づく。

 十センチ近い上背の差はハンデにはならない。しかし、上から押さえ付けられるのは気に入らなかった。

「随分と強いじゃん。やりがいあるけど、なんかそのツラ、面白くない」

「……」

 無言だけが返ってきた。

「何だよ。おしゃべりは嫌いか」

「……」

 やはり無言。

 直後、エニロムは右手を柄から放すと、押さえ付けるための力は手首に任せ、空いた手の平をユンに向けた。競り合いは続いたまま。何かと眉を顰めるより早く、人の物と見紛う出来の手の平にぽっと水色の光が現れた。

 これが、返答。

 ――コイツ、術も使うのか!

 顔の目の前で放たれてはひとたまりもない。

 翼があれば。

 独り言が頭の中を過ぎっていく間に、ユンは可能な限り後方に飛び退いた。同時に片膝を折って身を屈める。片手と片足を使い、地表すれすれでバランスを取った。

 頭上を水色の波動が高速で通過していった。髪を数本持って行かれたが、それで済んだ。無様な禿頭になっては目も当てられない。

 安堵も束の間。ふと前を見るとエニロムが居ない。

 息を呑むが、すぐに把握出来なかった。

 戦い始めてからずっと、余裕がない。無敗の過去の戦闘は全て本能任せで身体以外に使ったものは何も無い。その本能が、感覚が、鈍感になっている。八年のぬるま湯は腐るには充分すぎたらしい。

 戦えなくなったら、翼のない殉徒など人間と何が違うだろう。

 ――負け方って知らないしなぁ。

 自嘲気味に笑んだとき、頬に淡い風を感じ、慌ててその場を飛び退いた。

「――っ!」

 背中に走った強い熱に、思わず顔が歪む。体制は崩れ、足で着地するはずが、肩から床に転がり壁に身体を打ち付けて漸く止まった。

 身体が熱い。動いて身体が温まったことは問題外だ。半身を起こすだけでも背が焼けるようだった。ユンは剣を床に突き刺すと、羽織っていた白のコートを脱いだ。コートの背を見ると右肩から斜めに赤い線が引かれ、布は裂かれている。

「格好悪ィ」

 舌打ちをして、手にしたコートを脇に捨てた。気に入っていた白のコートだったのに勿体ない。傷を負ったことよりもそのことの方が悔しかった。

 ――あー。これだから駄目なのかな。

 負けてもいいとは思っていない。負けるとも思っていない。それなのに、悠々と近づいてくる敵を前に、どことなく気が抜けている。

 ――腑抜けになったかな。

 自己分析しながら立ち上がっていると、向かいから黒い塊が放物線を描きながらやってきた。

 丁度身体を立てたとき、

「ぐげっ!」

 潰されたような声がして、黒い、丁度人間一人分くらいの大きさの塊がユンの真横に落ちた。

「ってー。有象無象の癖にー。背骨痛ぇ」

 あぐらを掻いたシンが背伸びをしている。服は所々傷んでいるが、本体は至って無事のようだ。

 この広い空間を埋め尽くさんばかりの数を相手に、シンとクロードはたった二人で善戦している。比べてこちらは一対一で拮抗したままだ。

 シンには余裕がある。吹き飛ばされはしても手負いにはなっていない。それだけでも雲泥の差だ。空間と気を配らなければならない人物の存在の制限が無くなれば、同時にシンからは遠慮も無くなることだろう。そうなったとき、誰が彼の敵として前に立てるのか。

