第15話

 直視すれば眩暈

 背ければ闇

 それが真実



 ――今日は静かだ。

 クロードは自室の窓のカーテンを指先で少し開け、外を眺めた。紅い瞳だけを覗かせ、辺りを探るが平和そのものだ。

 先日は派手な気配が遠くの方で騒いでいた。何とやり合っていたのかは不明。そして、すぐに収まってしまった。シンがネノーアを勝手に片付けてしまっていればそれに越したことはないが、気配の強さからそれはないと知る。片方はシン。しかし、片方は何か別のものだ。ネノーアではない。見ていないので断言は出来ないものの、とても中途半端な形で戦闘は収束してしまったようだ。

 あの男らしくもない。

 眼前の障害は消し去らないと気が済まないはずの咒法師が、その障害を打ち損じた。逃げられたか、逃げ出したか。後者は考えにくいが策があってのことならやりかねない。

 なんであれ、何も終わっていないことは確かだ。

 指を下ろし、窓から離れて嘆息。

 さして巧みでもない言葉に釣られてツィアにやってきて二週間目。何一つ進展はない。ユンが美味いコーヒー豆を売る店を見つけてきたことはそのうちに入らない。

 一連の騒動の原因は、今や誰も使っていない蝙蝠を使役する者――ネノーアと関わりがあるからとシンは言っていた。それなのに、一度顔を合わせただけのその敵との関係は、未だに不明だ。向こうが一方的にこちらを知っているのは、淀みなくかつての呼び名を口にしたところから覗える。

 だが、それがどうした。

 呼び名ならば、知ることは不可能ではない。その呼び名を知っていたからなんだというのだ。相手はこちらを知っている。それ以上に何がある。

 不愉快さが募るだけだった。

「やはり……待っているだけでは駄目か……」

 解ってはいる。

 望むことを何もかもお膳立てして貰えるなどとは毛頭思っていない。黙っていても出てくるのは、昔も今も料理だけだ。

 凡人が持っているものは少ない。自分でどうにかしなくてはいけないことは山のようにある。

 それなのに、この約八年の間、動くことをやめていた。

 やめてはいけないと解っていたのに、闇と悪夢に呑まれて、恐れをなした。嘘と見栄に慣れ、全身は弛緩している。このまま気が付いたら息が止まっているかもしれない。そう思うほどに堕ちていた。

 髪とモノクル越しに右目に手を当てる。頭痛の種。悪夢の滞留地。

 手が伸びる。蒼が嗤う。

「っ……」

 痛みが走ったような気がして、強く眉間を寄せた。

 違う。これは幻だ。

 押さえていた右手を払い、ドアへと足を動かした。

 息が詰まる。外に出たかった。



 部屋を出てすぐそこの居間には、キアが一人座っていた。

 カップを置き、手に持ったものを神妙に見つめている。小さな小さな巾着だ。中身は解らない。

「あ、クロード。おはよう」

「……そんなに早くもないがな」

 一旦居間を通り抜け、台所へ。

 だが、目的のものはなかった。

 いつもならばドリップしたコーヒーがサーバーに入って飲まれるのを待っているのだが、今朝はそれがない。空っぽだ。

 タイマー式ではないので、誰かがドリップしなければサーバーは満たされない。

「あのやろう、まだ寝てるのか……」

 いつもなら家で一番に起きるユンが珍しく寝坊だ。因みに、一番最後に起きるのはクロードである。

 まあいい。もう暫く寝かせておこう。

 クロードは冷蔵庫を開けると瓶入りのオレンジジュースを取りだし、コップに注いだ。果汁は百%。コーヒーがすぐに飲めない状態の時に飲む物が無くならないようにユンに買わせてあるものだ。

