第19話 死の湖

「女神の慈悲?」


 聞き慣れない単語に、僕は思わず問いかけた。


「『女神の慈悲』は砂漠の中央に位置する湖ですわ」


「メレニア湖のことですか?」


 僕の言葉に、マルジャーナ嬢は頷いた。


「さすがセルジ様。よくご存知でいらっしゃいますわ」


「しかし『慈悲』だなんて、そんな名前が付くような湖じゃなかったはずです」


「セルジさんのおっしゃる通りですよ、マルジャーナ」


 僕の言葉に肯定の意を示したのは、三つ目のナツメヤシの実を口に運んでいたウマル閣下だった。


「あそこは本来死の湖です。客人を招くような場所でもないでしょう」


 死の湖。件のメレニア湖は、「女神の慈悲」なんかより、その名前の方が似つかわしい湖のはずだ。


 メレニア湖はこの砂漠のど真ん中に位置する、大きな湖だ。その透明度は高く、空の色を落とし込んだ青と金色の砂漠とのコントラストは非常に美しいと評判である。


 しかしその美しさとは裏腹に、彼の湖が観光地化することはない。それには主にふたつの理由があった。


 まず水がきれいすぎるという点。


 水とは当然汚ければ飲用には堪えないし、ある程度の水質の良さは必要だ。しかし不純物のまったくない、あまりにきれいすぎる水というのもまた毒になる。純度の高い水はあらゆるものを溶かし込んでしまい、生物にとって必要なものまで奪い去るためだ。


 メレニア湖の湛える水は、自然に存在するものとしては考えられないほど不純物を含まない。普通自然界の水なら含む、多少の土の元素さえそこにはないのだ。


 そのためメレニア湖には一切の生き物は住まわず、その周りには草ひとつ生えていない。砂漠で貴重な水源でありながら、人里はおろかオアシスさえ形成されていないのはそのためだ。


「失礼ながら、マルジャーナ様。私も主人の身を守る従者として、メレニア湖へ向かうことは賛成できかねます」


 ウマル閣下に続いて、口を開いたのはオスカルだった。


「私の拙い知識が正しければ、おそらく私はその地でまともに動くことはできないでしょう。そのような場所に主人を送り出すわけには参りません」


 彼の言葉に僕も首肯する。そう、これがメレニア湖に人がほぼ訪れないもうひとつの理由。


 魔力を異常に消耗するのだ。


 本来魔力は、魔術として四元素を操った際に消耗するもので、逆に言えば魔術を使わない限り魔力は減らない。


 しかしこのメレニア湖は、その周辺に足を踏み入れたものから容赦なく魔力を奪う。加えてこの地で使われる魔術のほとんどは無効化されるため、まったく人が生活するのに適わない地なのだ。


 特にオスカルのように魔力をあまり持たない人間にとって、魔力を吸収され続けることは命に関わる。これらの異常現象は原因もわかっておらず、対策のしようもないことが難点だ。


「しかしそれはマルジャーナ嬢も同じでは? 失礼ながら、あなたにも魔力はほとんどないはずでしたよね?」


 僕の問いかけに、マルジャーナ嬢は首を横に振った。


「そうなのですけれど……。なぜかほとんど問題なく活動できるのです」


「それがあの湖が『女神の慈悲』と呼ばれる所以でもあります」


 五つ目のナツメヤシの実を飲み込み、紅茶を啜っていたウマル閣下が言った。


「万人にとっては毒でしかないあの湖でも、マルジャーナ嬢をはじめとする『清流の女神』たちは、まったく問題なく活動ができるのです」


「むしろほかの場所にいるより元気なくらいですわ」


 マルジャーナ嬢は思案するように目線を上にしながら、ウマル閣下に倣って紅茶を口に含んだ。


「私がそうなら、おそらくセルジ様もそうなんじゃないかと……。今修業も少し難航していますでしょう? だから環境を変えてみるのもひとつ手立てとして良いと思いませんこと?」


「それは確かにそうかもしれませんが……。あまりにリスクも大きすぎます。万が一セルジさんの身体に合わなかったら国際問題にも発展しかねません」


「私も賛成できかねます」


「オスカル」


 眉根を寄せるウマル閣下に同調して見せたオスカルは、僕のなだめる言葉に耳も貸さず言葉を続けた。


「先ほど申し上げました通り、メレニア湖では護衛である私が、おそらくまったく使い物になりません。そのような場所にあなたをお連れするなど……。到底できません。たとえ普通の湖であっても、私なしになどお連れしたくないのに」


「それはそうかもしれないが……。しかし今僕の修業が滞っているのも事実だろう? 一度くらい、行ってみてもいいんじゃないか?」


「しかしながら……!」


「おふたりとも一度落ち着いてください」


 僕らの言い合いも見慣れてきているウマル閣下が、軽く笑いながら僕らに言う。かと思えばきゅっと口を横に結び、真剣な面持ちでマルジャーナ嬢に向き直った。


「しかしマルジャーナ。オスカルさんのおっしゃることももっともですよ。私たちはお互いの信用のもとにこうして共にある。特にセルジさんはオスカルさんの同行なしでは、そもそもアズラカイムにさえ来なかったのです。それをわかっていて言っているのですか?」


