第15話 長い夜(下)

 二階に足を踏み入れた途端、黒(ノア)以外のものが襲ってきました。本気で行く、といったダンケルク様の気合に応えるかのように。


 現われたのは、炭のように真っ黒な犬でした。細い体躯には不釣り合いなほど大きな頭を持ち、不揃いで黄ばんだ歯がびっしりと生えています。

 目は熾火のように赤く燃え上がり、暗闇の中で不気味に光っています。

 ざっと十数対はあるだろう眼差しを受けてなお、ダンケルク様は酷薄な笑みを浮かべていらっしゃいます。


「ああ、ようやく俺を活躍させてくれるようで、何よりだよ」


 最初に襲い掛かってきた犬は、吼える間もなく胴をなで斬りにされました。ひらめくサーベルの白銀が美しい軌跡を残します。

 真っ暗で、犬の体もろくに見えないはずなのに、ダンケルク様は軽やかにサーベルを振るいます。

 容赦もなく、情けもなく、その手つきはもはや事務的と言っても良いほどです。

 ああして殺されるのならば、未練を残すいとまもないでしょう。


(あ、そうか……! あの赤い目を目印に攻撃していらっしゃるのですね!)


 と、気づいた時にはもう、襲い掛かってくる犬は全て切り伏せられたあとでした。

 さすがは軍人でいらっしゃいます。冷静、かつ大胆な身のこなしでいらっしゃいました。


「すごい……。あっという間でしたね」

「多少は汚名を返上できたか。……だが油断するな、次が来る」


 私は再び<秩序>魔術を用い、二階の黒(ノア)を退けます。どういうわけか、先ほどよりも調子が良いようです。


(<秩序>魔術の強さは、黒(ノア)の濃度に比例するのでしょうか? もしくは、新しい呪文を覚えたことで、私自身が強くなった可能性も――な、なくはないですよね)


 二階の長い廊下を、煤払いのように黒(ノア)を追いはらいながら進んでゆくと、廊下の突き当りから耳障りな音が聞こえてきました。

 がり、がり、と何かをひっかくような。爪で何かをこそげ取るような、そんな音です。

 ダンケルク様が手で私を制し、声を上げずに前を示します。


(あそこに何かいる……ということですね)


 ダンケルク様がボウガンを構えます。その先端に魔術を乗せて奇襲をかけるおつもりなのでしょう。

 私は静かに詠唱を始めます。ダンケルク様の合図に合わせて、瞬時に魔術を展開できるように。


「……今だ!」

「――そして全てを<秩序>へ帰せ”!」


 ぶわりと黒(ノア)が退き、壁に明かりがともります。


 照らし出されたのは、一人の女性の姿でした。 

 

「ミス・キャンベル……!」

「こんばんは。良い夜ね」


 長く豊かな黒髪を背中に流し、夜闇のごときベルベットのドレスをまとったミス・キャンベルは、艶然と微笑みます。

 ダンケルク様もまた、とびきりの笑顔を返されます。

 ボウガンの照準を、ミス・キャンベルの心臓の位置に合わせたままで。


「ほんとうに良い夜だ。ですが今晩、あなたをご招待した覚えはありませんが」

「そんなことをおっしゃらずに。だって今日は素敵な日。『大魔女』と『大聖女』の生まれ変わりを、一緒に殺してしまえる日!」

「……やはり、狙いはこの二人か」

「普段は守りが硬いから、ちっとも狙えなかったのよ。けれど今、この場所でなら――容易く殺してしまえると思わない?」


 微笑むミス・キャンベルの目が赤く染まっています。魔性の色を帯びて、彼女の持つ美しさがさらに毒々しさを増しているようです。

 殺す、と言われても不思議と恐怖の感情は湧いてきませんでした。あるいはこれから恐ろしくなるのでしょうか。


 いずれにしても、私の関心はミス・キャンベルの発言ではなく、彼女の姿にありました。

 黒いドレスは恐らく、魔力によって編まれたものでしょう。目を凝らせば、ベルベッドの生地にうっすらと、鱗のような模様が見えます。

 それに目の形も妙です。杏仁型だったミス・キャンベルの目は、一回りほど大きくなって、ぎゅうっと吊り上がっています。


(もう、若旦那の奥様であった頃のお姿ではない……?)