 なみなみ注ぎ、居間へ戻る。

 キアはまだ例の布袋を両手で包むようにして見つめている。母親との思い出だろうか。それならばそっとしておいた方がいいかもしれないが。

「これね、種が入ってるの」

 向かいに座ると、尋ねる前にキアが答えを口にした。

「種? 何の種だ」

「私にも解らなくて。気が付いたときには、もう持ってたの」

 言いながら、彼女は袋の中身をテーブルに出して見せた。

 小指の関節一つ分程度の種が五、六粒、乾いた音をして転がり出た。

「樹の、種か……?」

「クロード、これ、知ってるの?」

「久しくこんなもの見てないし、朧気で断言は出来ないがな。何か、樹木の種だ」

「果物とかの?」

「違う。実を取って食べる樹のものじゃない」

「そんな樹があるの?」

 人間の世界しか知らないキアがそう言って首を傾げるのも無理はない。

 何故ならそれは、

「人間の世界にはないものだ」

「クロードの世界には、在るの?」

 普段は寡黙で疑問をなかなか口にしないキアが今日は疑問符を良く投げる。

「名前は忘れたが、緑の葉の、大きな樹になる」

「そう……なんだ……」

 キアは目線を落として呟いた。先程までは輝かせていた青緑の瞳を今は寂しそうに潤ませて、自らの正体の断片を見つめている。

 知ることの渇望と恐怖。

 種を袋に戻しながら、彼女はない交ぜの感情と戦っているようだった。

「知りたいのか。……自分のこと」

「……うん」

 その先に何か言葉が続きそうだったのを、キアは懸命に飲み込んでいる。言いたいことは大体解ったので、特に問うことはしなかった。

 それはそうと、コックがまだ起きてこない。ブランチを食べたくとも、作り手が居なければいつまで経っても出てこない。待つにも限界がある。それに今日は、表に出たいのだ。

 クロードは立ち上がると、一回にあるユンの部屋に向かった。ドアをノックする。返事はない。

「ユン。おい、ユン」

 今度は苛立ち混じりに名前を呼ぶが、やはり返事がない。ドアを開け、部屋を覗いてみると、ユンはベッドの上で大の字になって寝ていた。いびきこそ掻いていないが、完全に熟睡している。

「おい、貴様。昼間から間抜けな恰好で爆睡してるんじゃない」

「にゅあぁぁぁ?」

「起きろ愚図。メシを作れ。コーヒーを淹れろ」

「むにゅむにゅ」

「この……」

 苛ついていた。だからやった。手を握って拳にして、それを振り下ろすという単純な動作のそれを。そんなに勢いは付けない。上から下へ、重力に従順にグーを落とした。

 やや軽い音がして、同時にユンは飛び起きた。

「うおっ! いってぇ! 何だ何だ、何かの襲撃か!」

「貴様。そんなにはっきり目が覚めていながら寝惚けているとでも言うのか」

 降ってくるクロードの声に今更気付いたような顔をして、ユンは目をぱっちり開けて顔を上げた。

「お、おお、クロード。今なんか頭に隕石みたいなのが当たったぜ?」

「それはこの拳だ」

「ひえぇぇぇぇ! 待って! 振り下ろすな、待ってー!」

 振り上げられたクロードの拳に対して、ユンは必死に頭を庇って身構える。頭の悪いやりとりに、クロードは至って真面目な表情でユンを見据え、いつ拳を落とそうかと計る仕草を見せつけた。

 本当はもう一撃加えてやろうとかと思っていたが、自分の右手と相談した結果、腕を下ろすことにした。幸運にも第二の襲撃を逃れることが出来たユンは、淀みない動きでベッドから降り、長身を更に伸ばして背伸びをする。血圧の低いクロードには真似の出来ない機敏さだ。

