第28話 龍退治(下)
その詠唱――いえ、命令は、金色の矢となって、黒(ノア)でできた五本の剣を撃ち落としました。
<秩序>魔術を起動させるには、もっと複雑な詠唱が必要なはずなのに。
けれど私が放ったのは明らかに<秩序>魔術でした。詠唱とも言えない感情の発露に、<秩序>魔術は応えたのです。
そうして遅れて沸き起こってきたのは――心臓が燃えるほどの、あるいは凍り付くほどの、怒りでした。
「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”!」
だから、続けて放った<秩序>魔術の威力が、今までとは比べ物にならないほどだったとしても、驚きはしませんでした。
周囲の黒(ノア)を完全に吹き飛ばし、ベルガモット・キャンベルが思わず後ずさるほどの<秩序>魔術。
「よくも私のご主人様と、元ご主人様を攻撃してくれましたね……! その代償、払って頂きます!」
「何をそこまで激昂しているの。――ああ、元婚約者だったものね、そこの男は。ここで恩を売っておけば、また婚約者に戻れるかも、って魂胆かしら」
「ばかばかしい。他人の婚姻事情なんかより、自分の首の心配をした方が良いのでは? いかにも軽そうな頭ですから、切り落としたらよく転がっていきそうですね」
ベルガモット・キャンベルの笑みが凍り付きます。怒りに燃える赤い瞳を見ても、ちっとも怖くはありません。
むしろあの程度の怒りで私とやりあえると思っている辺り、笑ってしまいそうになります。
「今、大変に無礼なことを言ったという自覚はあって? このメイド風情が! 決めたわ、お前をむごたらしく死なせてやる、この男たちの前でね!」
「吼えるのは自由ですが、私も今、非常に頭に来ていますので。メイドらしからぬ振る舞いについて詫びる気は一切ございませんのであしからず」
「ふ、ふふ……。いいわ、構わなくてよ、身の程知らずをしつけるのは楽しいことだもの……!」
「その言葉、そっくりそのままお返ししましょう。私も大変楽しみです」
大変、のところを強調して言うと、ベルガモット・キャンベルが凄まじい形相になりました。
粘土をぐしゃりと潰したような顔を、滑稽だなと思って眺めていると、私の横に立ったセラ様が前に進み出ました。
「わたしもやりますよ、リリスさん!」
同じ感情にまみれたセラ様の叫び。
いつも穏やかなまなざしのセラ様は、私と同じくらいの怒りをたたえて、ベルガモット・キャンベルを睨みつけていました。
「リリスさんほどかっこよくは言えませんがっ、わたしもとっても怒っていますよ! ウィルさんに、ウィルさんを殺そうとするなんて! そんなの、このわたしが、断じて! 許しませんっ!」
「ええ! 次行きますよ、セラさん!」
「はいっ!」
「”世界の端から伏して乞う。謳うは汝(なれ)が名、寿ぐは汝(なれ)が命。清浄なる心を以て、その穢れを<秩序>に帰さんことを”!」
体の中からあふれ出る金色の魔術陣が、セラさんの魔術によって増幅され、辺り一帯に広がってゆきます。
それは冬鳥がいっせいに飛び立つがごとく、一瞬にして景色を塗り替えていきます。
黒(ノア)という防備をはぎ取られ、剥き出しになったベルガモット・キャンベルの顔が、屈辱に歪みました。
「この……、メイドと修道女風情が!」
ベルガモット・キャンベルはその身を黒(ノア)に溶かしてゆきます。白い肌にぞろりと生えた鱗、コウモリのようないびつな翼は『黒煙の龍』のよう。
――けれど『黒煙の龍』そのものではありません。
いくら五人姉妹の中で最も強いと言っても、しょせんは肉を食べただけの、ただの女性です。
異形の姿に変じたベルガモット・キャンベルを見ても、怖いという気持ちは湧き上がってきませんでした。
「あなたはかつて大聖女と大魔女が戦った『黒煙の龍』ではありません。あなたたちが五つに分けて、食べてしまったから。――ゆえに、臆するに値しません」
「何……ッ!?」
「わざわざ五人に分かれて、弱くなって下さって、ありがとうございます。――”退(ひ)け”」
翼を大きく広げ、威嚇しようとしていたベルガモット・キャンベルは、私の<秩序>魔術を顔面に食らい、後ろにのけぞります。
その隙を狙って、私はより大きな<秩序>魔術を放つべく構えました。
「これで決めます! セラさん!」
「はいっ! 目標はあの黒い柱、ですね!」
空と大地をつなぐ黒(ノア)の柱。そこ目がけて、私はありったけの魔力を込めた<秩序>魔術を放ちました。
