第6話 大聖女の生まれ変わり
朝八時。今日はよく晴れて素敵なお天気です。
ダンケルク様のお部屋にそうっと入り、カーテンを開けてお起こしするのが、一日の最初の仕事でございます。
「ダンケルク様、おはようございます」
「んぐ……」
ダンケルク様の寝起きは大変悪くていらっしゃいます。一度お声かけしたていどでは起きるはずもなく、うめき声だけが返ってきます。
なので、まずキッチンに行って、濃いダージリンを淹れて参ります。
たっぷり二十分ほどかけて用意すれば、ダンケルク様も人並みの言語を取り戻されます。
「ダンケルク様。じき八時半になりますよ。本日はご出勤なのでしょう」
「んー……んん……紅茶は……」
「こちらに」
「……飲ませてくれ……」
「起きていらっしゃるのならご自身でどうぞ」
いつもぴったりとセットした銀髪をぼさぼさにし、とろんと眠たげなお顔で見上げられるダンケルク様。
宝石めいた透明感を持つ緑の目が、甘えたようにこちらを見てくるところは、大きな猫をほうふつとさせます。
「女たちは……飲ませてくれる……」
「お頼みする相手を間違えておいでです。メイドは紅茶を淹れるまでが仕事ですので」
「……いじわるだなお前は」
「こんなに優しくして差し上げているというのに?」
そう言えば、ダンケルク様は喉の奥でくくっと笑いました。
「確かに、紅茶を頭からかけられないだけ、優しいか……」
「紅茶を頭からかけられるようなことをなさったんですか?」
「ま、三股とかしてるとそれなりに、な」
「それは弁護のしようがございませんね……」
器用なお方です。三股なんて、あの善良な若旦那が聞いたら目を回してしまうでしょうね。
ダンケルク様はのそのそと起き上がると、ベッドの上で静かに濃い紅茶をお飲みになりました。眉間の皺がぐぐ、と深くなります。
さりげなくお砂糖の入った壺を差し出すと、ダンケルク様は素直にそれを受け取り、角砂糖をみっつお入れになりました。
「今日は魔術省へ行くのか」
イリヤさんにお会いしてから、私は週に二回くらいの頻度で、魔術省へお邪魔していました。
<秩序>魔術の研究のためです。もっとも私は部屋を掃除するくらいで(そのための魔術なので)、それ見たイリヤさんが、ひたすら研究と称して興奮しているだけなのですが。
「はい。なんでも、聖女さまにお会いさせて頂けるらしく」
「ああ……。俺も面会できると言われていたな。ちょうどいい、一緒に
頷くと、旦那様はカップを置いて、私をしげしげとご覧になりました。
「その前なら時間があるか。ドレス、新調するぞ」
「聖女さまにお会いするのに、ですか? なんだか成金めいて見えません?」
「いや、聖女に会うためではなく――俺の両親に会うために、だ」
「へあっ?」
メイドにあるまじき奇声。ダンケルク様がにいっと笑いました。
「このお屋敷にいらっしゃるのですか!? 大変です! 客間のご用意と、それから晩餐のご用意と……! ご両親はお二人だけでいらっしゃるのですか? 専属のメイドや執事の方もおいでですよね!?」
「落ち着け。遠征の帰りがけにちょっと寄りたいんだとよ。客間は二階の奥の一番でかいやつを使う。晩餐は準備不要。召使は誰も来ない」
「じゅ、じゅ、準備不要ということはないと思いますが!」
じゃあ夜は何をして過ごすというのでしょう!
そう叫べば、ダンケルク様はついに噴き出して、大笑いしました。
「あっはははは! お前がそこまでうろたえるのは初めて見た。いいな。今度からこの手を使おう」
「に、二度と使わないで下さい! ほんとうに、晩餐がない夜なんてあるのでしょうか」
「俺の父はな、狩ってきた獲物を自分でさばいて、自分で調理するのが趣味なんだ。けど召使がいる場でそれはできない。奴らの仕事を奪うことになるからな」
「確かにそうですね」
「だがここにいる召使はお前しかいない。しかもキッチンメイドではない、とくれば、父も存分に腕を振るえるというわけだ」
一理ある、のでしょうか。召使のいない夜など、恐ろしく不便ではないのでしょうか。
「そ、それならばせめて私はお手伝いをさせて頂きますので、新しいドレスなどは不要かと」
「ああ、それでな、ちょっとお前に頼みたいことがあって」
「なんでしょう?」
「お前、俺の婚約者役をやれ」
時が止まりました。誇張でなしに。
「……しょ、正気でいらっしゃいますか?」
「いつもよりずっと頭はさえているぞ。というか前に言わなかったか?」
「婚約者であることを肯定も否定もしない、謎めいたお供として、何度かお店にご一緒させて頂いたことはありますが! 婚約者役というのは今まで承ったことはございません!」
「じゃあ今日が初めてだな。喜べ」
「何を喜べばよいのでしょうか!」
そう叫ぶと、ダンケルク様は意外そうな顔で
「俺の婚約者役など、他の誰にも頼めない、世界でたった一つの貴重な仕事だ。そりゃもちろん、喜ぶべきだろ」
「~~~~!」
なんという唯我独尊なお言葉でしょう。思わずめまいがしてきます。
しかし私も負けられません。
「他に適役の方はいらっしゃるでしょう。イリヤさんとか」
「あの女は一晩ともたん。会って五分で秘密を吐くぞ」
「ああ……イリヤさん、正直な方でいらっしゃいますからね……」
「その点お前はぴったりだ。口は堅いし、年齢も、背格好もちょうどいい。お前はたたずまいも言葉遣いも、上流階級に見劣りしないし」
それに、とダンケルク様はそっけなく付け足しました。
「お前は本心を隠してふるまうのが、得意みたいだからな」
「……そうですね」
(本心を隠すのは、たしかに得意です。……若旦那にはこの気持ちを、もう八年は気づかれていませんもの)
ですが、それとこれとは話が別です。
謎めいたお供の役目はこなせても、ご両親に対して、婚約者として振る舞うというのは、荷が勝ちすぎています。
(それに……杞憂だと分かってはいますし、無駄な心配ですが――若旦那は、ダンケルク様の婚約者役になった私をご覧になって、どう思うでしょうか?
