改世律の聖譚曲《オラトリオ》

成田葵

第一部 水上の砂漠

第一章 オアシスと渇き

第1話 プロローグ

 目を覚まして一番初めに感じたのは、カーテンの隙間から刺し付ける日差し。そしてわずかな砂と水の匂い。天井でゆったりと回る天井扇を見て、旅のさなかにオアシス街へ立ち寄ったことを思い出した。


「失礼します。セルジ様。入ってもよろしいでしょうか」


 控えめな男の声。あいつ、なぜノックもしないのだと思ったが、見やれば入り口にはドアらしいドアもない。木製の玉すだれが涼しげに揺れているだけだ。部屋を閉め切らないのも、熱い砂漠を生きる民の知恵だろうか。


「オスカルか。少し待ってくれ」


 そう言いながら、僕はベッドから立ち上がり、靴を履いて軽く襟を整えた。髪を手櫛で好き、ひとまずの身支度を終えてラタンの椅子に腰を掛ける。


「入っていいよ。待たせた」

「失礼します。お加減はいかがですか」


 玉すだれをくぐり、オスカルが部屋に入ってきた。銀の水差しは結露をまとい、中に冷え冷えとした水がたっぷりと入っていることがうかがえる。


「うん、もう大丈夫。心配かけたね」

「砂漠越えを始めてから十日です。疲れもたまる頃でしょう。あなたはもとより活動的ではないから。……街についてすぐに倒れられたときは、さすがに肝を冷やしました」


「大きなオアシス街があって本当によかった。きちんとしたベッドで寝たのなんてしばらく振りだ。……ところで、そんな畏まらなくてもいいんだよ。ここには僕とお前しかいないんだから」


「あなたに万が一のことでもあれば、代々仕えるラジャ家の名折れというもの。……私、ガルシアを立つときに申し上げましたよね? 無理はしない、少しでも異変があればすぐに知らせることと」


 眉根を寄せたオスカルの顔を見て、ああ、これは僕への当てつけかと納得した。昔からこいつはこういったところが厭味ったらしい。


「引きこもりのあなたがひょいひょい渡れるほど砂漠は甘くないのです。どうぞご自分がガルシア王国屈指の貴族、アスタルロア侯爵家のご子息であられるということをお忘れなく」


「わかった! ごめんってば。お前には迷惑かけたよ。この先は無理をしない。……ここまで、運んでくれてありがとう。お前が付き添ってくれて本当によかった」


 両手を上げ、降参の意を示す。乳母兄弟であるオスカルに僕は頭が上がらない。さながら双子の兄のような存在だ。


「……具合は、本当にいいのか」


 砕けた口調。表情は険しいが、オスカルの態度は多少軟化したようだ。


「うん。大丈夫。心配してくれてありがとう。僕に何かあったら、お前にも迷惑かけるからね。正直、貴族の次男坊なんて、何があっても大した問題じゃないと思うけど」

「そういう問題じゃないだろう」

「わかってるって。……それ、水? オアシスとはいえそんなに冷たい水が手に入るものなのか」


 話をそらしたい一心で、僕はオスカルの持った水差しを指さした。


「……ここはしがない都市国家だが、厳密にいえばアズラカイムの属国らしい。『水をもたらす魔法』の恵みを受けた国だ」


 まだ納得のいっていない様子ながら、オスカルは渋々話を続ける。流麗な、一流の従者らしい手つきで水をグラスに注いだ。


「へえ。じゃあもうアズラカイムも近いのか」


 受け取ったグラスを仰ぐ。喉にすうっとしみわたる冷たさ。ほんのり感じるレモンのさわやかさが、疲れた身体に優しい。


「あと三日も歩けば着く」

「遠いなあ。さすが砂漠のど真ん中」


「ここから先はオアシスのある都市国家も多いから、これまでほど辛くはないはずだ。どこもアズラカイムの属国だし、ここみたいに俺たちをもてなしてくれるだろう。今のうちにしっかり休んで、明日には発つからな」


 隣のラタンの椅子に腰かけ、オスカルも水を口に含んだ。


「冷たい」

「有数の魔術国家なだけあるよ。水を冷やすくらいならお手のものなんだろう」


 僕は手を天井にかざしながら、今から向かう国に思いをはせた。


 アズラカイム公国。僕の故国・ガルシア王国にも劣らないほどの魔術国家であり、数多の属国を周辺に持ったこの砂漠を統べる強国だ。


 ガルシアは魔術学において世界有数の有識国であるが、同時に世界最大の商業国家でもある。「ガルシアにないものは、世界の果てにも存在しない」と旅人たちに言わしめるほどに、世界中からモノというモノが集まる。