「で。メシは何がいい?」

「食えるものなら何でもいい」

「たまにはリクエストがあると、作る方も楽なんだけどなぁ」

 ぼやきながらユンは先に部屋を出ていった。キアと挨拶を交わしている声がする。

 時折、あの脳天気が憎らしくなることがある。何をしても折れない心。どんな境遇にもめげずに馴染んでしまう順応性。こんな処に堕ちながら、少しも後ろを向くことがない。

 何故、そんな風にしていられる。

 毎度の疑問が今日も沸々と湧いてきた。妬むこと。それは、何もしない自分から目を逸らし手段の一つになっている。

 惨めで。卑屈で。前進からはほど遠い作業。

 後ろ手でドアを閉めても、ユンの部屋に置き去りにすることは出来なかった。


   *


 嫌な夢でも見たのだろうか。

 それとも、相当腹が減っていたのか。

 あまり寝ていたようにも見えないので、寝不足で苛ついているだけかも知れない。

 もしくは、いつものいじけ病か。

 台所に立ち朝食を作りながらユンは可能性を列挙していった。朝からクロードの機嫌が悪いことはそんなに珍しいことではないが、今日は手が出た。それは滅多にないことだ。理由がどれであれ、良い兆候は一つもない。一連の事件に対して出方が解らないまま放置してしまったのは拙かった。早いところシンに声を掛け、事態を収拾すべきだった。

 カリカリベーコンの隣に半熟のスクランブルエッグを添える。メインはトースト。別皿にサラダ。ドレッシングは各自で調節させるためにかけないでおく。

 可能性ばかりが並び、打開策が一つも浮かばないまま、ユンはテーブルに朝食を運んだ。

 テーブルでは黒猫を構うキアの前で、クロードは時折ブラックコーヒーを啜っては明後日の方向に目を遣っている。会話はない。

 ――何、この重い空気。

 仕方がないとは思っても、こういう空気は苦手だった。いつでも明るく前向きに、等と叶うはずもない絵空事を押し付ける気はない。それでも、苦手なものは苦手だ。

「はい、出来たよ」

「ありがとう」

「……」

 クロードに感謝の言葉というものを教えたい。生まれと育ちを考えれば仕方がないとも思うが、こちらも少しは声を掛けて貰いたいのだ。

 だが、今日は放っておこう。何に苛立っているのか解らない以上、下手に刺激するのは得策ではない。

「ユン」

 食べ始めて暫くして、クロードに呼ばれた。

「うん?」

「今日、何か用事はないのか」

「用事? 買い物とか?」

「ああ」

 珍しい。外への用事などいつも任せきりのクロードが、自分からその用を聞いてくるなんて。

「生鮮は昨日買ったし。日用品は今のところ間に合ってるし……。キアは何かある?」

「ううん。私はないよ」

 折角の申し出があったのに、現状はこの通り。きっと、理由を付けて外に出たいのだろう。籠もってばかりでは部屋も自分も淀んでくるのはクロードも同じということか。

 ここは何としても用事を見つけなければ。

「無理に探す必要はないぞ。無ければ無いでいいんだ」

 ばれた。

「……コーヒー豆が、そろそろ無くなるかなぁ」

「この前買ったばかりじゃないのか」

「自分の飲むペース、解ってないだろ、クロード。あんな水みたいに飲んだらすぐになくなるって」

 事実だが、実はまだ豆はある。そういった食材の管理をクロードがしていないからつける嘘だ。

 美味しくも不味くもない顔で朝食を口に運びながら、クロードは思案している。外に出ること自体にまだ迷いがあるのか、それとも、ユンの発言に疑問を抱いているのか。

 どちらでも別に構わないが、

 ――もう少し美味しそうに食べてくれないかなぁ。

 作り手としては、美味しく食べて貰いたいものである。不快以外は分かり易く表情に出さないので不味くないと言うことは解る。それでもキアと対照的な表情には流石のユンも少しだけ落ち込んでしまう。

「な。出掛けよう。たまには自分で違う豆選べよ」

「……ああ」

 自分から聞いてきた癖にあまり乗り気ではない。元来外出は好きではないのだ。だから、出不精を表に引きずり出すには、最後にはこちらから誘ってうんと言わせる形を取ることが一番だった。