いえ、催眠にかかっているのですから、どう思うも何もないのですが……。それに、私なんて一介のメイドですし、なんとも思わないとは思うのですが! でも! 万が一にでも勘違いはしてほしくないのです!)
ぼこぼこ浮かんでくるどうしようもない妄想を振り払って、私は申し上げます。
「ダンケルク様。大変恐縮ですが、さすがに婚約者役というのは……」
「頼むよ。かりそめでも、母さんに婚約者の顔を見せてやりたいんだ。……もう、長くはないかもしれないし」
私ははっと顔を上げました。ダンケルク様は、少し寂しげに笑っていらっしゃいます。
(も、もしかして、お母様はご病気でいらっしゃるのでしょうか……? それならば確かに、婚約者のお顔を見せて安心させてあげたいですね……)
しばし考えて、私は小さくため息をつきました。
「今晩だけ、ですよ。ほとぼりが冷めたら、適当な嘘をついて撤回してくださいね」
「もちろんだ。ほとぼりが冷めたらな」
そう言うと、旦那様は勢いよくベッドから起き上がりました。
そのまま私の耳元に手を伸ばし、おくれ毛をそっと耳にかけて下さいます。節くれだった指が、そっと頬を撫ぜていきました。
「……? あ、失礼致しました。お見苦しいところを」
「ん。……お前、存外難敵だな?」
「はあ?」
「いいさ。難敵ほど落としがいがある」
そう言えばこの方は軍人でいらっしゃいました。そのようなことを思いながら、私はようやく屋敷の掃除に取り掛かるのです。
*
聖女さまの元へ行く前に、仕立て屋でさんざんもめたのですが、その経緯は割愛致しましょう。
結論から申し上げますと、私が勝利致しました。
ええ、真の武者とは自らの勝利を吹聴しないものですが、メイドですのでお許し頂きたく。
要するに、新しいドレスは、私好みの簡素で動きやすいものになったのです。派手好みのダンケルク様は、この私に負けたというわけですね!
落ち着いたグリーンの色合い、控えめなフリル。足さばきがしやすいように、今の流行りに逆らってウエスト周りに布を集めました。
(でも生地がタフタですから、決してみすぼらしくは見えないはずです)
私はこっそりテイラーの魔術を盗みました。二度も採寸から裁断までを見せてもらえれば、盗むのはそう難しくありません。
人様の技術を盗むことをどうかお許しください。もしダンケルク様にほんとうの婚約者さまがいらっしゃっても、このドレスのサイズをお直しして、お渡しできるようにするためなのです。
メイドが着たものなど、恥ずかしくて着られないと仰るかもしれませんが、なんといってもタフタの、オーダーメイドドレスです。
値段が、すごいのです。
(さすがにタフタは頂戴できません……。外出着でなくとも、せめて部屋着くらいにはお使い頂けるはず)
このドレスは、厳密に言えば私のものではないのです。これはあくまでダンケルク様の婚約者のために作られたもの。
だから全て、私が去ったあともつつがなく進むようにしなければ。
そう思いながら、ダンケルク様と共に、聖女さまの元へ向かいました。
イリヤさんが案内してくれて、私たちは聖女さまのいらっしゃる聖堂へ向かいます。
(魔術省に聖堂があるとは、意外でしたね)
しかし行ってみて分かりました。
この聖堂は、聖女さまがいらっしゃるのに合わせて、新しく作られたものだと。
真新しい木材と漆喰のにおい。積み上げられた石はぴかぴかです。
「すごいな。一から聖堂を作ったのか!」
「聖女さまをお迎えするのに、魔術省の小汚い部屋というわけにもいかんだろう。とはいえ聖女さまは、どのようなぜいたく品もお受け取りにならないが」
(おこがましいですが、なんとなくその気持ちは分かる気がします……)
急に綺麗なものや素敵なものを与えられても、自分はほんとうにそれにふさわしいのだろうかと、思ってしまうのです。
もちろん聖女さまともあろうお方が、ふさわしくない、なんてことはないのですが。
イリヤさんが聖堂の扉を押し開けると、その人はお祈りを済ませて、そっと立ち上がるところでした。
「……!」
小さな体。華奢な手足。小づくりな顔には、化粧を施していないのにも関わらず、つやつやとした唇と、それからきらきら輝くコバルトブルーのひとみ。