「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>で覆え”!」
黒い柱を、白い光が一直線に駆け上っていきます。さかしまの稲光が夜空を貫き、どぉぉおんとお腹に響く音を轟かせました。
次の瞬間、オセロが裏返されてゆくかのように、黒い柱が下から白く染まり始めました。
「このっ……!」
「この柱は楔である、とおっしゃいましたね。ならば、私たちが使わせて頂きます」
ここにアレキサンドリア様の分体はありません。
けれど、黒い柱ほどの魔力があれば――。ここを、結界展開に必要な楔とみなすことは、難しくはありません。
ごうっと風が吹き抜け、私たちの髪をかき混ぜてゆきます。いつの間にかほどけた髪が後方に流れ、よろけそうになるのを、踏ん張ってこらえます。
視界が一気に開けていきます。黒(ノア)の靄に覆われていた大地は、元の静謐を取り戻しています。
「結界が……完成していきます!」
「もう少しです、踏ん張ってセラさん!」
今や白く染まった柱が、首都内の楔と連結してゆくのが分かります。結界の影響が、この地まで及んでいるのです。
そして、柱のまばゆさに目を瞬いているベルガモット・キャンベルは、まさに結界の中にいます。
セラさんが叫びます。
「キャンベル家の姉妹五人、全て結界の中に入りました!」
「はい! ――行きます!」
抵抗は一瞬でした。
五人の姉妹が、ぐ、と押し返そうとしましたが、結界を完成させた私とセラさんの前では、蟷螂の斧にも等しい抵抗でした。
結界内を<秩序>魔術が満たしてゆきます。吹き荒れる暴風はむしろ心地よく、私たちの代わりに凱歌を叫んでくれているようでした。
バチバチバチっと激しい音がして、結界内の黒(ノア)が消えてなくなるのが分かります。
体のほとんどが黒(ノア)でできているキャンベル姉妹も、例外ではなく。
首都にいた四人が、結界の中であっけなく消滅したのが分かりました。
そうして、最後の一人も――。
「ああああああああああ!」
ベルガモット・キャンベルの口から断末魔の声がほとばしっています。
彼女の異形の翼も、鱗も、全てがはがれて消滅していきます。まるでタマネギの皮をむくかのように、身にまとった黒(ノア)をはがされていくのを、私たちは目の前で見ていました。
「どうして、どうして……! 黒(ノア)がなければ生きられないのは、人間だって、同じなのに……! なぜ私たちだけが、どうして、なぜ……!」
そう叫びながら、全てをはぎ取られたベルガモット・キャンベルは、消滅しました。
「……」
周囲には夜の静寂が戻っています。辺りを満たすのは夜の優しい暗闇であって、黒(ノア)ではありません。
互いを傷つけあっていた兵士たちの目からも、黒(ノア)の反応が抜けています。
彼らは夢から覚めたような顔で周囲を見渡していました。
けれどそれは、私たちも同じこと。
セラさんと顔を見合わせても、まだ現実が飲み込めませんでした。
「おわっ、た? これで、私たち、龍を倒したのですか」
「おわり、ました……! 終わりました、やりました、わたしたちやったんです、リリスさんっ!」
セラさんがぎゅうっと私に抱き着いてきます。そのぬくもりがすとんと腑に落ちて、私はようやくその言葉を信じることができました。
私の腕から飛び出したセラさんは、そのまま転がるように走っていきます。
行先は――なんて、考える必要もありません。
「ウィルさん!」
「セラ!」
感動の抱擁。若旦那がセラさんをしっかりと抱きしめているのが、ここからでもよく見えました。
(こうして見ても、やっぱりほんとうにお似合いですね)
「よくやったな、リリス」
「ダンケルク様。お怪我はありませんか」
いつの間にか横に並んでいたダンケルク様は、サーベルを納めて肩をすくめます。
「ウィルのおかげでな。左腕が引きちぎられた時はまずいと思ったが、あのグリフォンを逃がすためには必要だったからな」
「国王陛下の幻獣を、死なせるわけにはいきませんものね」
「違う、グリフォンを逃がしたのは、お前たちを呼びに行かせるためだ。国王陛下の持ち物だろうと何だろうと、使えるものは使う。それが戦場のルールだ」
そううそぶいたダンケルク様は、やがてぷっと噴出しました。
「いやあ、お前の啖呵は良かったな。『いかにも軽そうな頭ですから、切り落としたらよく転がっていきそうですね』なんて、俺も使わせてもらいたいくらいだ」
「えっ」
興奮状態で口走った言葉を、冷静になった頭で聞くと、とんでもなく恥ずかしいです……!