   *


 ツィアも空は黒く、建物は低い。道は狭い所が多く、何処に行っても例外なく砂っぽい。歩いていて愉快になれる土地ではなかった。

 歩きながらクロードは、脇を歩くキアに時折目を落としていた。キアはいつもと同じ少し曇った顔をしながら、黒猫を足元に従えて歩を進めている。植物の種に、まだ名前のない黒猫。彼女は持ち物が多い。そんな風に思った。

 大切なもの。護るべきもの。傷付くことを避ける余りに、そういうものからは距離を置いてきた。短い生を全力で疾走する人間を、短い命を大切にする様を、愚かしいとさえ思う。キアに対しても同じように思っていた。

 だが、彼女を見ているとその気持ちが時折揺らぐ。

 いつかは消えるものに、儚いものに懸命になる様が、疼きのように襲ってくる。

 ――この手に護るべきものなど、果たしてあるのか……?

 クロードは、右手だけ拳を作った。コートの陰で、誰にも見えないように。

 今や全てのものに負けたと自ら思っているクロードに、掴んでいたいものなど見あたらなかった。目に見えるものも、見えないものも、何一つ。一生懸命になれることも特になかった。

 どんな小さなものでも良い。たった一つでも良い。何か護りたいものが、何か得たいものがあったのなら、俯く顔を少しでも上げられるのだろうか。そんな風に思うが、キアの姿を見る度に傷んでいくを感じていた。

「……ッ」

 クロードは右目に痛みを感じた。幻痛だ。冷え込むと古傷が痛むのと同じで、心が冷たく沈んでくると右目が痛み出す。幻の痛みを持って萎えさせようとしてくる。いつも負けまいと気を張っていた。今もそうだ。だが、その虚勢にも似た強さは、いつか限界を迎える。それまでに吹っ切るなり本物の強さを手に入れるなりしない限り、その時が来たら、すなわち完敗だ。

 砂が目に入るのを防ぐことを装い、クロードは目を細めて上目遣いに前を見た。

 憎らしい過去。真っ暗な未来。紅い瞳は、未だそのどちらも正視することが出来ない。

「ねえ、ちょっといいかな」

 知らない声に突然話しかけられ、顔を上げると人間の女性が居た。無論、知り合いではない。無視して通り過ぎようとしたが、さりげなく行く手を阻まれた。

「退け。邪魔だ」

「ねえ。あんたとこの子、何でこんな処で暮らしてるの?」

「うるさい。人間には関わりないことだ」

「でも、そっちのお兄さんは人間でしょ?」

 ユンはその持つ色故に、人間から見れば限りなく人間に近い。だが人間にはそれが解らない。

 人間に好奇の目を向けられることは多々ある。慣れることはないが一々構っていられない。だから下を向いて歩くのに、こんな風に声を掛けられたのは初めてだ。

「解らないならば口を閉ざせ、人間。興味本位は鬱陶しい。それとも何だ。〝鴉〟の知り合いか」

 と、睨めば、

「違う違う。あんた達に興味はあるけど、戮訃なんかとは関係ないってば」

 と全力で否定した。

 変わった人間もいるものだ。隠語が通じ、人間ではないと解って自ら近づいてくる。

 その在ってないような警戒心は、危険だ。いつか命取りになる。

 忠告してやる義理はない。力も智慧も無い者はそれ相応の末路を辿ればいい。

 押しのけて立ち去ろうとしたとき、彼女は溜息を吐き、

「みんな同じ事言うのね。仕方ないか。咒法師のお兄さんに見つかって怒られないうちに帰ろ」

 咒法師、という単語に、我ながら呆れるほどあっさりと引っかかった。

「貴様、シンと知り合いか」

「ううん。思いっきりフラれちゃった。邪魔したね。それじゃあ」

 唐突に現れた人間は、あっさりと背を向けると軽い足取りで去っていった。

 会話に一切入ってこなかった他の二人も、今となってはきょとんとして立ち尽くしている。

「何が、したかったんだろ、あの人」

「知るか。行くぞ」

 ユンの疑問は尤もだ。質問攻めにするわけでもなければ、執拗に付いてくることもない。目的がまるで見えない。ただ、人ならざるものに興味があることだけはよく解る。興味を持つこと自体が危険だ等と、露程も思っていない。愚かしい。

