第5話 催眠
美しいミセス・グラットン。そして、襟がしおれたシャツを着ていらっしゃる若旦那。
綺麗な紅茶色の瞳は濁り、いかにも生気がありません。
(ああ、あんなよれよれのシャツで、ここまでいらっしゃったのでしょうか。それに、どこか痩せられたような。お顔の色も良くないですし、もしやまた研究に没頭して机で眠ってしまわれたのでしょうか?)
ダンケルク様は立ち上がると、親しげに若旦那の肩を叩きます。
「よう。なかなか挨拶に行けなくて悪かったな」
「ああ、ダンか。元気にやってるかい」
「ご覧の通りさ。それにしてもお前、いつの間にこんな花のような美女を嫁にしたんだ?」
ダンケルク様がミセス・グラットンのほうをちらりとご覧になります。ミセス・グラットンはまんざらでもなさそうに微笑み、右手を差し出しました。
その右手をすくいあげて、手の甲にキスを落としたダンケルク様は、椅子に座って動けないでいる私の方を示しました。
「ウィル。ほら、彼女を覚えているか」
「綺麗な方だね。すまない、名を思い出せないんだが……君の婚約者かい?」
その言葉を聞いたとき、私は全身がさあっと冷えるような心地がしました。
よしんば着せて頂いたドレスが美しすぎたとしても、若旦那が私を私だと分からないことがあるでしょうか。
ダンケルク様はさらに笑みを深めました。
「そうであったらいいと思っているがね。……さて、奥方様はこちらへ何の用かな?」
「ミス・ジェリッシュに主人が預けている金庫があったと思いますの。そちらを開けて頂きたくて」
イリヤさんがすっと前に出てきます。その顔は仏頂面といっても良いほどで、ミセス・グラットンが不快そうに眉を吊り上げました。
「私がイリヤ・ジェリッシュだ。預けている金庫だが――型番と種類はご存知かね?」
「主人は今体調が悪く、あまりそういったことで煩わせたくありませんの。主人がいるのですから、金庫を開けて下さいますでしょう?」
「すまないが、私の魔術はそういう器用な真似ができなくてな。型番と種類を、ミスター・グラットンの口から言ってもらえるか」
ミセス・グラットンは不愉快そうな顔を隠しもせずに、
「魔術省の技術顧問といっても、大したことありませんのね。この程度の融通もきかせられないなんて」
「すまないね」
イリヤさんはただ口先だけの謝罪を重ねるだけで、その金庫とやらを開ける気はなさそうでした。
それを見て取ったのでしょう、ミセス・グラットンはつんとそっぽを向くと、お別れの挨拶もないまま、さっさと部屋を出て行ってしまいました。
若旦那は、つむじ風に巻き込まれる枯れ葉みたいに、よろよろとその後を追って行かれます。
私はその後姿を、呆然と見送ることしかできませんでした。
(若旦那が……私だと気づかない? そんなことってあるのでしょうか?)
