第8話 オアシスと渇き
その後しばらくの間、ウマル閣下の案内で各オアシスの為政者たちと談笑の時間を持った。アズラカイムに属するオアシス都市国家は優に二十を超えるほどであり、挨拶回りだけで多くの時間と体力を費やした。
「アズラカイムでこれほどの人脈が得られるとは、思ってもみませんでした」
「セルジ殿は大公家の血筋の方でもあるんですから、むしろ今までこちらにいらしてなかったのが不思議なくらいですよ。あとはラウダ家への挨拶だけですね」
「……はい、そうですね」
何とか返事をして、僕はふうと息をつく。……正直、体力限界だった。心なしか頭も痛い。正直挨拶をさっさと終えて、部屋に戻りたいのが本心だった。ただ大公家の方が直々にご案内をしてくださっている中で、おいそれと簡単に帰ることもできない。
「セルジ様」
突然、今までずっとそばで控えていたオスカルが口を開いた。唐突な発言に、僕だけでなくウマル閣下も一緒に振り返る。
「お身体は大丈夫ですか? 本日は砂漠旅から宴まで、大変お疲れでは?」
オスカルは真顔だった。職務中、こいつは表情を崩すことなどほとんどない。それでも、長年ずっと一緒にいる僕だけはわかるくらいには、心配の色を瞳に浮かべていた。
「オスカル、」
「ああ……! 気遣いが足りず申し訳ございません。たしかに、いくら何でもお疲れですよね」
「なんとも。……と申し上げたいところですが、さすがに少々堪えました……」
「ウマル閣下、畏れながら我が主は大変疲弊している様子。少しばかり休ませてはいただけませんか」
「もちろんです。あちらに椅子がございます」
閣下に誘われるまま、僕はオスカルの肩を借りながら、宴の間の端にある休憩所に向かって歩いた。
「ありがとう、オスカル」
「無理をするな……少し休もう。まだ宴は続くだろうから」
オスカルとささやくような会話をしているうちに休憩所に到着し、僕はソファに腰かけた。
「ありがとうございます。少しばかり頭が痛くて……」
「セルジ様、常用の頭痛薬です。……ウマル閣下。私は主に冷たい水を汲んでまいります。失礼ながら、しばらくお待ちいただけますか」
「ええ、承知しました。セルジ殿のことはお任せして、従者殿はどうぞお行きください」
「はい。失礼いたします」
オスカルは一礼し、足早にその場を去った。ウマル閣下は僕の隣のソファに腰を掛ける。
「……良き従者殿ですね。貴殿のことをよく見ている」
「もともと、乳母兄弟なのです。今では立場上アスタルロア軍属ですが、こうしてずっと私といてくれます。故郷を離れてもそばにいる、力強い味方です」
「そうですか。……少し顔色が良くなってきましたね」
ウマル閣下は心配げに、僕の顔を覗き込んできた。
「おかげさまで……ご迷惑おかけし申し訳ございません」
「滅相もない。もう少し休んでいきましょう」
ウマル閣下が葡萄酒をあおったところで、早足に衛兵が近づいてきた。
「失礼いたします。ウマル様」
「なんだ、ご来賓の対応中だぞ」
「はい、申し訳ございません。ただ、大公様がお呼びでして……」
「父上が?」
「はい、至急いらっしゃるようにとの仰せでございます」
衛兵はひどくばつが悪そうな顔をした。
「そうか……わかった。父上にすぐに参ると伝えろ」
「はい、承知しました」
ほっとしたような表情で、衛兵は立ち去って行った。
「セルジ殿、大変申し訳ございませんが……」
「はい、聞こえておりました」
心底申し訳なさそうに、眉を下げるウマル閣下に、僕は努めて微笑みかけた。
「殿下がお呼びなのでしょう。どうぞ私は大丈夫ですから、殿下のところへ。……オスカルもそろそろ、帰ってきますから」
「そうですか……。かしこまりました。何かございましたら、衛兵か侍女に何でもお申し付けください。すぐ戻ります」
失礼します、と短く述べて、ウマル閣下は玉座のある広間の最奥へと進んでいった。