 まるで『黒煙の龍』が乗り移ったかのような姿。私が目をすがめて観察しているのを悟ったのでしょう、ミス・キャンベルはその場でくるりと回ります。

 ドレスに隠れて見えなかった、長くて黒い尾がくるりと回転しました。

 鱗の生えそろったそれはまるで、龍のような。


(これは……。『黒煙の龍』の加護を受けているというよりは、その力を自分の物にしているような――)


 嫌な予感が雷のように私の体を駆け巡りました。


「あなた、もしかして『黒煙の龍』を――食べたのですか?」

「なんだって?」

「うっふふふふふ! そうよ、大正解、やっぱり『大魔女』には分かるのね!」


 ミス・キャンベルは少女のようにはしゃぎながら、もう一度くるりと回りました。


「あんまり美味しくはなかったけれど。でも体の中に力がみなぎってくるの。素敵でしょう?」

「ダンケルク様。キャンベル家のご令嬢は、何人いらっしゃいましたか」

「確か五人――まさか、それぞれが『黒煙の龍』を食べたというのか!?」


 ダンケルク様の叫びに、ミス・キャンベルは微笑みで答えます。

 白魚のような指で数えながら、


「まず頭を切り落とすでしょう? それから上半身を半分ずつ、下半身も半分ずつ。そうすると綺麗に五等分できるのよ。私たち姉妹はいつも平等が鉄則なの」

「それは『黒煙の龍』の指示ですか。それともあなたたちが考えた?」

「私たちが考えて提案したのよ。そうしたらすごく喜んでくれてね。もちろん力は弱まってしまうけれど――。そのぶん体は五つに増えるのだから、問題ないわね」


(では、ダンケルク様が見つけてきた、血のついた鱗は……彼女たちが『黒煙の龍』を食べたあとだったのですね!)


 恐ろしい発想でした。

 あんなけだものを、こんなに美しい人が食べてしまった。そのこと自体も恐怖です。

 けれどそれよりも恐ろしいものは、私たちを待ち受ける龍の存在でした。


 百五十年前、『黒煙の龍』は一体きりだったから、二人の魔術師で防ぐことができたのです。

 ですがそれが五体に増え、それぞれが勝手に黒(ノア)をばらまけるのだとしたら――!


「恐ろしい連中だ。ほれぼれするね!」


 そう叫んだダンケルク様がボウガンを射出します。それは過たずミス・キャンベルの心臓に命中しました。

 一瞬遅れて、矢が爆発しました。あれに巻き込まれて無傷であろうはずがない、という爆発。屋内で使って良いものなのでしょうか?

 

 ですがミス・キャンベルは、爆風の中から無傷で現れました。やはり黒(ノア)をまとっていては、普通の攻撃は通用しないようです。

 その後ろに控えているのは、先ほどのよりもはるかに大きな黒い狼でした。

 前脚の太さといったら、ヒグマのようです。森の王、大地を統べるものの気配を帯びて、狼は低く唸ります。


「これは私のとっておき、エテカという使い魔よ。意味をご存知?」


 ダンケルク様は答えず静かにサーベルを構えました。その先端に、ぼうっと緑色の光が浮かびます。

 