 しかし、これも砂漠を超えた東の国々とを結ぶ交易街道が発達しているおかげであり、もっと言えばその街道の要所ともいえるのがアズラカイム公国である。砂漠の街道に沿うようにあるオアシス国家の半数はアズラカイムの属国なのだ。


 アズラカイムは交易街道のちょうど中腹に位置するオアシス国家だが、ほんの百年ほど前まで、その他のオアシス国家と変わらない程度の権力しか持たなかったらしい。


 それがなぜこんな強国まで育ったのかというと、「水をもたらす魔法」という、砂漠においては最強ともいえる魔法の繰り手が、ちょうどその頃に誕生したからだったと家庭教師から習った。


「『清流の女神』、無限に水を生み出す魔術を超えた魔法ねえ……。お前の『渇きをもたらす魔法』のルーツがまさかアズラカイムにあるとはな」


 魔術は一種の学問だ。この世の理を正常に理解し、新たに理論を組みなおすことでしか発動はできない。


 だからそこに「ない」はずのものを出現させたり、「ある」はずのものを消失させたりするにはかなりの修練と知識を要する。その物質をその成り立ちから理解し、それを再構築・再分解させる必要があるからだ。


 量が多くなれば魔力もより多く必要になるし、魔術でゼロからモノを生み出したり反対にゼロにしたりすることは、最上級魔術師でも困難を極める術だ。


「俺にはよくわからないが、水を出したり消したりってそんなにすごい魔術なのか? お前くらい優秀な魔術師なら、できそうなもんだが」


「別に水を出すとか消すとかくらいなら、それなりに優秀な魔術師ならできるよ。水は構造も簡単だしね。ただ、問題は量だよ」

 


 -----------



 ガルシア王立魔術学校には、世界中から優秀な魔術師の卵が集まる。手前味噌ながら、僕もそれなり魔術の素質があるほうだったので、四年前からそこに通っており、一年前に無事卒業したばかりだった。


 事件が起きたのはその卒業試験の折だった。課題として課せられたのが、「グラス一杯の水を生成する」こと。実は僕はこの「水を生成する」魔術が大の苦手だった。水以外のものは、多少複雑な構成のものでも作れるのに、水だけはどうしても生成できないのだ。


 しかし、ガルシア王立魔術学校の卒業試験は毎年この課題と決まっている。自分だけ試験内容を変えてもらうわけにもいかず、試験当日は絶望に苛まれながら学校へ向かった。


 練習の甲斐もなく、案の定水の生成はうまくいかなかった。同級生たちの多くは、かかる時間にむらはあれど、次々と課題をクリアしていく。制限時間間際になり、会場中が水で満たされたグラスばかりの中、僕のグラスにだけ一滴たりとも水は入っていない。


 もうほとんど諦めていたとき、僕はちょっとした自棄を起こしていた。「こうなったら、最後にここにあるグラスをすべて空にしてやろう」と考えたのだ。


 水の満ちたグラスは同級生の人数と同じく約一〇〇。ちょうどそこそこの大きさの鍋二十個分程度の水がこの会場にある。


 グラスを空にするのは簡単だ。すべての水を蒸発させればいい。温度変化の魔術は初級者でもできる簡単な魔術だ。別にこれで彼らが落第するわけじゃないけど、ちょっとくらい憂さ晴らししたって……。


「アスタルロア! セルジ・アスタルロア!!」


 かすれるような声にはっとして、あたりを見渡した。周りにいた試験監督の先生が全員床に倒れている。ヒューヒューと喉を鳴らしながら、かろうじて息をしているような状況だ。先生方の肌はひどくひび割れ、周りのコップもすべて空になっていた。


 その後大慌てで僕は他の先生を呼びに行き、何とか事なきを得た。先生たちは全員重めの脱水症状を起こしており、回復には少々時間がかかりそうだった。


 現場でひとり無傷だった僕を、学校側はもっとも疑っていた。事実僕も水をすべて蒸発させてやろうと考えていたので、魔術が暴走したことも考えたが、いかんせん先生方の体液まで蒸発させる気は毛頭なかった。


 そもそも、水を一瞬で蒸発させるには、沸点まで水の温度を高めなくてはならず、その段階で普通人間は死ぬ。高温に耐えられないはずのグラスがひとつも割れていないことも、僕自身の無実の証明に役立った。