ウマル閣下が見えなくなるのを見届けて、僕はソファに深く寄りかかり、目をつむった。正直、ウマル閣下がそばにいては十分に体を休めることもできなかった。オスカルがそばにいないのは心もとないけど、それでも一度ゆったりとくつろぎたい気分だ。
目を閉じても、瞼を透かして広間のきらめきを感じられた。陽気な弦楽器の音色に談笑の声。スパイシーな異国情緒漂う料理の香り。すべてが僕には馴染みのないもの。目を閉じた僕には何もかもが夢の中のように遠くに感じられる。
「疲れた……」
「おにいさん、大丈夫ですか?」
ゆっくり凍った氷のように、澄んだ声だった。唐突に現実に引き戻される。驚きながらも気怠く瞼を開けると、ひとりの女性が立っていた。
女性、というより少女と言った方がいいかもしれない。おそらく僕より年下だ。長く豊かな黒髪をひとつに結い上げている。体型に沿うようなシルエットのドレスはごくごく淡い水色で、上品ながら豪奢な装飾があしらわれていた。耳には真珠のピアスが下げられており、彼女が首をかしげるのと一緒にゆらゆら揺れている。
褐色の肌から、おそらくアズラカイム人であることはわかった。先ほど挨拶回りをした、どこかのオアシスのご令嬢だろうか。
「突然声をかけてごめんなさい。先ほどから、遠目に気になってしまって……」
少しつり気味の、大きな目が心配そうに僕を見つめた。綺麗な子だ。薄めの化粧がよく似合っている。よく見れば、左右で目の色が違うようだ。右目は砂漠の民らしい黒い瞳だが、左目はまるでラピスラズリのように澄んだ青色をしている。
「お気遣いありがとうございます。長旅の疲れがたたったようです。しばらく休めば治ると思います」
「そうだわ! よかったら、こちらどうぞ」
令嬢はさっと振り返ったかと思うと、どこからともなく快活に僕にグラスを渡してきた。
「お水です。冷たいですよ」
「ああ……どうもありがとう」
令嬢の気さくな態度に、僕も少し語調を崩しながら、水を受け取った。
「どうかしら。お口に合う?」
令嬢は僕に尋ねながら、先ほどまでウマル閣下が座っていたソファに腰を下ろした。
「はい、とても冷たくて落ち着きました。……失礼、少し薬を飲ませていただいても?」
「ええどうぞ」
僕は令嬢から受け取った水で、オスカルから渡された薬を飲んだ。小さい頃から頭痛持ちだった僕の常用薬だ。
「少しはご気分がよくなったかしら」
「はいおかげ様で。助かりました」
「……ねえ、ところであなた。とても綺麗な目をなさっているのね」
令嬢は興味深げに僕に尋ねた。
「オッドアイなんて、私以外の方で初めて見かけました。砂漠の砂のような黄金色ですのね」
そう、実はかくいう僕も左右で目の色が違った。これは生まれつきで、右目は金色、左目は母と同じ茶色をしている。
「私も、自分以外に二色の瞳を持つ方とお会いしたのは初めてです。素敵なブルーの目ですね、レディ、……ええっと、なんとお呼びすれば?」
「ああ、ごめんなさい。お名前を申し上げるのを忘れていましたわ。私の名は」
「マルジャーナ!」
ウマル閣下の声に、僕と令嬢は振り返った。見ればわなわなと震えるウマル閣下と、その後ろにグラスとフルーツの盛皿を持ったオスカルが立っていた。
「あなたはまた勝手にセルジ殿にお会いになって……! 紹介をするから待っているようにと言ったでしょう!」
「あら、ごめんなさい。ウマル兄さま」
令嬢——マルジャーナ嬢は飄々とした様子でソファから立ち上がった。
「でも、セルジ様がとってもお辛そうだったんですもの。私だったらいくらでもお水をお出しできますから。すぐにでも助けて差し上げたくて」
マルジャーナ嬢は僕に向き直ると、さっと手を僕の持つグラスの上に差し出した。ゆったりと手を揺らすと、あっという間にグラスが水で満たされる。
「……改めまして。セルジ様。私はマルジャーナ・ラウダ。ラウダ公爵家の娘であり、今代の『清流の女神』です。どうぞよろしくお願いしますね」
マルジャーナ嬢はにっこりと、屈託なく笑った。
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