第22話 湖中に微睡む

 私は途方に暮れていた。


 目の前で咽び泣く妹に、私ができることなんて何もなかったから。


「ラウダ。やっぱりやめよう。お前がどうしても嫌だと、そう言うのなら、今回の求婚は断るよ」


 私はラウダを抱きしめた。もう何度こう言ったかもわからない。それでも、私がこの子に言えることなんて、これしかないのだ。


「いいえ、違うの姉さん。私、別に結婚したくないわけじゃないの! ずっとそう言っているじゃない!」


 ラウダはそう言って、私の胸から顔をあげる。大きな目から、真珠のように涙が溢れた。左目に至っては、きらきらと輝く様が、さながらサファイアのように美しい。


「私がアズラカイム大公家に嫁入りすれば、この街は救われる。断れば、いつ攻め込まれるかもわからない……。それはわかってる。でも、それでもだめなのよ」


「……でもね、ラウダ。私には、お前の考えていることがどうしてもわからない」


 アズラカイム。最近力を付けてきた、砂漠有数の都市国家。魔術を基盤にした軍事力は、今までこの砂漠では見られなかったほどのものだと、専らの噂だ。最近彼の国に、この辺りでも有力なある街が侵略されたと聞いた。


「お前の言う通り、このままでは、この街はアズラカイムに滅ぼされる。でもお前が嫁入りしてくれれば、属国にはなろうとも、この街は永らえる。むしろアズラカイムに護ってもらえるようになるわ」


 ラウダの頬を撫でる。涙で濡れた頬は冷たく、指をよく滑らせた。


「街の議会の方針もそう。……でもね、ラウダ。お前が幸せになれないなら、私はそんな結婚断ってやりたい。……議会も勝手だよ。今までお前のお陰で水に困らずに済んだのに、今度は街のために嫁に行けなんて」


 ラウダは私の言葉を、静かに聞いていた。時折瞬きと共に、涙が目尻から溢れていく。


「なのにお前は、『結婚しても構わない』と言う。……そして、その割にそうして泣く。……ラウダ。私には、お前のようなはない。だから、お前にはわかることが、私にはわからないんだよ」


 ラウダの頬を両の手で包む。今まで、この子には本当にたくさんのことを我慢させてきた。姉として、できることはなんでもしてやりたい。


「教えて。お前には、何が見えているの?」


 私をじっと見る目。黒い髪に褐色の肌。この子は私によく似ている。なのに、左目だけが少し青かったばっかりに、この街で水を出し続ける羽目になった。少しばかり巫女めいたそのも、この子しか持っていない。



 ……似ている?



 そこまできて、『僕』はようやく『私』ではないということに気付く。……じゃあ、これは誰の記憶だ?


「姉さん。聞いて」


 ラウダさんの言葉に、僕は彼女に意識を向け直す。……僕の勘違いじゃなければ、彼女はおそらく初代「清流の女神」。その言葉を、決して聞き逃してはいけないと、直感的にわかったからだ。


「あいつらの狙いは、私が出す水じゃない」


「え?」


 『私』は驚きを孕んだ声で、ラウダさんに聞き返した。


「あいつらの本当の狙いはね──、」




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 マルジャーナは、今にも泣きそうな顔でメレニア湖の水面を見つめていた。


 セルジが湖に落ちてしばらくが経った。その直後、突如として現れたオスカルが湖に飛び込んだときから、マルジャーナは岸辺にしゃがみ込み、彼らの帰りをひたすらに待っている。


『ラジャ曹長、私も!』


『あなたはここで待っていてください!』


(……そうは言われたけどもう限界だわ。いくらなんでも遅すぎる)


 意を決して、マルジャーナは立ち上がり、靴を脱ぐ。彼らが戻ってきたときの救助役としても、自分はここにいるべきだと思っていた。しかし本人たちが戻らないのなら、待っている理由もない。


(湖の中で何かが起きているのなら、私がなんとかしないと!)


 自分は「清流の女神」なのだと、決意も新たに湖へ飛び込もうとした瞬間だった。


 ザバァ! という音とともに、セルジを抱えたオスカルが水面から顔を出したのだ。


「ラジャ曹長!」


 オスカルはマルジャーナの声に反応も示さず、ゆっくりと岸辺に向かって泳ぎ始めた。しかしその目は虚で生気もない。


 それでもセルジの鼻と口が水に塞がれないよう、その身体をしっかりと支えることは忘れていないようだった。


 ようやく岸辺に着くと、オスカルはセルジをなんとか陸へと揚げ、自分自身の身も引き摺るようにして、湖から揚がった。


 マルジャーナはふたりに駆け寄った。セルジは意識を失っているようだった。しかし意識はあるといえ、心配なのはオスカルも変わらない。あまり魔力を持たない彼にとって、メレニア湖の環境は毒でしかないはずだ。