「――黒すぎるだろあれは!」
イリヤさんが唐突に叫びました。ダンケルク様も苦虫を噛み潰したような顔で、
「完全に操られているな。しかも金庫の中身を出させようとするなど、魂胆が見え透いている!」
「あ、あの……操られているというのは」
「ああ、お前は知らなかったな。あの女――忌々しくもミセス・グラットンの座に居座ったあの女は、有名な女狐だ」
有名な女狐。というのは初めて聞いた言葉です。
「ミセス・グラットンは、隣町の紡績業を営むお家の、二番めのご令嬢でしたよね」
「キャンベル家だな。ローブやマント、魔術に使用する羊皮紙の一部なんかも作っている」
「ま、魔術省は決してあの家の製品を使わんがな」
「なぜでしょう? キャンベル家の品は優秀と街で聞きましたが」
そう尋ねると、イリヤさんはまた嫌そうな顔で、
「優秀なのは催眠がかかっているからだ」
「さ、催眠ですか」
「市販のものには、ごく微かな催眠しかかかっていない。おまじない、自己暗示みたいなものだ。『このローブを着ている間は無敵だ』『このマントをまとった自分は美しい』みたいにね」
「それは……使用者が自覚していなければ良いことではないでしょうが、ものすごく悪いことでもないような気がします」
「普通に買って使う分にはね。キャンベル家の製品を使ったあとに、少し疲れが残る程度だろう」
ダンケルク様が吐き捨てるようにおっしゃいます。
「だが! 軍用品や政府の正規品にそんな機能をつけてもらっちゃ困る。例えばその催眠効果が『味方を攻撃する』ようなものだったら? いやそんなものでなくとも『照準を本人も意図しない範囲でずらす』ような、本人が把握できない厄介なものだったら?」
「……原因を突き止められなくて、困ってしまいますね」
「だろう。催眠が全て悪いというのではない。元々カウンセリング効果もあるし<治癒>魔術に近しいものがあるからな」
「ただあの家はそれを、黙ってやるからたちが悪いんだ!」
イリヤさんは書類を机に叩き付けました。
「おっ、こうやっても埃が舞い上がらないのはいいな――。で、だ。あそこの家はめぼしい名家に娘を嫁がせ、その家の主に催眠をかけているらしいんだな」
「催眠をかけてどうするんでしょう」
「門外不出の魔術を盗むんだよ。今みたいにね」
「あ……今の金庫というのは、そういうことだったのですか!」
家の主人に催眠をかけ、魔術の技術、その神髄を吐き出させる。そうしてその技術を自分のものにしてしまう――。
確かに、根っからの善人というわけではなさそうです。
「しかもその催眠の効果は、一緒にいる時間が長いほど強くなる。強い催眠はかけられた人間を酩酊状態にするから、今のあいつにまともな判断は期待できんな」
「だから若旦那は、私だと分からなかったのですね。結婚のことをお伝え下さったときは、私のことをちゃんと認識されていましたから」
「ま、ドレスの効果もあるだろうがな」
「確かに良いものを着せて頂いておりますが、若旦那は、ドレスていどで惑わされるようなお方ではありません!」
「さて、どうだかね」
いじわるなダンケルク様。一方のイリヤさんはやれやれ、といった調子で言います。
「軍隊の中でも、既に三つの家があの家の令嬢を嫁に貰っている」
「たくさんお嬢さんがいらっしゃるんですねえ。お父さんはさぞやハラハラなさったでしょうね」
「持参金的な意味でか? のんきだな君は……。ともかく、その家の連中も、皆催眠を受けた形跡があるんだ。うち一つの家は、魔術の技術をまんまと盗まれている」
「それはどうして盗まれたと分かったんでしょう?」
「今みたいに、堂々と夫連れで魔術省に乗り込んできてね。また窓口のやつが腑抜けでさ、色じかけなんぞにほいほい引っ掛かってしまったんだよ」
それで、ここの金庫の扱いが厳重になったのでしょう。当然ですね、一度泥棒に入られた家は、戸締りをしっかりとしますから。
「ということは、若旦那の結婚も――」
「十中八九、催眠によるものだろうな」
「で、ですよね! そうでなければあんなよれよれの格好を、自分の夫ともあろう方にさせるはずないですし」
ダンケルク様は面白そうに私を見ています。
「あいつのことをずいぶん心配するんだな? 今はモナード家のメイドなのに?」
「それは、そうですが――。でも、育ての親のようなものですので、ええっと」
「まあ今は見逃してやろう。しかし、次はもっと強い催眠をかけて、ウィル本人の手で金庫を開けさせるかもしれないぞ」