 その後の調査でわかったことがある。ひとつ目は、水はすべて蒸発したのではなく文字通り「消えた」ようであるということ。そしてふたつ目に、それをやったのがどうやら僕らしいということである。その後の実験により、僕は大衆浴場ひとつ分程度の水であれば、大した魔力の消耗もなく、消すことができることがわかった。




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「あの後の捜査でアスタルロアの先代当主様の奥方が、アズラカイムの大公女だってわかってよかったよな。アズラカイムの公族に伝わる二大魔法、『水をもたらす魔法』と『渇きの魔法』の片割れだって判明したんだから」


「お祖母様はどちらの魔法もお使いになれなかった。血で継がれる魔法らしいが、基本的にひと世代にひとりしか使い手は出現しないらしい。使い手直系の血族でもない僕に、なぜこの魔法が発現したのだろう」


 この件については、僕自身含めこの魔法について誰ひとりとして理解していなかったこともあり、「お咎めなし」ということになった。


 そして、それだけの魔術師でありながら、ただ「水を生成できない」というだけで(今思えばこれも『渇きの魔法』を持つせいだと思うのだが)卒業できないのもおかしな話だとして、僕自身の卒業も認められた。


 ……この件については、仮に卒業試験が筋書き通り僕の落第で終わっていても、同様の理論で卒業が許される予定だったとあとから聞いたので、なんだか複雑な気持ちになった。


「オスカル、手紙を取ってくれ」

「アズラカイム大公からの手紙か? 少し待ってくれ」


 オスカルは素早く立ち上がると、荷物の中からひとつの封筒を取り出した。


「何度読み直しても内容は変わらんだろう?なんでまたわざわざ読み返すんだ」

「やっぱり気になってしまってね……。今まで一度も、うちに手紙なんて送られてこなかったのに、どうしていきなり」


 手紙はアズラカイムの現大公殿下からだった。血縁だけでいえば僕の従兄弟叔父に当たる方だ。内容はシンプルにいえば「お前『渇きの魔法』を使えるらしいな。だったらそのルーツはうちの国なんだから、うちで少し遊学でもしたらどうだ?」というものだ。


「セルジが『渇きの魔法』を使えるってわかったからだろう。ほら、ここにもそう書いてある」


「確かに、そもそもこの魔法はアズラカイム家のみに伝わる魔法だったらしいからね。外の家に発現してしまって焦っている可能性はある。調べる限り、本来使い手の直系ではない僕にこの魔法は発現しないはずだし。……そもそも、僕の前の『渇きの魔法』使い手は誰だったんだろうね……」


「セルジ、お前の悪い癖だ。考えても仕方ないことを、うんうんと考え続ける。そもそも、この魔法について詳しく知りたいから、大公殿下からのお誘いをお受けしたんだろう。それ以外のことは、ひとまずいいじゃないか。……ほら、レモン水まだあるぞ。これを飲んでもう少し休め。今は身体を快復させるほうが大切だ」


 オスカルは僕のグラスに水を注ぐと、さっと立ち上がった。


「俺は夕飯を調達してくるから。何かあれば、必ず『呼べ』よ」

「ありがとう、オスカル。お前も疲れているだろうに、悪いね」

「お前みたいな引きこもりと違って、俺は鍛えてあるから大丈夫だ。いいから無理するなよ」


 オスカルは念押しをして、部屋から出て行った。残ったのは銀の水差しとひとつのグラス。水がなみなみと注がれたグラスを手に持ち、僕は少しだけ念じた。

 一瞬にしてグラスは空になった。次いで水差しの中身も確認する。こちらはまだ水が残っているようだった。


 ほっと安心する。卒業試験当初からしばらくは、この魔法をまったく使いこなせず、周囲のあらゆるものから水分を奪っていた。今では多少コントロールができるようになり、こうしてグラスひとつ分の水を消すくらいなら周りの水分を奪わずにできるようになっている。ここまで来るのに一年近くかかった。


 この魔法は強力だ。おそらく簡単にひとを殺せる。だからこそ、僕にはこの魔法を使いこなせるようになる義務があるし、そのためにもアズラカイムに行かないわけにはいかなかった。正直気になることは多すぎるし、大公殿下からの突然の誘いに戸惑いがないわけではない。


 それでも。


「渇きの魔法」としっかり向き合うと決めた以上、僕がやるべきことはひとつしかないのだ。

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