 ユン自身は、というと、

 ――興味あるけど、面倒臭そう……。



 床には血糊が付いた白のコート。

 横には血の臭いをさせたユン。

「斬られた?」

「ああ。でも、深くない。あいつ術まで使うんだぜ? 反則だよなぁ」

 あぐらを掻いたまま見上げれば、ぼやきのような返答が来た。

 斬られたのは背中。シャツはコート以上に赤く染まっている。まだ血は止まりきっていないようだ。

「どれ」

 シンは立ち上がり、大きく口を開けたユンの服を摘んだ。

 言葉通り、傷自体は深くない。しかし、範囲は広い。今ある傷以外にも、古い傷痕が二つ、背骨近くに平行するように走っている。

 丁度、翼がある場所だ。

「ちょっと触るぞ」

「何。リアル傷まで抉るの?」

「俺、そんなにドSじゃないって」

「どうだか」

 不審の言葉を他所に、ユンの背に手を当てた。

「殉徒」

 傷を塞ぎながらシンは言う。

 僅かな震えが一度だけ、手に響いてきた。

「神に殉じる使徒。忠誠は左胸。背には一対の紅い翼。得物は生まれながらの物が一つ」

「わざわざ言わなくたって知ってるよ。ホントに物識りだな」

「まあね。それにしても、クロードといい、あんたといい、イヴェールも、よく地獄に捕まらないで済んだな。最低三人も取り零してるんだ。やつら、仕事しな過ぎ」

「おかげで助かったけどな」

「こんなザマ曝しても?」

「俺は別に良いんだ。気にしてるのはクロードだけ。ま、仇は同じっぽいし、そいつが見つかったらシメるだけだし」

「同じって事は、俺かも知れないって事か」

「今更自信ないようなこと言うなよ。俺は、これでもあんたのこと買ってるんだ」

「売ってもないのに買われちゃったぜ。そういう前向きなの、あいつにも分けてやぶっ!」

 殆ど正面から飛んできた赤い塊に、シンは為す術もなく直撃され、壁に叩き付けられた。折角伸ばした背中がまた痛む。しかも、今度は男一人分の重みが加算されている。衝撃は倍どころではない。

