第14話 天泣の才
昔から強化魔術は得意だった。絹布を鉄板のように、真綿を巌のように。固くすることは僕には簡単だ。
しなやかさも持たせるようにできるようになったのは魔術学校に入ってからのこと。それからはこの魔術のおかげで、いろいろなことができるようになった。
例えば、今みたいに衣服を鎧代わりにするようなことも。
……とは言え、大公家の方に自ら剣を向けるために、そのお召し物に魔術をかける日が訪れようとは想定していなかった。
「……はい、どうぞ。これで恐らく大丈夫でしょう。首当てまでしっかりとかけました」
ここまで気を使って魔術を使ったのは卒業試験の日以来かもしれない。万にひとつでも僕の剣でサルマーン閣下の肌に傷が付けば……考えるだけで恐ろしい。
「ありがとうございます。……見た目は変わらないものですね」
サルマーン閣下は袖口を覗き込みながら不思議そうに言った。
「……失礼ながら閣下。本気でいらっしゃいますか。私と剣を交えようなど」
手早くささっと自分の衣服と肌に強化魔術かけながら、僕はサルマーン閣下に尋ねた。……もしかしたら、気が変わっていらっしゃるかもしれないという期待を込めて。
「ええ、もちろん! 最近はひとりで訓練することが多くてつまらなかったのですよ。お相手いただけると大変ありがたいのですが」
そんな僕の期待は、サルマーン閣下の人好きする笑顔により潰えたようである。
「かしこまりました。……それでは、お相手よろしくお願いいたします」
僕は諦めて剣を抜いてサルマーン閣下から距離を取った。
「ありがとうございます。それではルール確認といきましょう」
サルマーン閣下は指を三本立てながら言った。
「ルールその一。魔術は厳禁。私は魔術が苦手なので。ルールその二。どちらか一方が降参、または急所に刃が当たった段階で試合終了。勝敗を決すること。ルールその三。……遠慮せず、本気で打ち合うこと。よろしいですね?」
「はい。かしこまりました」
……正直、ルールその三は守れるか確信はないが、僕はとりあえず頷いた。
「ありがとうございます。それでは参りましょう」
サルマーン閣下は腰にぶら下げた三日月刀を二本とも抜くと前後に構えた。
「そろそろ八時の朝礼の鐘が鳴るころです。鐘が鳴ったら始めということで」
「承知しました」
どうやら逃げようがないのだと悟った僕は、致し方なく剣を構える。最低限度閣下を傷付けないことは当然として、できるだけ気持ちよく勝っていただこうじゃないか。
日は訓練を始めたころに比べて随分と高くなったようだ。気づけば気温も上がり、今ではガルシアの夏と同じくらいに暑い。一方で湿気はほとんどなく、ほぼ汗をかかないことも砂漠気候の特徴だ。
しかしそれでもただただ鐘が鳴るのを待つ僕にとっては、十分に身を焦がす暑さだ。じりじりと鋭い日差しは、分厚い訓練着を貫いて肌を焼くほどに強く照り付ける。
いつ鳴るかわからない鐘に目を細めるわけにもいかず、まぶしすぎる陽光に負けないよう、僕は努めて目を見開いた。
どこかで鳥が小さく囀る。サルマーン閣下は幼少からこの日差しを浴びているからか、暑がる様子も眩しがる様子もない。平然と悠然に構えていてしかし隙も無い様子だ。……もしかしたら僕が思っている以上にやり手なのかもしれない。
また鳥が鳴く。チチチチッという愛らしい声に、僕は意識を目の前に向けなおす。鐘は鳴らない。どれだけ時間が経った? 熱い風が僕の頬を撫でる。結っていない髪がばさりと広がる。煩わしい。こんなことなら、髪を結って来ればよかった――。
カーン! カーン! カーン!