ダンケルク様がそう言うと、イリヤさんがいたずらを思いついた子どものように、ふひひっと笑いました。
「なあに、私もただ手を
「た、確かにその通りです!」
シンプルな話です。間違った状態にあるものを、正しい姿に戻す。そうすればきっと若旦那は催眠から覚め、結婚もなかったことになるかもしれません。
「だが催眠を解除するというのは簡単ではないぞ。まず、催眠をかけた本人が解除するやり方」
「そんなのミセス・グラットンがして下さるわけないだろうな」
「だろ? だから専門の医師による、複雑な作業が必要になるはずだが」
「それくらい知ってる。私を何だと思ってるんだ。催眠を解除するあてがあるから言ってるんだ」
「解除するあて……まさか!」
珍しくダンケルク様が驚いたようなお顔をなさいます。イリヤさんはにんまりと笑いました。
「そう。『大聖女』の生まれ変わりが見つかったのさ」
『大聖女』アナスタシア・フォーサイト。
『大魔女』アレキサンドリア・ゼノビア。
どちらも百五十年前、この国で黒い龍が暴れた際に活躍した、比肩するもののない大魔術師です。
ですが、前にも申し上げた通り、人気が高いのは圧倒的に聖女さまの方です。
<治癒>の魔術は人々からの信頼があつく、また聖女さま自身も広く国民に愛された方でした。
「そんな方の生まれ変わり、ですか! きっとお優しい、素敵な方なんでしょうね」
「優しいのは太鼓判を押すよ。――しかし、大聖女の生まれ変わりと、<秩序>魔術の使い手が同時に現れるとは」
イリヤさんはぽつりとつぶやきました。
「きな臭いな」
「……その聖女さまとやらはここにいるのか」
「いずれここへ移ってくることになっている。今は生まれ育った修道院で、引っ越しの準備をしているはずだ」
「ではそいつの腕前に期待するとしよう」
「うん。なあリリス、君も魔術省で働く話、真剣に考えておいてくれよ」
私は頷くにとどめました。ダンケルク様がすっと立ち上がり、私に手を差し出します。
「見るべきものは見たし、話すべきことは話した。行くぞ」
「はい、ダンケルク様」
私たちはイリスさんにご挨拶をし、退出しました。
来た時と同じように、ダンケルク様と腕を組んで歩きます。
「魔術省で働くのはありだと思うぞ。<秩序>魔術の機構解明は今後の戦争にも役立つだろうし」
「戦争に、でございますか。私の掃除魔術が……」
「もちろんそのまま兵器にするわけじゃないし、お前が戦争に行くわけじゃない。そこは安心して良い」
「いえ。ですが、魔術省で働きながらメイドをするというのは、少々難しいなと考えておりまして」
ダンケルク様は虚を突かれたように私をご覧になりました。
怜悧な美貌が、ふっと笑みのかたちに緩みます。
「そうか。お前の性分はどこまでもメイドか。小物なやつめ」
「こ、小物とおっしゃいますが、ダンケルク様。足元をおろそかにしては、大事も成し遂げられないものですよ!」
「そうだな。いや、お前の言う通りだよ」
ダンケルク様は続けてこうおっしゃいました。
「お前、魔術省で働け。じきに大聖女の生まれ変わりとやらがやってきて、ウィルの催眠を解いてくれるだろう。そうしたらお前も、グラットン家のメイドに戻れるだろうし」
「それはつまり、モナード家のメイドはもう不要ということでしょうか?」
「俺の家なんか掃除しなくてもいい、と言ってるんだよ」
「それはいけません! ダンケルク様が半年後にまたここを発たれるまで、というのがお約束だったはずです」
「それはそうだが。なんだお前、愚直にその約束を守るつもりだったのか」
「だって、そういうお約束でしたでしょう? 一度約束したことは守らなければなりません。もちろん、ダンケルク様がもう私にお暇を出されるというのでしたら――」
そう言うと、いつになく焦ったように、ダンケルク様は首を振りました。
「いや。半年だ、半年の契約のままでいい」
「さようでございますか」
「ああ。うん」
それからは、立て板に水のダンケルク様にしては珍しく、あまりお話になりませんでした。
(なにかお気に障ったのでしょうか。でもダンケルク様でしたら、問題があればそうおっしゃって下さいそうですし。邪推はやめましょう)
若旦那といい、ダンケルク様といい、正直な主人というのはありがたいものです。メイドにとっては、特に。
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