「退け、莫迦者」

 そしてこの暴言。

「あんたが上に乗ってるんだろうが。退くのは俺じゃないだろ」

「黙れ。サボってた分際で偉そうに物を言うな」

「いいから退けよ、クロード」

 柔らかさは皆無とはいえクッションを得たクロードは打撲をした様子すらない。立ち上がると、あからさまにコートを叩いて埃を散らしている。

 ――あー……。

 見上げていると、二組の瞳が見下ろしてきた。

「楽しいわけだ」

 一つとして同じではない力。

 三つ巴。

 怨嗟の地獄が取り逃した者達が集い、ここに居る。

 半端者になりながらも、こうして、生きている。

「半身を失った使神に、両翼をもがれた殉徒。そんで、俺。どんな楽しいことが待ってると思う?」

 問いに対する返答はなく、クロードは何かを察してユンを見る。恐らく彼の背を見て、眉を顰めた。

「喋ったのか」

「俺は隠し事しない主義だから」

「貴様の場合はただのおしゃべりだろう。偉そうに言うな」

 そのやりとりを、まあまあとシンが宥める。

「この分だと、誰一人として主は味方じゃないな」

「主の味方でもないがな。それに、神の名を戴きながら貴様がそれを言うのも面白い」

 クロードの表情が緩んだ。

「面白い」

 もう一度繰り返し、クロードは刀を喚んだ。

 ユンも床に刺した剣を抜き、肩に担ぐ。

 合わせてシンも立ち上がった。痛めた背骨を、もう一度伸ばす。右手を握っては開き、感覚を確かめ、まだ異常がないことを確認。

 対岸ではフェイとイヴェールがキアを庇いながら善戦している。とはいえ、基本的に戦うには不向きか、訓練不足の者達だ。任せるのは酷である。

「さて。か弱い方達をあそこに置き去りにするのはよろしくないな。一気に片付けるか。鬱陶しいし」

「賛成だ」

「意義なーし」

「じゃあ、クロードは、先に向こうに回ってて。ユンと俺はあのデカイヤツ。剣で互角なら、俺が加われば絶対俺達の方が強い」

「貴様が仕切るのは気に入らないが、理論としてはまあまあだ。作戦にはほど遠いが」

「ぶつぶつ言わない。一々文句付ける昔からのその癖、やめた方がいいぜ?」

「……やかましい」

「はいはい。喧嘩は後で思う存分やれよ。今はこっちが先決。いい?」

 ユンとクロードは頷いて返事にする。それに対するシンの頷きを合図に変え、三人は同時に動き出した。

 クロードは部屋の端を通って女子どもと大量のミトギとヒリダの間に滑り込んだ。敵が無尽蔵でなければ、いずれ全てがゴミになる。クロード一人でもその作業は恐らく可能だ。

「じゃ。後は成り行きで」

 シンはそう言って、ユンの背に手を触れた。既に傷は跡も残さず塞がっている。あるのは彼が負わねばならない古傷だけ。

 こちらも感触を確かめるように肩を回している。

「すげぇな。全然痛くない。俺たちこういう術とは相性悪いんだけど、こりゃいいや」

「戮訃と殉徒は自然治癒が早い代わりに術は受け付けないからな。加減してやったんだよ。ほら、もっと褒めて良いんだぜ? つーか褒めろ」

「さーて、リベンジといきますか」

「つれないなぁ」

 口を曲げるシンの前で、ユンは剣を片手にエニロムに向けて突進。

 また飽きない手法で来たかと言わんばかりの表情で、エニロムも剣を構え始める。向かっては来ない。その場で受け止める素振りを見せた。しかしそれは見せかけで、剣を構える流れの間で右手に力を集め、目の前まで迫ったユンに向けて手の平を向けた。

 それを見ても尚、ユンは止まらない。

「引っ掛かったな、阿呆」

 本来ならば引っ掛かった方であるユンはそう呟き、切っ先を向けて構えていた剣を真正面に置いた。盾には細いが、真芯で受ければそうでもない。

 それでも正面から受けてただで済むわけはなく。元来た道を術に押される形で飛ばされた。

「……」

 愚行とも取れるユンの行動を評する行動は一切取らず、エニロムは平静のまま佇んでいる。取った動作は剣を持った左手を僅かに動かす動作と、右手を差し出すその二つだけ。最小の動きで殉徒を一人排除した。

 だが、それで終わることはない。

「裏かくの大好きっ」

 表情に出さず驚くエニロムの真後ろで、シンは傷にまみれた右手を突き出した。ユンの血で少しだけ赤く待った右手。そこに己の血を滲ませ、瞬時に濃い蒼の光をまさに眼前で撃った。

 機械の頭は一瞬で消え去り、遅れて身体が衝撃を受けて飛ばされた。凶器を持ったまま宙に舞った金属の塊に、シンはもう一撃を加えた。

 残骸など何も残らない。ユンの剣と対等に渡り合った得物だけが墓標の如く床に刺さった。

 全ては塵に。

 あまりにも呆気ない幕切れに一瞥してクロードの所へ加勢しに向かうと、ユンは既にそこにいた。

「ユンを囮にするとは貴様の考えそうなことだな」

 少々軽蔑した視線でクロードが睥睨。

「でも上手く行ったぜ? 所詮屑鉄さ」

「貴様のことだ。上手く行くと思ってなければやらないだろう」

「おうおう。方々で買われてるみたいね、俺」

「誰が買うか」

 決して肯定しないクロードと共に、約百二十度の範囲を眺める。

 流石にエニロムの喚びはないようだが、相変わらず同じ顔の女が一面に並んでいる。完全に食傷している。変化もない。面白味もない。楽しめたのは初めの数分だけだった。

 もういい。

 飽きてしまったシンの決断は早かった。

「俺もなんか武器欲しいなぁ」

「この上更に得物なんて持ったら周りが危険に曝される。どうしてもというなら、そこら辺の鉄パイプでも拾っていればいいだろう」

「鉄パイプって……そんな奴居た気がするなぁ」

「ユンの知り合いと被るのヤダ。その右手になんか入ってねぇの?」

「メイスでも喰らっとくか?」

「俺がスプラッタになるからヤダ」

「いい年して『ヤダ』とか言うな。ほら。構って欲しい連中が来るぞ」

「もー。飽きちゃったんだよ。つまんねぇんだもん」

「それは同感だ」

 同じ質の笑みを合わせてクロードは左手、シンは右手を大量の彼女たちに向けた。自分の出番はないと踏んで、ユンは剣を肩に担いで一歩下がる。

「消えちまえ」

 紅と蒼の光が螺旋を描いて、その先に居た機械人形のいくつかに当たった。

 攻撃はまだ尽きない。

 放たれ続ける術は密集する彼女たちに爆発の連鎖を呼んでいる。経験以前に知っているべきだが、こうして攻撃をすると誘爆することは身を以て知ったばかりだ。人形達は彼らに近づく間もなく爆風に飲まれて壊れていく。