 そもそも、こんな処で道を歩いている人間以外の生き物など、本来あるはずがないのだ。戮訃は空から見下ろすだけ。咒法師はやはり移動には空を使う。他の種族は、居るはずがない。

 何故なら、この世界が正常に機能しているのならば、見捨てられた者達は残らず地獄に飲まれる仕組みになっている。こうして人間の世界を歩いていられる幸運は、世界の綻びに他ならない。

 また一つ、嫌なことを思い出してしまった。今日はろくな事がない。

「ここ、ここ」

 ユンに促され、こぢんまりしたコーヒー店に足を踏み入れた。猫は表で待っている。賢い猫だ。

 苦味、酸味、甘味。コーヒー独特のそれらの香りに咽せそうになりながら、ショーケースを端から眺めて歩いた。

 ツィアに来てからいつも飲んでいる豆がどれであるか、クロードは知らない。試しに探そうとしてみたが、ネスジアで飲んでいたときよりも苦味が強く、香ばしい香りが独特であるといった特徴から探すには種類が多すぎた。

「何か良さそうなのあった?」

「どれがいいのかわからん」

「いつもクロードが飲んでるのはね、これ」

 指差された黒光りする豆は、焙煎が強く、この中では値の張るものだった。

「たまには違うのも飲んでみようぜ?」

「任せる」

「それじゃ一緒に来た意味ないじゃん。ほら。何かピンと来た奴をさ」

 そもそもどういう基準で選ぶのかもよく解らないのに、無理を言う。

「じゃあ、これを……」

「大きく出たね、クロード」

 なにがだ、と自分が指差したものを改めて眺める。いつも飲んでいると言われたものより、色は薄く、焦げ茶。苦味はそれなりで、酸味よりも甘味の方が強い。それほど突飛な選択とは思わないが、漸くユンが値段のことを言ったのだと解った。百グラム当たりの単価が他とまるで数字が違う。

 金には困っていないので、値段を見て物を買う習慣がない。いくらであっても払えないことはまず無いからだ。この地で生きざるを得なくなって、選んだ生業は株屋。コンピュータの前に座って操作するだけで掃いて捨てるほど金が入ってきた。貯金総額はユンも知らない。怖がって見ないのだ。とはいえ、値段を気にしないのは昔からだ。不自由は様々あるが、金の心配をせずにいられることは数少ない救いかも知れない。

 ユンはクロードが示した豆を百グラムだけ注文し、挽いて貰っている。初めて買うときはいつもこの量だ。気に入れば、次回から二百グラムを一袋にして、二、三袋買ってくる。堅実で生活力のある男だ。

「何か頼んだか?」

「うん。紅茶を、買って貰ったの」

 よく見れば一画に紅茶も取り扱っている。日頃飲んでいるコーヒーはキアには合わないのだろう。どおりで限りなくミルクに近いカフェオレか、ミルクだけを温めて飲んでいるわけだ。

 余裕があるのは経済面だけだ。まるで周りに気が回らない。

 また思い知る。不甲斐ない己。



 ユンは品が入った紙袋を受け取り、二人を連れて店を後にした。歩き出すと、黒猫がすぐにキアの足元に寄り添った。

 店の中で何かあったように見えなかったが、クロードの表情が心なしか沈んでいる。何を引き金に鬱になるか解らないのが使神殿の嫌なところだ。

 行きにも通った時計屋の前にさしかかった時、キアが吸い込まれるように商品を並べてあるウインドウの前で立ち止まった。それを契機にクロードとユンも立ち止まる。二人はキアの後ろで肩を並べ陳列商品を眺めているように装って、顔を向けているだけで視覚に入れて認識はしていなかった。