「エテカとは異国の言葉で――”明日は来ない”という意味」


 その言葉を言い終えないうちに、エテカが体を壁にこすりながら、ものすごい勢いでこちらへ突進してきました。


 狼の巨躯にダンケルク様は臆せず踏み込んでいきます。

 前脚を振り下ろす一撃を軽くかわし、剣先に魔術を込めたサーベルで切りつけます。

 ギャウッと狼が鳴きました。ぎらぎら光る狼の赤い目と、ダンケルク様の緑の魔術が交錯します。


 膂力(りょりょく)では大狼にかなわないと見て取ったダンケルク様は、速度と手数でエテカと渡り合っていらっしゃいます。

 その隙を縫うようにして、エテカの巨大な咢が私目がけて開かれましたが――。


「させるものかよ!」


 鮮やかな身のこなしでその鼻づらを蹴り飛ばしたダンケルク様。ありがとうございますとお礼を申し上げる間もあればこそ、またエテカに向かっていきます。

 けれどいかにもダンケルク様らしいことには、ウインク交じりの軽口は忘れていらっしゃいませんでした。


「どうだ? 惚れなおしたか?」

「そ、そんなことをおっしゃってる場合ですか!」

「っと、油断ならない狼だな!」


 その背後でにやにや笑いを浮かべているミス・キャンベルは、ドレスの裾からひっきりなしに黒(ノア)をばらまき、また部屋を汚そうとしています。

 そのたびに廊下がぐらぐらと揺れるのが厄介でした。ミス・キャンベルは、見た目にそぐわぬ体重の持ち主であるようです。


「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”!」


 <秩序>魔術で黒(ノア)を追い払っても、そのそばから、じわりじわりと汚染されてゆきます。

 ミス・キャンベルは楽しそうに、まめまめしく黒い煤を広げてゆきます。

 その中でダンケルク様の動きが少しずつ鈍り始めました。やはり黒(ノア)の影響が体に染み込んでしまっているようです。


 狼の前脚の一撃が、ダンケルク様の腕をかすめます。服ごと肌を切り裂かれ、その柳眉が痛みに歪みました。

 私はとっさにその背中に触れます。


(どうか、この方が何の憂いもなく戦えるように……!)


「”世界の端から伏して乞う。謳うは汝(なれ)が名、寿ぐは汝(なれ)が命。清浄なる心を以て、その穢れを<秩序>に帰さんことを”!」


 周囲が明るくなり、手のひらが燃えるように熱くなりました。その熱を分け与えるように、ダンケルク様の体に魔術陣が染み込んでゆきます。


「助かる! これで存分に戦えるというものだ!」


 ダンケルク様の攻撃が激しくなったのを見、ミス・キャンベルの顔から、初めて笑みが消えました。


「それは――それは、なあに? 知らないわ知識にないわ、そんな呪文は知りません!」

「お前に教えてやる義理はないね! そんなことより、自分の心配をしたほうがいいんじゃないか?」


 そう吼えたダンケルク様がサーベルを構え、呪文を詠唱しました。


「<遅延(ディレイ)><爆炎(エクスプロード)><火炎(ファイア)><焔(フレイム)>!」


 と同時に、エテカの足元が緑色に輝き、凄まじい爆炎を吹き上げました。

 目のくらむような緑色の炎が、落ち着いた内装の廊下ごと、巨大な狼を舐めつくしてゆきます。


 あの巨体を倒してしまうほどの魔術とは! ダンケルク様は武術だけではなく、魔術の方も秀でていらっしゃるようです。

 毛の焦げる嫌な音と共に、狼の外皮がぶつりと破れ、中から黒(ノア)があふれ出しました。


 私は先程唱えた<秩序>魔術の残滓を指先に集め、かつて狼だったものに狙いを定めます。


「廊下を汚すのは許しませんよ!」


 指先からほとばしる赤い光が黒(ノア)を直撃しました。

 風に飛ばされる洗濯物のように追い払われた黒(ノア)を見、ミス・キャンベルがはしたなく舌打ちしました。


「エテカを退けるとはね! まあ仕方がないわ、どのみち威力偵察ではあったし、それに」


 にたり、と蛇のように笑うミス・キャンベル。


「お前の新しい魔術も見ることができたもの。あとはまあ、聖女の生まれ変わりでもさらって行こうかしらぁ?」

「あら、新しい魔術が一つきりだとでも?」


 セラ様をさらう、という言葉を聞いた瞬間、とっさに言葉が飛び出ていました。

 もちろん、嘘です。新しい<秩序>魔術なんてない。あれだけです。


 背中に冷や汗が噴き出るのを感じながら、私はミス・キャンベルに指を向けます。


「そのお体でお試しになりますか? 『大魔女』さえ使うことのなかった、第三の<秩序>魔術を?」


 ミス・キャンベルは首を傾けて私を見ました。その言葉の真偽を確かめるように。

 私は極めて自然な風を装いながら、一歩前に踏み出します。


「”世界の端から伏して乞う――”」

「あっははははは! いいわ、けっこうよ、今日は新しいのを一つ見たもの。次のをお披露目頂くのは、また今度にしてちょうだい!」


 またドレスの黒(ノア)を大きく広げたミス・キャンベルは、廊下の壁をすり抜けるようにして、屋敷から出ていきました。

 彼女が放っていた威圧感が消えうせ、周囲を取り巻いていた黒(ノア)も、これ以上増えることはなくなりました。


 自然と、ため息がこぼれます。

 力の抜けかけた私を引きずるようにして、ダンケルク様は居間に駆け戻りました。


「頼む、無事でいてくれよ――!」


 ダンケルク様の祈りは通じ、居間には無傷のセラ様と若旦那の姿がありました。


(ああ、ご無事だ……!)