「それはそうかもしれませんが……」


 マルジャーナ嬢は悩まし気に目を伏せ、両指先を小さく胸の前で合わせながら言った。


「このご提案は私からではありませんのよ」


「え? では誰の提案なんですか?」


 僕の問いかけに、マルジャーナ嬢はおずおずと目線を上げる。


「サルマーン兄さまです」


「サルマーン閣下!?」


 僕の隣で、オスカルが身構えた。


「なぜサルマーン閣下が?」


「私の方からご相談差し上げたんです。なかなかセルジさまの魔法が上達しないと……」


「……だとしても承服しかねます。閣下のご提案であれど、我が主に危害が及ぶ可能性があることは変わりません」


 オスカルは極めて冷静にそう告げる。……あの日の出来事を誰にも伝えていない以上、受け入れられないとは言えない。


「でも……。このご提案は、サルマーン兄さまだけでなく大公殿下からのご進言でもあるんですのよ」


「父上が?」


 ウマル閣下は眉を顰めながら言った。


「ええ。以前サルマーン兄さまにご相談していた際、殿下にもお話しいただいていたようで……。それで、今回メレニア湖への立ち入り許可もいただいたのです」


「そうですか……父上が」


 ウマル閣下は目を伏せ、神妙な面持ちで言葉を続けた。


「私としては、父が良いと言うならお二人を止める理由はありません。……どうなさいますか?」


 どうやら判断は僕らに委ねられたらしかった。


「僕としてはぜひ行きたいと考えています」


「セルジ様!?」


「だってそうだろう? 僕はそもそも『渇きの魔法』を使えるようになるために、アズラカイムに来たんだ。断る理由もない」


 それに、と僕に食らいつかんばかりの視線を遣るオスカルを手で制しながら、僕は言葉を続けた。


「そもそもマルジャーナ嬢は、メレニア湖でも問題なく動けるとおっしゃっている。僕だってそうかもしれないだろう?」


「……あなたが動けるとか、そういう問題ではありません」


 オスカルは絞り出すように言った。


「私が動けないことに問題があるのです。それをわかっていらっしゃるはずだ」


 僕にしかわからないくらい、微量の懇願を瞳に込めながらオスカルは言う。僕はから、彼のこの表情に滅法弱かった。


「湖に、私なしでなんて行かせられません」


「……わかったよ」


 僕はひとつため息をつき、ウマル閣下とマルジャーナ嬢の方に向き直った。


「申し訳ございません。オスカルを説得するのにしばしお時間をいただきたい。彼は私の方から何とか言いくるめます」


「セルジ様!」


「オスカル。僕は今すぐ行くとは言っていない。……少し話し合おう。お前の言いたいこともわかっているから」


「わかりましたわ」


 マルジャーナ嬢は僕の言葉に頷いた。


「無理をしてまでお連れはできません。また少し考えてから、この件についてはお話ししましょう」


 彼女はそう言うと、紅茶を一口啜った。




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 その晩。僕はひとり寝室で考えこんでいた。自分の魔法のこと、メレニア湖のこと……。相変わらずわからないことが多すぎた。


 ここに来てから、魔法の腕は格段に上がっていた。しかしそれでも、マルジャーナ嬢の求めるレベルには到底達していない。その打開策として、件のメレニア湖に行くことは、決して悪いことではないと思う。


 窓を開け外を見遣る。黒にほど近い深い藍色の冬空に、銀の星がちらちらと瞬いていた。空に浮かぶ月は白く丸い。しかし、今晩の空はいつもと違っていた。


 ふた月夜づくよ——空に第二の月が宿る夜。約ひと月に一度の満月の夜に、空にはもうひとつ赤い月が浮かぶ。毎夜浮かぶ白い月と並ぶように現るその赤い月は、ヴェルデシア教の教えによれば、僕らの祖先の故郷であるらしい。


 今から幾万年も昔に、僕らの祖先はあの赤き月からこの地に降り立った。そのため、この二月夜は一か月の中でも特別魔力が強まる夜でもあり、強い魔力を必要とする術式はこの夜に行われることが多い。


 試しにふと、今僕が「渇きの魔法」を本気で使ったらどうなるか試したくなった。魔力はほとんど使わないとは言え、この特別な夜だったら、僕の魔法もより強力になるかもしれない。


 ……海の底のように、静かな砂漠が頭をよぎった。建物は崩れ、白くきらめく砂の中に埋まっている細い骨。夢のように頭に浮かんだ静かな世界を、僕は首を振って追い出した。目の前に広がる庭園には緑が生い茂り、耳をすませばせせらぐ人工川の音。


 ……こんなに美しい世界を、夢見心地とは言え壊そうだなんて馬鹿げている。窓から入る冷たい風に、僕は小さくくしゃみをした。


 昼間の暑さに忘れがちだが、もう暦は冬の第二月。ガルシアでは暖炉に薪が絶えまなくくべられている季節だ。砂漠の夜は昼間に比べ格段に冷え込む。僕はこれ以上夜風に身をさらさないため、いそいそと窓を閉めた。


 布団に潜り込み、オスカルのことを思い返す。……彼を何と説得すればよいだろうか。お前以外の護衛を付けるから大丈夫。というより、僕だって自分の身を自分で守れる。だから、お前がいなくても平気だ……。……多分聞きやしないだろうな。


 瞼が重くなってきた。今日も魔法の修業でかなり魔力を消耗したから……。明日は週に一度の稽古休みの日。早起きをしない分ゆっくり眠れる。


 僕はそんなことを考えながら、意識を手放した。

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