「クロード。また心悩ましいことでもある?」

「何を根拠にその口は動いているんだ」

 尋ねてみればぶっきらぼうに返ってきた。

「この子見てる目が痛い」

「不愉快だな、その観察眼」

 クロードの言に、図星かとユンは肩を落とす。煮え切らないこの男は一体いつまで己の行くべき場所のことで頭を悩ませ続けるのか。考えてることのおおよそは見当が付くユンは、クロードに対して呆れの次の段階である不安を感じ始めていた。

「なあ。いっそシンに洗いざらい言っちゃうってどうよ? そうすればなんにも気にしないでやりたいように出来るじゃん。そのままじゃ、戦えないぜ?」

 それを聞いたクロードは、身体ごとユンの方を向き鋭い目つきで彼を睨み上げた。

「敢えて訊くが、貴様はそれでいいのか?」

「ああ、別に? 俺はもとから気にしてないし。クロードとは立場違うのは解るけど、俺は、背中の傷見られても別にいいと思ってる。たとえそれがシンでも」

 落ち着き払ったユンの態度に、クロードは息を付いて首を振った。

「下級位の殉徒じゅんとのくせに最強とまで言われた男が……落ちたものだな」

「それは昔の話。俺はもう殉徒じゃない。タダの人間」

 翼も牙も失くした殉徒など、人間と何ら変わりない。髪も瞳の色も同じ。治癒の早さと寿命の桁が違うことくらいしか明らかな差はない。

「いいだろう。貴様はそれでいいとする。だがな、こちとら貴様なんぞと一緒にされても困るんだ」

 激したクロードの声を聞き、キアが顔を上げて二人を見た。視界の端でそれを捉えつつ、通りでこの話を切り出してしまったことを後悔する。何とか宥めて連れ帰り、それから続きをと思うが、上手く行くだろうか。

「だから、立場違うのは解ってるって言っただろ?」

「ああ、聞いた。違うのが解ってるのなら、始めからそう言うバカげた提案をしないで貰えまいか」

「いや……理解と提案とはまた別……」

「別? 何が別なものか!」

 クロードはユンの襟首に掴みかかった。紅い瞳は更にその色を強くしてユンを睨む。

 ユンはクロードを諫めようと口を開き掛けたが、眼下にキアの姿を改めて認め、一旦その口を閉じた。これ以上泥仕合になることがあったら、その様は余りキアに見せたいものではない。

 この高貴な使神が、ボロボロになる様を知っている。自分で引いてしまった下限から転落し、自壊するのを。

 見下ろしたユンの目と、見上げたキアの目が合った。キアの目はとても不安そうな色をしていた。彼らを案じているようにも、僅かに怯えているようにも見えた。

「ちょ、ちょっとここに居てね?」

 状況の中で可能だった精一杯の笑みを見せてユンはキアにそう言うと、クロードの腕を掴んですぐ近くの路地に入った。



 もつれるように路地に消えていった二人の姿を見送って、キアはまたショウウインドウに視線を戻した。やりとりの断片はまだ聞こえてきたが、きちんと形を成しては耳に届かなかった。

 それでいいと思った。知らないでいた方がいいこともある。

 きっとあの二人も何か抱えているに違いない。口にしたり示したりはしないが、今のところ彼らだけが知っている何かが、彼らの心を悩ませて居る。ウインドウの中を見つめながら、キアは思った。

「……誰にでもあるのね。吐き気がするくらい、苦しいことって……」

 キアは表情を沈ませて時計の秒針を目で追った。長い長い時間が三本の針に刻まれて、短い音になって押し寄せてくる。

 鉢を抱える手に少し力を加え、溜息を吐くとキアは目を逸らした。これ以上見ていられる精神状態ではなかった。

 目を逸らした先で、黒猫が見上げてきていた。宝石のような蒼をまんまるにして、にゃあ、と鳴いている。

 その場に屈み、猫の頭を撫でた。まだ、名前を付けてあげていない猫。繋いでいるわけでもないのに、傍から離れようとしない不思議な黒猫。

「私が名前を付けてもいいの? 貴方を縛って、本当にいいの?」

 猫はにゃあ、とだけ鳴いて、頭をすりつけてきた。言葉の通じない生き物を相手に会話をするには、雰囲気を読む以外に自分に都合良く解釈するほかない。

 名前を付けて支配する利己を、まだ自分に許せない。

「あー! キアだ! おーい」

 呼ばれ、顔を上げてみると古びたゴーグルを金髪頭に載せた緑眼の少年の姿が見えた。

 目が合うと、自然と安堵した。クロードやユンに感じる安堵とはまた違う。フェイに対して本能が囁く声を、未だに聞き取れずにいる。

「ひとり?」

 隣までやってきたフェイが首を傾げた。ユンとクロードが居る路地とは反対側からやってきた彼には、キアが一人で居るように見えたらしい。

「ううん。そうじゃないんだけど、ちょっと……」

 何があったかは言いにくい。

「あいつら喧嘩の最中だから冷やかして来いよ」

「……!」

 フェイの真後ろに、真上からシンが現れた。突然のことにキアは思わず言葉を失くして感嘆符だけを口から零した。

 闇に溶けるような黒い衣装に白や金色のエクステンションが目立つ黒髪。深くも鮮やかな蒼。そして、不敵な笑み。

 あの女とは違うと解っても、身体は反射的に強張っていた。力を抜かなくては、彼に失礼だ。

「もー。びっくりするだろ。普通に現れろよ、普通に」

「普通なんてつまんねぇだろ。俺、普通大嫌い」

 ふざけて笑いながら、シンが目を合わせてきた。ネノーアとは鮮やかさのベクトルがまるで違う蒼が、見透かすように見てくる。

「まだ恐いか?」

「ご、ごめんなさい」

「謝るなよ。その恐怖は、悪くない」

 見上げると、大きな手が頭に乗った。

「畏れが無くなったら、後はない。良くも悪くも、終わるだけだ」

 ――さっきの女の人にも、同じ事言ったのかな……。

 シンにフラれたと言っていた人間の女性。様々の示唆の他に、彼女の不用心さも示しているようにも聞こえた。考えすぎだろうか。

「あ、やっぱシンだ」

「貴様。こんな所で何してる」

 話に決着が付いたとは思えない二人が路地から戻ってきた。恐らくシンの気配を察して会話を打ち切ってきたのだろう。ユンは放っておいても、今のクロードは咒法師の存在を許さない。

「失せろ。消えろ。去れ。去ね」

「はいはい。結構強引に押し付けたけど、ちゃんと護ってやってるみたいじゃん。偉い偉い」

「その代わり、何も解決してない」

「それはこれからするさ」

「一息に片付ければいいだろう。何故間をおく」

「こっちの都合とか、時期とか色々あるんだよ」

「ふん。口だけでなければいいんだがな」

「俺ってそんなに腰抜けに見える?」

 シンは腕を広げておどけた態度を見せた。クロードは口を歪めて目を細める。

 見るからに険悪な雰囲気だ。思わせぶりなシンを前にクロードは無言になった。

 視線を両者の間で行き来させるも、打破する策があるわけでもなく。おろおろと惑うばかりであった。

「ユン。家はこの近く?」

 突然、矛先が変わった。投げかけられた問いに、ユンはクロードの後ろで面食らっている。

「あ、ああ。そんなに遠くない」

「じゃあ、子ども連れて先に戻ってくれるか? ちょっとクロード借りたいんで」

「何でフェイも?」

 首を傾げるユンに、シンは微妙な表情の動きを作ってみせる。

「……察しろよ、ユン」

「……あ。おう、じゃあ、ちゃんと返せよ?」

「宜しく」

 クロードは何も言わない。

 その場に残った二人がこの後展開する会話は、まるで想像が付かなかった。

 次に顔を合わせるとき、クロードの表情はどうなっているだろう。あの、血のような紅い瞳が、色を失くしていなければいい。けしかけられて折れるほど弱い心でなければいい。

 幾度となく振り返りながら、キアはそれだけを願った。

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