第20話 夢ならばどうか
血を溢したようだ、と思った。
空は赤く妖しく光り、雲のひとつも浮いていない。その明かりを受けた地も当然の如く赤く変わり果て、さながらすべてが血に染まったようだ。
空を見上げる。そこに浮かぶは大きな月。それはいつもの月とは違う、真っ赤に染まった月だ。言うなれば、まさしく二月夜に昇る彼の月のよう。
ただその大きさはとても非にならない。この世界を緋色に染め上げるその月は、見上げた空の半分を占めるほど大きいのだ。これでは、目に入るものすべてが真っ赤に染まるのも当然だろう。
しゃがんで、地面の砂を両手ですくい上げる。異常に粒子が細かいその砂は、すくい上げた瞬間から指の隙間を逃れていく。肌に一粒残さず流れ落ちたその砂は、おそらく本来真白に近い色なのだろうと、ぼんやりと思った。
そう、それこそ、まさしく骨のように。
僕もう一度立ち上がった。見渡す限り一面赤の砂が広がる。僕は当てどなく歩き始めた。
ざくり。
一歩、また一歩と歩みを進めるごとに足は砂に飲み込まれ、ただ歩くことさえ億劫だった。
ざくり。
ざくり、ざくり。
どれほど歩いたか。僕の足が砂を埋まる音だけが鳴り、虚しく砂に吸収される。
周りには誰もいない。もし生存者がひとりでもいたら、という幼稚な想定はあっさりと打ち砕かれた。赤い月だけが、僕を嘲笑うかのように頭上を付いて回っていた。
足元の砂を蹴り上げる。今更ながら風もまったく吹いていない。意識して初めて気付いたが、どうやらこの世界では「呼吸」さえできなくなっているようだ。無理に空気を吸い込もうとしても、肺はまったく膨らまず、最早大気すらないことが窺い知れた。……息苦しさは、感じないが。
死に絶えた大地。一雫も流れない水。そよぐことさえ忘れた風。そして、柔らかく包み込むことも叶わなくなった光。
空を仰ぎ見て噛み締める。……この世界は、どうやらまた滅びたようだった。
仕方がない。これからどうしたものかと辺りを見渡す。……そんなことしたって、周りには何もない。でも、僕には確信があった。彼らはきっと、この地平線の果てのどこかにいる。まずはそれを見つけることが優先だ。
そして歩き始めようとして、僕の身体は固まった。
この世界はまた滅びた?
彼らはきっとどこかにいる?
「また」ってなんだ? 「彼ら」って誰だ?
ここまで考えが及んで、僕はようやくこれが夢であることに気付いた。寝る前に「渇きの魔法」を全力で使ったらどうなるかなんて、考えたからこんな夢を見たのだろう。
……それでも、「また」の前がいつなのか、「彼ら」が誰なのか、それはわからないままだが。
もう一度天を仰ぐ。相変わらず月は赤く、ひたすらに大きい。心なしか、その表面がぞわりと脈打ったように見えた。
目を閉じ、意味もない深呼吸をする。これは夢だ。それは間違いない。ただここでは世界がまた滅びたのも事実なのだ。
混沌に湧き上がる感情に耐えきれず、僕は砂に膝をつく。倒れる上半身を両肘で支え、僕は額を砂につけた。
──これは夢だ。それは間違いない。
──でも、そうだとしても、もしこれがここでは現実なら。
顔を上げて、地平線を見つめる。この果てに、僕にはまだやらなくちゃいけないことがある。こんなところで無様にうずくまっている暇もない。
自分の口が、ぐにゃりと歪む。おそらく勘違いではない。間違いなく、僕は今、笑っている。
──ああ、どうか。
──夢ならばどうか………………、
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「夢ならば、なんなんだ……」
気怠さと共に、僕は目を覚ました。
気持ちが悪い夢を見た気がする。ひどい喪失感と、心が震えるような高揚感。相反するふたつの感情を伴っての目覚めは、すこぶる最悪だった。
一体なんの夢だったんだろう。目覚めたばかりだというのに、すでに思い出せなくなっていた。
上半身をゆっくりと起こす。側机にある時計は五時半を指していた。今日は剣の鍛錬も休みなのに癖で早くに起きてしまったらしい。……早く起きてしまったのは仕方がない。顔を洗うために僕は布団を剥いだ。