「ラジャ曹長! セルジ様は……!」


「……息はしています。気を……失っているだけでしょう」


「ごめんなさい……。まさかセルジ様が泳げないなんて知らなくて……。こんなことになるとは……」


「……マルジャーナ様。……彼が乗ってきたラクダをお貸しいただけますか」


「……どうやってお帰りになるつもりですか?」


「セルジ……様をラクダにお乗せします。……マルジャーナ様はご自分のラクダにお乗りください」


 息も絶え絶えにそう言うオスカルに、マルジャーナは目を丸くした。


「そんな……! ではあなたはどうされるつもりですの!?」


「……私は、セルジ様の乗るラクダを引きます」


 焦点の合わない目で、オスカルは答えた。


「そのような状態では歩けるわけもないでしょう!? ……ラジャ曹長は、セルジ様の乗られていたラクダにお乗りくださいまし。セルジ様は、私のラクダにお乗せします」


 マルジャーナはそう言うと、セルジの方に手を伸ばした。息があるとはいえ、脈や体温も見ておくべきだと思ったからだ。


 しかし瞬間、その手はオスカルによって力強くはたき落とされた。


「ラジャ曹長!? 突然何事ですか!?」


 はたかれた手を胸の前に戻し、マルジャーナは責めるように声を荒げた。一従者が公家の令嬢に暴力を働くなど、許されざることだからだ。


「いくらなんでも不敬が過ぎます! セルジ様の従者とはいえ、許されることとそうでないことがありますわ!」


「……セルジに…………触れないで、いただきたい」


 マルジャーナの激昂をよそに、オスカルは虚気ながら力強さを感じる眼光で、彼女を見つめ続けた。その狂気さえ感じる視線に、マルジャーナはたじろぐ。


「そんなこと……! 私なりに、セルジ様を案じて、」


「セルジは私が面倒を見ます。……あなたは、心配されなくても結構です」


 オスカルはそう言って、セルジの上半身を抱えた。首に指を当て、脈を測る。安定していたのか、オスカルはほっとしたように、口元を少しばかり緩めた。


 マルジャーナは、オスカルの一連の所作を眺めていた。濡れそぼつ長い黒髪やシャツは身体にぴたりと張り付いて、その体躯のか細さを際立てていた。


「……ラジャ曹長?」


 マルジャーナは、オスカルに覚えたの正体を問うべく、口を開いた。


「あなた、もしかして、」


「マルジャーナ様」


 マルジャーナの言葉を遮るように、オスカルは力強く言い放った。


「……あなたが、何を思ったのか。私にはわかりません。……でも」


 オスカルは顔を上げて、先ほどよりは生気を感じる目でマルジャーナを見つめた。


「あなたのその問いかけに、私が答えることはできません。……どうか、ご理解いただけますよう」


「……わかりましたわ」


 きっと、自分には思いもよらない事情があるのだろう。マルジャーナはそう納得して、オスカルに答えた。


「それと……。先ほどは、大変なご無礼を働き申し訳ございませんでした」


「いいえ、いいの。セルジ様の危険に気が立っていらっしゃたのよね。……元々は、私がお連れしたのがいけなかったんだわ。本当にごめんなさい」


 マルジャーナは立ち上がり、手を天に掲げた。


「メレニア湖の水を洗い流します。少し冷たいですが耐えてください」


 オスカルが頷いたのを確認し、マルジャーナは緩やかな雨のように、彼らに水を浴びせた。


 その春雨のように柔らかい水を頬に受け、セルジの眉がぴくりと動く。そして、ゆっくりと目を開いた。


「あれ、オスカル……?」


「セルジ様!」


「セルジ! 俺がわかるか?」


「ありがとう………。僕が喚んだのに、応えてくれたのか」


「自分で俺にかけた魔術だろう。……応えるに決まってる」


 オスカルはほっそりと笑いながら、セルジに答えた。


「セルジ様」


 水を止め、マルジャーナはセルジの傍に跪いた。


「この度は本当に申し訳ございません。あなた様をこんな危険な目に遭わせてしまうなんて……」


「いいんですよ。僕もメレニア湖には行きたいと思っていましたから。……それに」


 セルジは上半身を起こし、立ち上がる。


「セルジ! まだ無理は、」


「大丈夫だから」


 セルジはオスカルを宥めると、湖の岸に近づいた。


「それに今回の湖訪問は、僕なりに収穫もありました」


「収穫?」


 マルジャーナは怪訝そうにしながら、セルジに問いかけた。


「はい。……どうやら、僕にはこの湖の水を、枯らすことができないようです」

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