第21話 深淵より
冬の早朝とはいえ砂漠の気温はすでに上がり始めており、日差しはフードなしに凌ぐことが難しいほどになりつつあった。
マルジャーナ嬢と砂漠をラクダで進み始めて二十分ほどが経った。砂漠の生活も短くはない。この渇ききった暑さにも慣れ、大して疲労も感じなかった。
「セルジ様。お加減はいかがですか?」
「特になんとも……。元気なものですよ」
「そうですか」
マルジャーナ嬢は安堵したように頬を緩めたものの、すぐさま思い直したように眉を寄せた。
「『なんとも』?……なんだかすごく活力が湧いてくるとか、そういうことも?」
「え? えぇ、そうですね……。特に変わりなく、と言ったところです」
「……そうですか」
マルジャーナ嬢は顔を伏せた。
「……そろそろメレニア湖に着きます。……私は身体を軽く感じるのですが……。セルジ様には、そんなこともないみたいですね」
物悲しげなマルジャーナ嬢には申し訳ないが、まったくと言うほど体調に変わりはなかった。ただ魔力を消耗している感覚もない。メレニア湖が僕にとっても特別な場所であることは間違いなさそうだ。
前方に注意を戻す。さらにラクダを進めると、地平線の先に目の覚めるような青が見えた。空との境界さえわからないほどに鮮やかな青は、進めば進むほど次第に大きく、広くなっていく。
「ほら、見えてきましたわ! あれがメレニア湖。『死の湖』、『女神の慈悲』……。相反する二つ名を持つ湖ですわ」
「すごい……」
さらに近づいたことで、その湖の全貌がついに顕となった。まさに空を落としたような湖は、こちら岸まであと二マリメレル(約二・〇四メートル)と言うところまで来て、ようやく向こう岸が水平の果てに霞んで見えるほどに大きい。
まるで砂漠に穴が空いているようだ。周りに草木の生えない、だだっ広い水溜りというのは、それだけで異様な光景だ。
ラクダを近くに止め、砂漠へ降りる。懐中時計を覗くと時刻は六時半ごろを指していた。宮殿を出たのが六時前後だったことを考えると、メレニア湖は存外近くにあるようだ。
「やったわ! 久しぶりのメレニア湖!」
砂漠に飛び降りるや否や、マルジャーナ嬢は駆け出す。まっすぐメレニア湖に向かって行ったかと思うと、靴を抜き飛ばし湖へと頭から飛び込んでいった。
「マルジャーナ嬢!?」
あまりの豪快さに、心配以上に驚きを覚えながら僕は岸まで駆け寄った。
しばらくして、水面に泡沫がぷくぷくと浮かび上がってくる。やがてその泡沫が急速に増えていったかと思うと、その中からマルジャーナ嬢が「ぷはっ」と大きく息を吸いながら飛び出してきた。
「やっぱりここは最高だわ! 身体中が気持ち良くて仕方ない!」
「肌は荒れないのですか?」
「平気ですわ! だって、ここは『女神の慈悲』ですもの!」
マルジャーナ嬢はからからと笑いながら、上半身を起こしつつ仰向けに脚をばたつかせた。どうやら、ここの水は本当に彼女にとっては無害らしい。
「セルジ様もよろしかったらいかがです? ここまできて魔力を消耗していないのなら、水も大丈夫かもしれませんわ」
「いえ、僕は少し触れれば十分ですから」
マルジャーナ嬢に笑いかけながらそう答え、僕は岸辺にしゃがみ込んだ。
マルジャーナ嬢は僕の反応を見て、つまらなそう頬を膨らませながら、岸に上がってきた。
「そう言えばタオルのご用意が」
「大丈夫ですわ。こんなに晴れているんだもの。勝手に乾きますわ」
ひとつにまとめられた髪を手で絞りながら、マルジャーナ嬢はなんてことないように言ってのけた。
「でもセルジ様のおっしゃる通りですわね。時間もないのですし、手短に済ませましょう」
「はい」
僕は湖に向き直した。より近付いて見れば、その水が恐ろしいほどに透き通っているのがわかった。簡単に底まで見通すことができ、深ささえ正しくはわからないほどだ。
手始めに水を両手で掬い上げる。この砂漠にあるとは思えないほど冷たい水だ。少し肌がひりついた。
「触れ心地はいかがですか?」
「少しばかり肌に刺激を感じます……」
「……純粋な水の元素が有害なのは、他の方と変わらないみたいですわね」
マルジャーナ嬢は殊更落胆したように眉を下げながら、僕の隣で同じように水を掬い上げた。
「でも魔力を消耗している感じは相変わらずしません」
僕は身を乗り出して、水面を眺めた。
そのときだった。
身体が、湖に吸い込まれていく。
初めはバランスを崩したのかと思った。
しかしどうにも違う。何かもっと強い力で、僕は湖に引きずり込まれたのだ。
しまった、と思ったときにはもう遅い。気付けば僕の視界は水に包まれていた。
ああ、しまった。
なにせ僕は泳げないのだ。
マルジャーナ嬢が僕を呼ぶ声がぼんやりと聞こえる。ぽこりと、自分の吐く息の泡が弾ける音だけがやけに鮮明だ。
藻搔いてなんとか水面に上がろうとするが、何故か身体が浮上しない。いくら泳げないとはいえ、何かがおかしい。しかしそんな違和感さえ置き去りにして、僕はどんどん沈んでいった。
オスカル、と頭の中で小さく喚ぶ。あいつは気付くだろうか。きっと怒られるに違いない。だから行くなと言ったのにと、激昂するあいつの顔が目に浮かぶ。
思えばはじめて溺れたときも、助けてくれたのはあいつだった。
『知ってる? 海のむこうには、だれもいない世界があるって』
僕の言葉に唆されて、あいつは僕と一緒に、漁師のボートを盗んで海を渡ろうとした。
ただ肝心の僕がまったく泳げなかったせいで、ボートが陸から離れ切る前に、僕は海に落ちて溺れてしまったんだっけか。
ああ、そして、あいつが僕を助けてくれて。
そして、それからあいつは……。
どこまで沈んだかわからなかった。途中で藻搔くことさえやめ、僕はただただ引きずり込まれるように沈んでいく。
意識が朦朧としてきた。もうマルジャーナ嬢の声も聞こえない。
……気のせいだろうか。ふと、水面を破って誰かが湖の中に入ってきているように見えた。
ぼんやりとした人影は徐々に大きくなっていく。少しずつ、ひとかきひとかき沈んでいくその人物は、やがて僕の方に手を伸ばした。
ああ、そうだった。
あのときもお前は同じ顔をしていたね。
自分が『喚んだ』声が届いていたことに安堵した僕は、そうしてゆっくりと意識を手放した──。
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