 そう思った瞬間、全身から力が抜けていきます。ダンケルク様が腰をしっかり抱えていて下さらなかったら、床にくずおれていたでしょう。


「だ、大丈夫ですか、リリスさん!? どこかお怪我でもしましたか!?」

「いえ、私は無傷です……。ミス・キャンベルがセラ様をさらう、と捨て台詞を吐いたものですから、心配になって……」

「へええ、ミス・キャンベル」


 若旦那は苦いものを口に含んだような顔をなさいました。良い思い出がないのは当然です。


「でもあの人、前より強くなっていないかい? 二人がいなくなってから、黒(ノア)の侵攻が強くなって……。黒(ノア)って、彼女が出したものなんだろう?」


 若旦那の言葉に、ダンケルク様が眉をひそめます。けれどセラ様はにっこり笑って、えへんと胸を張りました。


「でもこの通り、わたしたちは無事ですよ! わたしは<秩序>魔術こそ使えませんが、リリスさんの<秩序>魔術を補強することはできますから」


 それは以前セラ様から直接お伺いしていたことでした。

 『大聖女』が『大魔女』の魔術を増幅させることで、『黒煙の龍』に対抗していた、と。


「もしわたしがもっと上手くサポートできたら、リリスさんの<秩序>魔術はものすごいことになりそうですね。強くなったのはあの人だけじゃありませんよ!」

「そうだ、リリス――。お前いつから三種類の<秩序>魔術を使えるようになったんだ?」


 ダンケルク様のお言葉に、私はゆるゆると首を振ります。


「最後のは――はったりです」

「は? じゃ、俺に使ったのは?」

「ダンケルク様に使ったものは、あの時とっさに浮かんできた呪文です。三つ目の<秩序>魔術は嘘です、そんなもの使えません」

「……ふはっ。なんだ、お前、そういうこともできるんだな?」


 そうだよ、と緩やかに応じたのは若旦那です。

 ダンケルク様の腕の傷に目ざとく気づき、その治癒魔術を展開しながら、


「リリスはこう見えて意外と策士なんだ。うちに来た押し売りを追い返してくれるのもリリスだし、私が詐欺にあいかけたときも気づいてくれたし」

「若旦那がぼうっとしすぎなのです」

「あはは、返す言葉が見当たらない。でも、さすがだね。二つ目の<秩序>魔術を使えるなんて! 『大魔女』だって一種類の魔術しか使えなかったんだろう?」


 セラ様がこくこくと勢い込んで頷かれています。


「はいっ! 一つきりの<秩序>魔術でごり押していたと言いますか、とにかく一種類しか使えなかったことは確かです!」

「そうなんですね……。てっきり、色々な<秩序>魔術を使われていたものとばかり」

「ひょっとしたらリリスさん、『大魔女』を超える魔術師になっちゃうかも! どうやって思いついたんですか?」


 私はちらりとダンケルク様を横目で見ました。

 一つ目の<秩序>魔術は――<秩序>魔術だと分かっていなかったけれど、とにかく、若旦那のために磨き上げられたものでした。


(二つ目の<秩序>魔術は、ダンケルク様を守るために生まれたもの、と申し上げるのは――。メイドの分を超えていますね)


「さあ、どうしてでしょう? 自然と使えていましたので」

「えー! きーにーなーるー! それ絶対イリヤさんに追及されますよお」

「そ、それは困りますね……」


 イリヤさんに質問攻めにされないような理屈を考えているところへ、玄関の扉が激しくノックされました。

 扉の向こうには大勢の人がいるようです。誰かがダンケルク様のお名前を叫んでいます。


「増援だ。少しばかり遅かったがな」


 ダンケルク様は玄関に向かい、応援にやってきた兵士の方々を出迎えています。

 ミス・キャンベルの足取りを探る手がかりがないか、屋敷の中を探索するようです。

 外が豪雨である以上当然と言えば当然なのですが――。皆様の軍靴は泥にまみれています。

 もちろんそれを玄関で拭うようなそぶりは見せません。仕方がありません、急いで屋敷を探さなければならないのですから。


 とは言え、あっという間に泥にまみれてゆく絨毯をただ眺めるだけというのは、なかなか歯がゆい思いが致します。


「散らかった屋敷のお掃除をするのは、明日になりそうですね……」

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