「や、やめて下さい、ダンケルク様」
「メイドらしからぬ振る舞いについて詫びる気はない、というのも良かったが、やっぱり最後の『わざわざ五人に分かれて、弱くなって下さって、ありがとうございます』が煽りとしては最高だったな!」
「あうぅ……。あの、でも、自分でも信じられないくらい、怒っていたので」
「うん。知ってる。ウィルとびっくりしてたよ、お前もあんなにブチ切れることがあるんだなあって」
そう呟いたダンケルク様は、熱烈に抱き合う若旦那たちを、やれやれといった顔で見ています。
「俺としては、あの二人を見ないことをおすすめするがな」
「なぜです?」
「馬鹿なこと聞くな。窮地を共に乗り切った恋人未満の二人が、これからどうするか、なんて――。火を見るより明らかだろう」
ええ、そうでしょうとも。私だってもの知らずの娘ではありませんから、これからの展開がどうなるかくらい、分かっています。
ほら、じっと見つめ合う二人のお顔が近づいていくのが見えます。
盗み見はよくないと、二人の世界を尊重して差し上げるべきだと、分かっていても。
若旦那とセラさんがそっと口づけするのを、私は見ていました。
なんてお似合いのお二人なのでしょう。あのお二人なら、きっとこの先何があっても乗り越えて行けるに決まっています。
「……」
「……リリス?」
「はい?」
「泣いてる」
「……あら」
道理で視界が悪いと思ったのです。
指先でぬぐっても、ぬぐう傍からこぼれ落ちて頬を濡らしていきます。
悲しいとか辛いとかいうより先に、あれほど人前では見せまいとしていた涙が、あっけなくこぼれてしまったことへの驚きが勝っていました。
「涙を流す淑女に対して、かける言葉じゃないのは分かっているんだが――。お前の泣き顔、初めて見た」
「わ、私も、誰かの前で泣くのは……初めてです……」
「お前も怒ったり泣いたりするんだな」
「そ、それはそうです、よ……私を、なんだと……おもっ……」
無作法にも、ずず、と鼻を鳴らしてしまいます。
唖然とした顔で私を見ていたダンケルク様が、慌ててポケットを探り始めます。
「くそ、綺麗な布がない。キャンベル家のクソ女め!」
そう毒づきながら、ダンケルク様は私を優しく抱きしめて下さいました。
「この期に及んで何だが、その、お前の泣き顔を、他人に見せたくない」
「……ふふ。優しい、んです、ね」
ぼろぼろの、煤の匂いがするダンケルク様の胸に顔を埋めていると、ますます涙がこみ上げてきます。
ダンケルク様に甘えながら、セラさんが若旦那を好きだと知った時とは違う、懐かしいような胸の痛みを、じっくりと噛み締めます。
(私の恋心は――ちゃんと、死んだのですね)
若旦那をきちんと諦めることができた。あの人は私のものではないと、心の底から理解することができたのです。
だからこれはきっと、弔いの涙なのでしょう。
失恋したことによる辛さや、悲しみではなくて、別離のために必要な涙。
そう理屈をつけても、やっぱり涙がこぼれるのに変わりはなくて、私はしばらくダンケルク様の胸を借りて泣いていました。
やがて周囲が騒がしくなってきました。指揮官でいらっしゃるダンケルク様を、いつまでも引き留めてはおけません。
そっと離れようとすると、また抱き寄せられてしまいます。ありがたいけれど、今はそんな場合ではありません。
「あの、大丈夫ですから、ダンケルク様。お仕事をなさって下さい」
「やだ。もう少し」
「で、でもほら、イリヤさんの声が聞こえてきませんか? もう行かないと」
「心配だ。また一人で滝つぼに落ちるかもしれないし、そもそも……逃げるかも、しれないし」
やけに弱気なお言葉です。今さら私がどこへ逃げるというのでしょう。
私は腕を突っ張って、ダンケルク様の胸から脱出しました。
手で目元をこするのを、腫れてしまうからとダンケルク様に優しく制されます。
ダンケルク様は、無事なほうの袖の綺麗なところで、ちょんちょんと目じりをぬぐって下さいました。
「ふふ」
くすぐったさに思わず笑みをこぼしてしまいます。
と、その笑みをかすめ取るように、触れるていどの口づけが落ちてきました。
「……ちょっと」
「なんだ。いいだろ別に、したくなったんだから」
「したくなったからするなんて、子どもじゃないんですから」
「俺は腕一本引きちぎられながらも必死に頑張ってたんだぞ? ご褒美くらいくれたっていいだろ。……そりゃあ、まあ、最終的にはお前に助けられたわけだが……」
もごもごとつぶやくダンケルク様。ほんとうに子どものようで、なんだかかわいらしくなってしまって、私は少しだけ背伸びしました。
唇は、さすがに人前では、恥ずかしいので――。頬にそっと口づけます。
ダンケルク様は、鳩が豆鉄砲を食らったようなお顔をなさっていました。
「ご褒美の本番は、お家に戻ってから、ですよ」
「……! 分かった、完璧に理解した、全部終わらせてすぐ家に戻る」
ダンケルク様の名を呼ぶ声が聞こえます。今行く、と叫んだダンケルク様は、ほんとうに名残惜しそうに私から離れていきます。
そうだ、と振り返ったダンケルク様は、迷子になった子どものような顔で聞いてきました。
「お前、俺の家に帰ってくるよな?」
「――はい」
「そうか。うん、そうか、ならいいんだ」
そう言ってダンケルク様は、嬉しさを隠し切れない様子で笑いました。
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