コンコン。
何かが窓を叩いた。
枕の下から短剣を取り、椅子にかけてあったガウンを羽織って慎重に窓を傍から覗く。すでに燦々と照り付ける太陽の下に、深くフードを被った小柄な人物が佇んでいた。
窓を開けないまま、しばらく様子を窺う。心臓が早鐘を打つ。胸元で強く短剣を握り直した。
その人物が顔を上げる。フードの隙間からするりと黒い長髪が溢れ、青い瞳が煌めいた。……その人物は、マルジャーナ嬢だった。
僕は慌てて窓を開けた。
「マルジャーナ嬢!? こんな朝早くにどうされましたか?」
マルジャーナ嬢は僕の顔を見て、ほっとしたように頬を緩めた。
「セルジ様! よかった。まだ眠っていらっしゃるのかと……」
「いえ、その……お待たせして申し訳ない。何せ随分と早い時間でしたから」
「こんな早朝に申し訳ありません。ただ、どうしても諦められなくて……」
マルジャーナ嬢は悲しげに目蓋を伏せた。
「私、やはりセルジ様は『女神の慈悲』に行かれるべきだと思うの。あの場所は私だけでなく、すべての『清流の女神』にとって特別な場所ですわ。……あそこに行くことは、セルジ様の役に間違いなく立つと思いますの」
哀願する様に眉を寄せながら、彼女は続けた。
「なぜあんなにもラジャ曹長が、セルジ様を行かせたがらないのかわかりませんわ! ただ湖に行くだけじゃない!」
「……それは、私の身を案じてでして、」
「行きましょう。セルジ様」
「え?」
マルジャーナ嬢の思わぬ言葉に、僕は目を見開いた。
「ふたりで行きましょう、セルジ様。『女神の慈悲』に。今から!」
「え、今からですか!?」
慌てる僕を気にもとめず、マルジャーナ嬢は大きく頷いた。
「ええ。こっそり行って、こっそり帰ってきましょう!」
「何をおっしゃいますやら。マルジャーナ嬢も早く帰らないと、オスカルが起きてきますから」
「ラジャ曹長なら大丈夫です! 先程、お休みになっているベッドの周りを水で囲いました!」
「えぇ!?」
得意げなマルジャーナ嬢に、僕はぎょっとして答えた。
「それじゃあオスカルが!」
「あら、息はできるようにしていますわよ。防音として壁のように水で囲っただけですもの。しばらくしたら消しますわ」
「水をもたらす魔法」にはそんな使い方もあるのか。どうやら想像以上に汎用性があるらしい。
「ねぇ、これでしたらラジャ曹長も起きてきやしませんわ。……本当はセルジ様だって、メレニア湖に行きたいのでしょう?」
「それは……そうですが」
「なら行きましょう? ラクダなら手配してあります。……私、嬉しいんです。自分と同じ魔法の使い手に会えて。……あなた様が、あの場所を、気に入ってくださればいいのだけど」
照れ臭そうに微笑むマルジャーナ嬢の顔に、僕は戸惑いを感じた。
オスカルが僕をメレニア湖に行かせたがらないのには、いくつもの理由があることを僕は知っていた。
サルマーン閣下が一枚噛んでいるから。
宮殿に比べ警備も手薄だから。
あとはその他諸々。
その大半は彼が一緒について来れば解決するものだが、肝心のオスカルが使い物にならなくなることも難点だ。
ただ、僕はそもそも「渇きの魔法」を使えるようになるためにアズラカイムに来たのだ。その目的を果たすことを考えれば、ここで「メレニア湖に行かない」という選択肢は潰える。
枕元に立てかけていた剣を見る。自分の身は自分で大分守れるようになった。マルジャーナ嬢がいるという心配はあるが、ふたりくらいなら守れるだろう。……彼女自身の魔法もかなり強力だし。
あとは足を滑らせたりしなきゃなんとかなるだろう。
「……わかりました」
長い逡巡の末、僕の口から出た言葉に、マルジャーナ嬢は目を輝かせた。
「それじゃあ!」
「はい。いきましょう。きっと僕の魔法のヒントもあるはずです。……案内していただけますか? 着替えてくるのでしばしお待ちを」
僕がそう言うと、マルジャーナ嬢は屈託ない笑顔で「はい!」と大きく答えた。
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