朝礼の鐘が鳴った。鐘の音に驚いた鳥が音を立ててはばたく。その音に一瞬、そう、まさしく瞬きひとつ分意識を向けたそのとき。
サルマーン閣下が僕の目の前にいた。
目の前というのは厳密には違う。閣下は腰を低く下ろし、両腕を前でクロスさせて三日月刀をまさに振り切ろうとしていた。その切っ先は、まさしく僕の首を狙っている。
僕は反射的に身を大きく反らす。僕の顎のわずか先を、三日月刀が掠めたのを風で感じた。
僕とサルマーン閣下の距離は三〇〇メレルはあったはずだ。その距離を閣下はこの一瞬の間に詰めたというのか。
そんなことを考えている間もない。身を反らしたこの体勢は早々に立て直さないと、どうぞ攻撃してくださいと言っているようなものだ。
当然サルマーン閣下はこの好機を逃さない。この上なく不安定な足元を狙って蹴りを入れんとしていることを気配で感じる。足元を崩されることは、戦闘において敗北を意味する。そんなことは僕が一番わかっていた。
僕は少しばかり隙ができた閣下の頭を蹴り上げるイメージで、反らした身をそのままに後方転回をして距離を取る。
しかし力強く蹴り上げたはずの脚はサルマーン閣下の顎を捉えることはなかった。彼は僕の脚を蹴り払うことを瞬間的に諦め、バックステップをして攻撃を回避したのだ。
「おやおや……動きがどうも大きいようですね」
止めていた息を一気に吐き出す。距離を取り肩で息をする僕を見て、閣下はつまらなそうにつぶやいた。
「そんな隙の多い動きでは、私の訓練にはまるでなりません。……もう少し、楽しませてはいただけないのですか?」
挑発的な閣下の態度と、今朝方オスカルに言われたのとまったく同じ言葉を吐かれたことで、僕の頭には一気に血が上った。
「……くそ」
僕はサルマーン閣下に向かって駆け、一気に距離を詰める。小さく素早い動き。激情の中朧気ながらオスカルの言葉を反芻し、剣を振るう。
しかしどれだけ打ち込もうと切りつけようと、舞うように軽やかな閣下の剣さばきにすべて弾かれてしまう。
「へえ、細かくも動けるのではないですか。これは楽しい!」
サルマーン閣下は目を見開き、心底楽しそうに笑いながら僕の剣を受け止める。しかし相手は双剣使い。初めは僕の剣をただたださばいているように見えていたが、徐々に僕へ切りつけてくることが多くなった。
僕はその剣撃を左右に回避し、隙ができたその背中や腹に一撃を見舞わんとするが、サルマーン閣下はそれを軽々と避ける。回避間際にまた切り付けようとするので、僕はそれを避け、また攻撃をする。その繰り返しだ。
まるで剣舞のようだった。常に軽やかに動き回るサルマーン閣下の様は、ひらひらと舞う蝶のように捉えどころがない。
剣を弾ければその動きを一瞬止められるかもしれない。しかしそうしようものなら、サルマーン閣下のもう一本の三日月刀が僕に切りかかってくる可能性が高い。
うまく弾けばその隙は大きくなるだろうが、サルマーン閣下の俊敏な動きからは、僕に一太刀浴びさせるだけの時間がこんな小手先の業で生み出せるとは思えなかった。
でも、やるしかない。
サルマーン閣下の鋭い一撃が、右手に握った三日月刀から繰り出される。右払い水平斬撃。僕はその鍔にできるだけ近い部分を狙って、自分の剣の、鍔やや上部を当てた。先ほどのオスカルの動きを思い出す。三日月刀から伝わる斬撃の重みを少しだけ受け止める。刃を伝ってサルマーン閣下のほんの少しのためらいを感じた。
今だ!
僕は自分の剣を右に振り切る。力を存分に作用させたその動きは、サルマーン閣下の剣を大きく弾き飛ばすことに成功した。
三日月刀が宙に飛ぶ。正直ここまでうまくいくとは思っていなかった。しかしこれでサルマーン閣下には大きな隙と戦力低下が生まれた。この好機を逃すわけにはいかない!
僕は飛んでいく三日月刀を目で追うサルマーン閣下の左肩めがけて剣振り下ろす。強化魔法がかかっているとはいえ、肩に鉄製の剣からの一撃を食らえば、おそらく戦闘継続は不可能だろう。
そう、僕は勝利を焦っていた。
だから気付かなかったんだ。サルマーン閣下が飛んでいく三日月刀に向けていた目を、細めながらこちらに笑いかけるその瞬間まで。
キンッという金属音。
次の瞬間。僕の剣は虚空を舞っていた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。僕の手に剣はなく、ジンジンと激しく痺れている。サルマーン閣下の左手にある三日月刀は高く天を向いていた。
状況から見るに、どうやらサルマーン閣下は左手の三日月刀を振り上げて僕の剣を弾き飛ばしたようだ。
僕が大きな困惑を感じているのを尻目に、サルマーン閣下は左手に持った三日月刀の柄で、僕の左のこめかみを殴りつけた。
身体が右に飛ばされる。鈍い痛みが頭部に走り、同時に激しいめまいを感じた。まるで脳みそが強く揺さぶられるような感覚。僕は耐えきれずそのまま地に倒れこんだ。
ザクザク、とサルマーン閣下の三日月刀が地に刺さるのに続き、間もなく僕の剣が地面に突き刺さる音がした。
「今のは少し面白かったです。剣を弾き飛ばすのはそれなりに身体感覚と経験が必要だ。どうやって覚えられたのですか?」
サルマーン閣下の声が聞こえる。しかしめまいのあまり返答ができない。
「まあいいでしょう……。しかしその様ではとてもではないが続けるのは無理そうですね。どうです? 降参されますか?」
「ぁ……」
「おやおや。もはや私が何を言っているかもわからないようだ。……戦闘意思のない者をいたぶるのは趣味ではありませんが……正直幻滅しました。その程度で魔法を扱うとは聞いて呆れる。何を考えているのやら」
僕は何とか顔を上げる。サルマーン閣下がこちらを見下ろしているのが見えた。その目に光はない。
「どうして私にない力をお前が持っている? こんなつまらない人間を生かせなど……。その力があれば、私はあの方からもっと重用されていたはずだ。それを、お前風情の力ないただの人間が……」
サルマーン閣下は左手に握っていた三日月刀を振り上げた。
「今一度還るがいい。次はもっと早く見つけてやる。お前がつまらない人間へと成る前に。真にあの方のためとなる道はこれしかない」
ああ、僕は殺されるのか。ぼんやりとした頭で、目の前にいる男が言う言葉もわからないまま、僕はそれだけを感じた。
「またな」
そう言うとそいつは、僕に剣を振り下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます