第14話 長い夜(中)
ポケットの中には、昼間イリヤさんと一緒に作った試作品があります。それを指先でつまぐり、黒い靄に向けて叩き付けます。
それは一枚の羊皮紙。私の魔力を込めた赤いインクで描かれているのは、魔術陣のミニチュア版です。
いきおい、威力も低くなりますが――。
「ッ、良かった、効力はある……!」
黒い靄が、手をぴしゃりと叩かれた子どものように後退していきます。そのすきに私は立ち上がり、詠唱を始めました。
「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”!」
部屋中に染み渡る赤い魔術陣。充満していた黒い靄たちは、まるで時を逆回ししたように、扉や窓の隙間から退散してゆきます。
ダンケルク様は素早く立ち上がると、壁際のライティングビューローを蹴り飛ばしました。すると隠し引き出しが現れ、白銀のサーベルが姿を見せました。
サーベルをひゅんっと回転させて構えたダンケルク様は、荒々しい舌打ちを漏らします。
「防御魔術は展開していたつもりだったが。容易くかいくぐられたか!」
もしかして、台所の開いていた窓――あそこから侵入されたのかもしれません。
いえ、今は侵入経路の話はあとです。
「この屋敷を取り囲んでいるようです。あの揺れ……恐らくはあれがきっかけかと」
「お前の<秩序>魔術はどのくらいもつ」
「時間にしておよそ三十分。ただ、黒(ノア)の密度や強度にもよります」
ダンケルク様は眉根を寄せて、
「まずは応援を呼ぶ。ウィル!」
「分かった」
若旦那が何かの術式の展開を始めます。ダンケルク様は居間に隠していた武器をあちこちで取り出し、身に着けながら、
「俺は屋敷内を見回る。この黒(ノア)の出どころを叩かなければ話にならん」
「では私もご一緒します」
そう申し上げれば、ダンケルク様は恐ろしい形相でおっしゃいました。
「駄目だ。許可できん」
「黒(ノア)に対抗できるのは私だけだとお忘れでしょうか」
「だからと言って女を危ない場所に連れて行くわけにはいかない。それに、ウィルとセラ殿が丸腰になる。こいつらの使える魔術は治癒だけで、攻撃はからきしだろう」
「私の魔術は三十分はもちます。その前にことを済ませればいいだけの話です」
「危険すぎる! 幸いここには<治癒>魔術のプロが二人もいる。この二人を守り切れれば、多少負傷しても問題はないわけだから、お前はその守りを頼む」
「ダンケルク様ともあろうお方が馬鹿なことを! あなたが倒れたら、誰があなたの体をここまで引っ張ってくるのですか!」
「――俺の屋敷だ。構造は俺が一番よく知っているし、主人として俺が責任を持つ」
「ならば私も申し上げますが、私はこのモナード家のメイドです。屋敷内の”清掃”は私にお任せ頂くべきです」
ダンケルク様は相変わらずすさまじい形相で私を睨みつけています。
冷静に考えればとても恐ろしいことです。戦場で敵はこんな視線にさらされているのかと、少し同情してしまうくらい。
ですがおひとりで行かせるわけにはいかないのです。サーベルも長剣もボウガンも、黒(ノア)の前には意味をなさないのですから。
「……大丈夫ですよ、ダンケルクさん」
セラ様の静かなお声が援護してくださいます。
彼女は聖女らしく、落ち着いたたたずまいでおっしゃいました。
「この部屋にはもうリリスさんの守護があります。わたしはその守護を増幅させることもできます。だからわたしたちはいいの。ほんとうにリリスさんが必要なのは、あなたのはずですよ」
そうしてだめ押しとばかりににっこりと微笑まれました。全てを包み込む慈愛の微笑みがダンケルク様を直撃し、ぐうの音も出なくなる……はずでしたが。
「俺にはリリスが必要だが、リリスはそうじゃない。そんな状況で連れて行けるか」
「どっ……どれだけ意地を張るんですかあなたは!」
「当然だろうが! そもそも何の訓練も受けてない奴が、のこのこ危険な場所に出るなぞ、俺の職業倫理が許さん!」
そうでした。ダンケルク様は筋金入りの軍人であらせられるのでした。
議論は恐らく平行線、であればもう、強硬手段をとるほかありますまい。
私はさっさと立ち上がると、自分のバッグからあの羊皮紙を十数枚取り出し、廊下へ続く扉に手をかけました。
と、ダンケルク様が犬のようにすっ飛んできます。主人に”犬のよう”などという例えを使うあたり、私もメイド失格ですね。
今回に限って、反省する気はあまりございませんが。
「分かった。……分かったから、絶対に危ない真似はするなよ」
「……」
「はいと言ってくれ、頼むから」
懇願するようなダンケルク様のお顔。やけに気弱なそのお顔がなんだかかわいらしくって、私はふっと笑ってしまいます。
(『俺にはリリスが必要だが、リリスはそうじゃない』なんておっしゃる人を、どうして一人で送り出せると思うのでしょうか)
なんだか無敵になったような気持ちになって、そのまま扉を押し開けて、廊下に躍り出ました。
案の定、黒(ノア)があちこちにはびこっています。まるで手入れのされていない納屋にこびりついた煤のよう。
私たちを見てぞわりとうごめく黒(ノア)たち。
手近にあの羊皮紙――簡易<秩序>魔術と呼びましょう――を叩き付け、黒(ノア)が怯んだすきに、いつもの呪文を詠唱します。
「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”」
赤い魔術陣が展開され、廊下中に染み渡ってゆきます。
黒(ノア)が退いたところに、ダンケルク様が次々に明かりを灯していきました。
見慣れたはずの廊下がやけに他人の家のように見えて、私は何度か瞬きをしました。
「一階から順に探していこう。手早く行くぞ」
「かしこまりました」
私が<秩序>魔術を用い、こびりつく黒(ノア)を打ち払ったあとで、武器を持ったダンケルク様が部屋に踏み込む。
そう言った手順で探索は進められました。一階には奇襲も罠もありませんでした。
安堵のため息をつく私に、ダンケルク様がぴしゃりとおっしゃいます。
「油断するなよ。一階には何もない、そう思った瞬間に奇襲をかけられるかもしれない」
「分かっております」
「どうだかな」
鼻で笑うような物言いに、僭越ながら、かちんときました。
「そんな言い方をなさらなくても良いでしょう。油断するなと、それだけおっしゃって頂ければ理解できます」
「お前は軍人じゃない。どれだけ念押ししても足りないくらいだ」
「子どもではないのです。この家のことだって、ダンケルク様ほどではないにしろ、把握しています」
「大きく出たな。メイドはそこまで偉いのか」
「偉いなどと申し上げてはおりません。しかしメイドを軽んじるのは良い策とは言えませんね」
「なんだ、今日はずいぶん突っかかるじゃないか?」
「それはダンケルク様の方でしょう」
私たちは同時に押し黙ります。雨が激しく窓にぶつかる音だけが聞こえています。
言い争いながらも、私たちは周囲への目配りを忘れていません。
そろりと階段を上がるダンケルク様に、二段遅れて私もついて参ります。
「……三段目、きしみますよ」
「知ってる」
ダンケルク様はきしむ音を遠慮なく立てて、踊り場に立ちました。
私を見下ろす緑の目は、どういうわけだからんらんと輝いています。
「……お前には分からないだろうな。俺が今どれだけ恐怖を感じているか」
「なぜです? まさかダンケルク様が、今さら『黒煙の龍』を恐れるとは思えませんが」
「お前だよ。お前が傷つくことが、お前を失うことが、俺は何よりも恐ろしい。――お前はきっと、そうではないのだろうが」
ダンケルク様らしからぬ卑屈な物言い。私は踊り場に上がって、真正面からダンケルク様の目を見つめます。
「なぜそんなことをおっしゃるのです」
「お前の気持ちはまだウィルにあるのだろう。ならば俺の入る余地などない」
「今はそんなことを話している場合ではないと思いますが」
「どれほどその思いを暖めてきたかは知らないが――。その年月に叶うとも思えん、ならばもう軍人らしく、目の前で派手に散る以外に、お前の心にとどまる方法はないだろう」
どろりと濁る、ダンケルク様の緑の目。私ははっと気づきました。
(黒(ノア)……!)
猜疑心を呼び起こす黒(ノア)が、ダンケルク様のお体をむしばんでいるようでした。
そしてダンケルク様自身も、自分が口にした言葉が信じられないというような、混乱したお顔をなさっています。
(ああ、この方は――寂しがり屋の子どもだった。きっとその部分が黒(ノア)によって増幅されているのでしょう)
私はとっさにダンケルク様の頬に手を当て、その目を覗き込みました。
新しい主人。雇い主。若旦那のご友人、モナード家の当主で、眉目秀麗な軍人。
――そんな記号ではない、この方のほんとうの気持ち。ほんとうの心。私はそれに幾度となく触れてきました。
(この方を大切にして差し上げたい。……きっともう、たくさんの愛を受けていらっしゃるでしょうけど、それでも)
メイドとしては不遜極まりないこの気持ちに呼応するように、新しい呪文が胸の奥から湧き上がってきます。
人の心に潜り込んだ黒(ノア)を解体し、無力化して外へと追い出すこの呪文。
精密に繊細に織り込まれた魔術を、唇に乗せて紡ぐように。それはきっと祈りにも似ているのでしょう。
「”世界の端から伏して乞う。謳うは汝(なれ)が名、寿ぐは汝(なれ)が命。清浄なる心を以て、その穢れを<秩序>に帰さんことを”」
私の胸元からぶわりと湧き出たのは、金色に光る魔術陣でした。いつも詠唱する<秩序>魔術のそれより、さらに複雑さを増しています。
当然のことだ、と一瞬遅れて理解します。
なぜならば私の魔術が干渉するのは、ダンケルク様のお心――不可侵の領域である、人の心なのですから。
金色の魔術陣がダンケルク様のお体に染み込んでいきます。
すると、まるで陽光に暖められた霜柱のように、ゆっくりとダンケルク様のまなざしがほどけてゆきました。
黒く濁り固まった瞳が、いつもの透明感を取り戻し、輝きを帯びてゆくのを、特等席で見つめていました。
「……」
「……良かった。元通りになりましたね」
「……は」
「は?」
「恥ずかしすぎる……。面目ない立つ瀬がない軍人として合わせる顔がない」
ダンケルク様はしゃがみこみ、あー、と唸りながら額を押さえていらっしゃいます。
私もしゃがみこみながらお顔を覗き込むと、その形の良い耳がうっすらと赤く染まっていました。
「どうして面目ないのですか?」
「一人で行くとか息巻いておきながら、結局お前に助けられてる」
「それは別にそこまで恥ずかしがることではないのでは」
「男にはメンツってもんがあんだよ。お前には分からないだろうが」
「でも、ダンケルク様が悪いのですよ」
そう申し上げれば、ダンケルク様はじっとりと私を睨みつけました。待て、と言われた大きな狼みたい。
「『俺にはリリスが必要だが、リリスはそうじゃない』なんておっしゃるんですから。傷つきました」
「……いや、どうかしていたんだ。俺らしくもないな」
「黒(ノア)のせいでしょう。人の心の弱い部分を取り出して、これ見よがしに増幅してみせる」
私は立ち上がります。まだ二階の探索が残っているのです。
ダンケルク様も、膝をぱんぱんと叩いて気合を入れていらっしゃいます。その眼差しに力が戻ったのを見て、少しだけ安心しました。
「それに、そのお言葉は間違っています」
「ん?」
「私にダンケルク様が必要でない、なんて――いつ、誰が言ったのでしょうか」
ダンケルク様がはっとしたような顔になります。これは少し言いすぎたでしょうか。
何か言いたそうなダンケルク様を制して、私は闇に包まれた二階を指し示します。
「きっと敵は上にいます。早くしないと三十分経ってしまう」
「ああ、分かってる」
ダンケルク様は手慣れたしぐさでサーベルを抜きはらいました。
「ここからは――本気で行く」
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