第三章 湖中に微睡む

第16話 たゆたう水玉

「セルジ様。本日からは魔法を細かくコントロールする練習をいたしましょう」


 壁や天井を形作る水環石みずのわせきの柔らかな碧い光を反射し、翡翠色にきらめく広大な地下貯水湖を背に、マルジャーナ嬢は僕に言った。


「それは……。私が一番苦手なことですね」


「セルジ様は水を干上がらすことであれば、大変大規模であってもできるようになれましたわ」


 マルジャーナ嬢は後ろに広がる貯水湖を手で指し示した。


「この貯水湖、広さで言えば約一万平方マリメレル、深さは約十マリメレルあります。これだけの水を、セルジ様は今となっては一瞬で空にできます」


 僕はこくりと頷く。アズラカイムに来る前から、大衆浴場一個分程度の水では干上がらせることができた。しかし、今ではその量の何十倍もの水を一気に干上がらせることができるようになったのだ。


「無意識のうちに、私やラジャ曹長の水分を避けることができるご様子から、ある程度はコントロール能力も身に付いてきたと言えるでしょう」


 ただ、とマルジャーナ嬢は続けた。


「まだまだ細かなところに関しては、おそらく練習が足りていらっしゃいません。本日からは量より質! 気合を入れて参りますわよ!」


 ふんっ! と鼻息荒く拳を握るマルジャーナ嬢のあまりにも楽しげな様子に、僕は小さくため息を吐いた。




----------------------------------------




 アズラカイムに来て三カ月が過ぎようとしていた。あの日の手合わせ以来特に問題もなく、僕は遊学に勤しんでいた。こうして魔法の先輩でもあるマルジャーナ嬢から教えを請いながら、少しずつこの「渇きの魔法」を使いこなせるようになってきた。


 ……オスカルは、「あの日」からほとんど片時も離れず、僕の傍にいる。きれいな顔が、なんとなくこけた気がする。あのサルマーン閣下の事件が彼にどれだけの衝撃を与えたか計り知れない。


 僕自身も最低限実践レベルで自分の身を守るために、朝の訓練は欠かさず行っている。オスカル曰く「格段によくなっている」とのことだ。最近では訓練時にお互い簡単な防具を付け、強化魔術をかけるようになった。それだけ、僕の剣が彼に届きやすくなったんだと思う。彼から打ち返してくることも多くなった。以前より、だいぶ朝の訓練が楽しくなってきた。


 あれから、サルマーン閣下とはほとんど会っていない。宮中ですれ違っても、軽く挨拶を交わす程度だ。特に手合わせに誘われることもない。


 挨拶をするときの彼の人の好い笑顔を見ると、本当にオスカルが思うほど警戒すべき相手なのか、わからなくなる。……「あの日」の記憶はいまだに蘇らない。サルマーン閣下に殴られた瞬間から、何があったのか何を言われたのか、ほとんど思い出せない。


 ただ、唯一思い出した記憶がある。


 僕を見下ろす、男の冷えた視線。


 混沌とした意識の中で、僕を見つめる男を、僕は見た気がする。冷徹で、さながら僕を見ているようで、もっと先を見ているようなその視線。……状況から見れば、その男はサルマーン閣下なのだろう。でも、僕に日ごろ朗らかに微笑みかける彼の様からは、あの視線を見出すことができない。


 一方で、アズラカイムに来た日の宴のことを思い出す。サルマーン閣下の、ウマル閣下を見つめる視線の冷たさ。彼の本当の姿はどちらなのだろう。



----------------------------------------



 ふわふわと、水の球が宙に漂う。全部で七つ。きれいに円を描く六つの水球に、真ん中にひとつの水球、マルジャーナ嬢はなんてことない様で七つの水球をその形整え、僕の方を見た。


「『渇きの魔法』は目に見えるものではないので、それもあってコントロールがしにくいのでしょう。ここに七つの水球があります。例えば、こちらの中央の水球だけ、干上がらせることはできますか?」


「……やってみます」


 僕は集中して左手を前にかざす。ふう、と手を揺らし、中央の水球を消し去るイメージをした。途端、水球はパチンと音を立てて爆ぜ消える。


 ……中央と、その上と左の水球が。


「ふーむ……やはりまだコントロールが上手くできていらっしゃらないようですね」


「髪を乾かしたりするのはできるのですが……」


 僕は恥ずかしさに頭を掻きながらマルジャーナ嬢の苦言に答えた。


「髪の場合明確に境界があるから、コントロールしやすいのかもしれませんね。……例えば」


 マルジャーナ嬢は持ってきていた七つのグラスに魔法で水を注ぐと、先ほどの水球同様ひとつのグラスを中心に、六つのグラスで囲うように並べた。


「これで中央のグラスだけ、干上がらせてみていただけますこと?」

「わかりました」


 僕は左手を軽く振り、中央のグラスを空にするイメージをする。すると、今度は中央にあるグラスだけ干上がり、残り六つのグラスはなみなみと水を湛えたまま静かに残っていた。