小動物のようで、なんだか守ってあげたくなるような、そんなお姿でいらっしゃいます。
けれどその目にはしっかりと意思が宿り、一筋縄ではいかない女性であることを如実に物語っていました。
長い薄茶色の髪は、緩くカールを描いて、聖女さまの白い修道服に垂れ下がっています。
聖女さまはダンケルク様の姿を見、慌ててフードを被られました。
「失礼致しました、聖女様。ご祈祷の時間のお邪魔を致しまして……」
「いっ、いいえ、大丈夫です。あの、急なことで、驚いてしまって」
鈴のなるような軽やかな声。けれど、長いお祈りに耐えられるだけの強さを持った声。
聖女さまは顔をあげ、私たちをご覧になると、にっこり微笑まれました。
「はじめまして。わたしはセラ・マーガレットと申します。スコット・ショアから参りました。何卒宜しくお願い申し上げます」
「俺はダンケルク・モナード。こっちは<秩序>魔術の使い手である、リリス・フィラデルフィア」
「い、いえ<秩序>魔術はそこまで使いこなせていないので」
「まあ、では『大魔女』の生まれ変わり!」
言うなり聖女さまは私に駆け寄って、私をぎゅうっと抱きしめました。
まるで姉妹にするかのような親しげな抱擁に、思わず笑みがこぼれます。いい人です。
「わあっ、ご、ごめんなさい。でも『大聖女』から『大魔女』はそれはそれは優しい素敵な人だと聞いていたものですから!」
「あの、申し訳ございません。私は生まれ変わりではなく、ただのメイドなんです」
「そうなんですか?」
「<秩序>魔術が使えるだけで、その、大した生まれではなく……」
「まあ、わたしだってそうですよ。生まれ変わりではないにしても『大魔女』のことですから、きっとあなたに何かを託したんだわ」
「はあ」
何も託されてなんかいません。そんなすごい人間ではないのですから。
「これから色々質問したりすることもあるでしょうけれど、どうかお許し下さいね。田舎者なんです」
「いえ、とんでもございません。私の方こそ、ご迷惑をお掛けすることもあるでしょうが」
「多分ないです。『大聖女』が何かやらかして『大魔女』に尻拭いをしてもらう、って言うことの方が多かったみたいだから」
「そんなことにはならないと思いますが」
「これ、わたしの勘ですけれど、多分なります。それでも見捨てないでくださいね、リリスさん!」
にっこり、あっけらかんと言われて、私も思わず笑いながら頷いてしまいました。
こんなふうに屈託なく自分を出せるなんて、かわいくて素敵な人です。
「そうだ、わたしが今度<治癒>するのは、リリスさんのお知り合いだと聞きました。しっかり<治癒>しますね!」
「はい、お願い致します」
「ほんとうはもう少しお話していたいんですが、なんだか偉い人とのお茶会に行かなければならないみたいで。また絶対に会いましょうね」
「もちろんでございます」
「またですよ、約束ですからね!」
聖女さまは笑いながら、小さくて暖かい手で、私の手をきゅっと握りました。
はにかんだようなその笑みがほんとうにかわいいのです。
しかも、イリヤさんに付き添われて聖堂から出ていく間も、ずっと手を大きく振ってくださって。
だから私も大きく手を振って、聖堂を去ってゆく聖女さまをお見送りしたのです。
ダンケルク様はそんな私を見て、驚いたように呟きました。
「お前もそんな顔をするんだな」
「聖女さまが素敵な方だからですよ。あの人に微笑まれて、仏頂面でいられる人はいません」
「仏頂面だという自覚はあったわけか」
「ポーカーフェイスとおっしゃって下さい。メイドがにやついていては変でしょう」
「ふむ。メイドなら仏頂面でもいいが、婚約者ともなればそうはいかんぞ」
「婚約者役、ですね」
さりげなく訂正したのに、ダンケルク様ときたら、
「俺の婚約者ならば、すました顔をしていてもかわいらしいが。たまには笑みの一つや二つこぼしてくれても、罰は当たらんだろ?」
「……ご心配ならさなくとも、ご両親の前ではきちんとそれらしく振る舞います」
「そうしてくれ」
ダンケルク様はどこか弾んだ口調で言うと、また私の手を取りました。
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