「これで終わりだ!」

 シンが叫び、二周り大きな直径を持った波動を彼女たちに注いだ。クロードも同じく術を拡大する。

 彼女たちの間を割って壁まで到達した術はそこで留まらず、壁もその向こうの建物も破壊し始めた。

 クロードの力も捨てた物ではない。当人は半分程度の力を失ったようなことを言っていたが、この場では充分すぎる。かつて緋の王と呼ばれだけのことはある、と横目で見ながらシンは微笑した。笑みを向けられているとは知らず、クロードは前を見据えている。

 頃合いを見て腕を下ろすと、あたりは立ち籠める煙で真っ白になっていた。背後から咳き込むのが聞こえる。シンも袖で口と鼻を覆った。

 塵が床に落ち、視界が晴れてくると、行為の結果がそこにあった。

 目の前の壁は勿論、これから進むはずだっただろう空間の一部が瓦礫の山と化している。一画は激しく損壊し、斜め上には黒い空が見える。

「もう少し加減すべきだったか」

 と、クロード。

「あちゃー」

 と、反省の色などまるでないシン。

 清々しい程に開けた景色の次に自分の右手を見たが、思ってよりも傷は小さくて済んだ。調子が悪いときには右腕を割かんばかりの傷になるのに、気分が乗っているとこんなもの。気まぐれも程々にして欲しいとシン自身も思うが、どうにかなりそうな問題ではない。

 立ち込めていた埃や煙もほぼ収まり、うずたかく盛られた瓦礫と機械の残骸がはっきりと見えるようになった。バラバラの人間の部品に似たものも混じっている様は決して気持ちのいい物ではないが、それも瓦礫の一部と思えば少しは気が楽になる。

「シーンー。任されたのは確かだけどさぁ……割とサボってなかったぁ? 滅茶苦茶大変だったんだけど」

「あー、よく頑張った。偉い偉い」

 恨みがましい目で見てくるフェイを適当に誤魔化しつつ、全員の安否を再確認。

 女性二人も埃を被っただけで無傷のようだ。

「もうガラクタは出てこないだろ。サクサク行こうか」

「愉しんでるな、この状況」

「愉しまなくちゃ損だろ。どうせこの前あの女の所為で暴れすぎたから、ツィアには長居できそうにないしさ。最後にもう一暴れ、ってヤツ」

「気儘だな。貴様にしかできない気儘さだ」

「羨ましい?」

「誰が」

「無責任な発言だけどさ、取り戻せると思うぜ。きっと」

「何を根拠に」

「だって、堕とされて地獄から逃れられたんだ。あとは何だって出来るさ」



 地獄に堕ちずに済んだことが最大の幸運だと思っている所に、咒法師は少し違う次元の話をしている。

 これ以上救われることはない。永遠の苦しみから逃れられたこと自体が、異常のような奇跡であるのに。望みは止まらないが、望んではいけないとも思う。

 宣言通り無責任な発言を残して進み始めたシンの後にクロード達は続いた。

 道のりに、障害は何一つ無い。シンが一つの扉の前で足を止めるまで、特段何も起きなかった。

 ドアの前で、シンは眉を顰めている。

 この向こうに目指す敵がいることは想像に易い。

「こっからは、俺一人で戦いたいんだけど」

「構わないが?」

 珍しく真剣な顔をして言ったその理由が少し気になる。

 扉の向こうを見据え思うのは、女の実像か。それとも過去の虚像か。

「あんたも色々思うことあるだろうけどさ、発端は俺の私怨だから」

「私怨、か。引きずって生きるようには見えないがな。特に、過去は。貴様でも憎むのか」

「俺は憎まない。憎むに値しない」

 シンの表情は険しい。直前の発言を疑うほど憎悪を感じさせる。

「ただ、何かできたのにしなかったのは事実だし。むかついてるんだとしたら、俺自身に、かな。それも、あの女が思い出させて来なきゃ俺は平穏だったわけだけど」

 平穏など求めているようにはとても見えない男が、過去を忘れているだけで平穏だと言う。

 この場合、平穏とは何を指すのだろう。

 何処までも反りが合わない。

「勝つことを条件に好きにやれ」

「どうなれば勝ちかにも依るけど」

 相打ちを望んでいるとでも思っているのだろうか。

 確かに咒法師は嫌いだ。個性を問わず憎んでさえ居る。

 自力でドアを吹き飛ばし、中に足を踏み入れた背を見ながら思う。

 ――それほどまでに、この男を憎む必要など、あるのだろうか……。

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