「あ。できました!」

「やっぱりですわね」


 マルジャーナ嬢は満足げに微笑んだ。


「セルジ様は『渇き』という目に見えないもの扱っていらっしゃいます。わかりやすく物体と物体の境界があるものなら、その適応範囲をイメージできるのでしょうが……」


 指を立て、その先に自らの顔と同じくらいの大きさの水球を浮かべながら、マルジャーナ嬢は続けた。


「このように、ゆらゆらと形も境界も不明瞭なものではうまく範囲を掴めないのかもしれませんね」


 彼女の指先に浮かぶ水球は、不安定に形を変える。その水面が揺らぎ、やがて激しく蠢き始める。その蠢きが最高潮に達した瞬間、水球は爆ぜて、ただの水滴となって床に滴った。


「セルジ様、疲労はいかほど?」

「今のところ大丈夫です」


 僕は肩を大きく回しながら答えた。


「それはよかったですわ。体調がきつくなったらおっしゃってくださいね。……コントロールの術を身に付けることで、疲労も溜まりにくくなるとよいのですが」


 マルジャーナ嬢は眉尻を下げながら言う。そう、コントロールともうひとつ。僕の魔法には課題が残されていた。


 魔力の消耗が想定より大きいのだ。


 マルジャーナ嬢はこのように簡単に魔法を操る。今はたっぷりと水を蓄えている貯水湖だが、彼女はそれこそ一瞬でその貯水湖を満たすほどの水を容易に生み出せる。本人曰くより大規模に水を操ることもできるという。


 ウマル閣下が言うに、「ほぼ魔力を持たない」マルジャーナ嬢は「水をもたらす魔法」を用いることで、これらを簡単に成すのだ。魔法の特徴は、このエネルギー効率の良さにあると言ってもいい。



 しかし僕の場合、通常の魔術と比べれば格段にましとは言え、マルジャーナ嬢に比べて魔力の消費が多いようなのだ。ウマル閣下の見立てでは慣れるにつれ良くなるだろうということだったが、一向に改善する様子はない。


 改めてこの状況についてウマル閣下に相談したとき、彼も困惑した様子で考え込んでいた。


「すべて推測になりますが……。あと可能性として考えられるのは……本来必要な規模以上に魔法を用いた結果、魔力の消耗が増えてしまっていること、ですかね」


 つまり、コントロール。と彼は続けた。


「マルジャーナ嬢の規模に対して考えても、よっぽど過剰な範囲で魔法を用いない限りそこまで消耗しないと思うのですが……。セルジ殿は魔力の所有量も平均を大きく上回りますから」


「ただ他に可能性がないと?」


「今の私の知識ですと……。これが限界です」


 ウマル閣下はそう言って申し訳なさそうにしていたが、僕としても試せる可能性はすべて試したかった。どちらにしてもコントロールの面は改善点ではある。修業の目標のひとつとすることは間違っていないだろう。


 ただ……。


 マルジャーナ嬢が、存外、スパルタなのだ。


「……というわけで休んでいる暇はありませんわ! これから私が宙に二秒ごとに水球を出していきます。セルジ様は私の出した水球を順々に消して行ってください!」


「は、はい!」


 僕が身構えるのを見ると、マルジャーナ嬢はにっこりと笑った。


「行きますわ!」


 マルジャーナ嬢はぽん、とひとつめの水球を浮かべる。すかさずそれを干上がらせるが、次の瞬間にはもうまったく違うところに水球が浮かんでいる。それを消して、また浮かんで……を繰り返すうちに、魔力以上に集中力が消耗してきた。


「セルジ様! ほら水球がこんなに残っていますわ!」


 五分後、マルジャーナ嬢は宙に浮かんだ五つの水球を前に、呆れたように肩をすくめた。


「す、すみません……。どこに現れるかわからない水球を目で追うのに必死で……」


 くったりと頭を抱えながら、僕は項垂れた。


「精緻に魔法を使いこなすのには、空間認識能力もとても重要です。それができるようになれば、境界が明確でなくとも、うまく範囲を指定して魔法を使いこなせるようになるでしょう」


 マルジャーナ嬢は、広げた両手のひらに水球を浮かべると、毬つきのようにそれを突き上げながら弄んだ。


「この修業は、私が幼少期、まだ『清流の女神』となる前にしていた修業を模したものです。当時はボールを投げ込む形でやっていましたが、セルジ様はまだ魔法を使える分、修業の成果も出やすいはずですわ」


 マルジャーナ嬢はそう言うと、弄んでいた水球をこちらに同時に投げつけてきた。


 慌てて身構える。彼女の腕力ではおおよそ出ないスピードで水球が飛んできた。おそらく魔法の力を借りているのだろう。


 僕はこのままでは自分にぶつかってくるであろう水球の、右側を消し飛ばした。しかし左側は間に合わず、だらしなく顔面で受け止めてしまう。


「うぷっ!」

「セルジ様!」


 鼻を通って気管に水が入る。噎せ込んでいる僕の背中を、後ろで控えていたオスカルが慌てて撫でに来た。


「ぅ……お、溺れるかと思った……」


「こんな水量じゃ溺れませんわ」


 マルジャーナ嬢はクスクス笑いながら言った。


「少し休憩を入れたら、もう三セット、インターバルを入れながら今の修業をしましょう。大丈夫! 繰り返すうちにきっと慣れてきますわ!」


 愛らしいマルジャーナ嬢の笑顔を、さながら鬼のようだと思いながら見つめる日が来るなんて、彼女に出会った当時の僕に伝えたら驚くだろう。僕はハンカチで顔面の水滴を拭いながら、無心に頷くことしかできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る