第25話 襲来(1名を除く)
小部屋に入るなり襲い掛かってきた、巨大な狼。
白い牙がぎらりと光るのを見た瞬間、とっさに右に転がって避けられたのは、ひとえにダンケルク様が私に施した軍事訓練によるものでしょう。
あれが直撃していれば命はなかったのではないでしょうか。いえ、若旦那とセラ様が持たせて下さったブローチはありますが。
「チッ。外したか」
舌打ちするのは、長い髪を一つに結わえ、乗馬服を身にまとった一人の女性でした。
ぎらぎら光る赤い目、全身に漂う黒(ノア)の気配――。
彼女もまた、キャンベル家に名を連ねるものでしょう。
そうして彼女が従えているのは、モナード邸でミス・キャンベルが使役していた狼です。
確かエテカと名がついていたかと思います。大きさも醜悪さも、前に見た時と全く変わっていないようで。
「姉さんたちはお前を殺すのにずいぶんと手こずっているようだが、なに、しょせんは女一人だ。この我が瞬く間に片づけて見せよう」
「……あなたは?」
「もう分かっているくせに。我はエリザベス・キャンベル。お前に死を運ぶものだ」
リズ、と先程の二人が呼んでいた人でしょう。彼女の目は冷たく、そして油断なく私の手足に注がれていて、何か武術の経験があることを感じさせます。
――正直に申し上げて、かなり厄介なお相手です。
しかも今回は、先ほどとは違って逃げ出すわけには参りません。
ここから<秩序>魔術を用い、結界を展開する予定なのですから、この方には即刻お帰り頂かねばならないのです。
(ということは、戦うしかない……ということですね)
「どうして私がここに来るとお考えになったのです?」
「侮るな。我らとてただ野放図に黒(ノア)をばらまくような阿呆ではない」
リズ・キャンベルは、細い指をちらりと動かしました。と、私の足元から、小さな蛇のような黒(ノア)がふわりと立ち上り、訓練された犬のように彼女の元へ戻っていきました。
「……なるほど。私にこっそり忍ばせた黒(ノア)を追っていらした、というわけですね。私の<秩序>魔術にも消滅しない黒(ノア)があるとは思いませんでした」
「驕(おご)ったな。我らも<秩序>魔術に多少耐性のある黒(ノア)を生み出すことくらいはできるということだ。――さて、長話は嫌いな性質でな」
彼女は何かに倦(う)んだような顔で、傍らの狼、エテカに目配せします。
エテカは待っていましたとばかりに、黒い涎をダラダラとこぼしながら、再び私に飛び掛かってきました。
狭い小部屋の中でのこと、避けるスペースはほぼありません。
(このままではやられてしまいます……! ッ、ならば!)
私はエテカの鋭い牙を、左手で受けました。
「ッ……!」
鋭い牙が深々と食い込み、骨ごと噛み砕いてしまいそうです。脳天を貫く痛みと共に、じゅわりとこぼれる血の気配を感じます。
胸に仕込んだ若旦那のブローチが、正常に稼働することを祈りながら、私は右手を大きく振りかぶります。
「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”」
私の右手に凝縮した<秩序>魔術は、すらりと流麗な槍の形に変貌していきます。
黒(ノア)を押し固めて短剣の形にできるのならば、<秩序>魔術だって、このくらいのことはできるのです。
そして駄目押しで、二つ目の<秩序>魔術を展開します。
「”世界の端から伏して乞う。謳うは汝(なれ)が名、寿ぐは汝(なれ)が命。清浄なる心を以て、その穢れを<秩序>に帰さんことを”!」
右手の槍が輝きを増し、ぐんっと太く、大きくなります。
二つ目の<秩序>魔術でさらなる力を得た槍は、ものすごい速さで回転しながら、放たれる時を待っています。
私の左手を味わっていたエテカも、その異変に気づいたようで、はっと目を見開きましたが。
「もう遅いです……! これでも食らって下さい!」
放たれた槍は、エテカの脇腹から背中までを深々と貫きました。ドチュッ、という鈍い音がして、エテカの体が宙に浮きます。
床にごろりと倒れたエテカは、舌をだらりとこぼしたまま、二度と動きませんでした。
安堵の息をつく間もありません。ようやく牙から逃れた私の左手は、正直に申し上げて、ひどいありさまでした。
(ほ、骨、まだついてますよね……!?)
ですが、さすがは若旦那とセラ様の治癒魔術です。ブローチが輝き始め、みるみるうちに私の左手が再生してゆくのが分かりました。痛みもありません。
数十秒もすれば、完全に元通りになっていました。凄まじい威力です!
「……ふん。小細工を弄するのは貴様も同じ、か」
リズ・キャンベルが忌々しそうに言います。彼女はそのまま、つかつかと私に歩み寄ってきました。
その手には、黒(ノア)でできた武器ではなく、ぎらぎら輝くサーベルが握られています。
「考えてみれば、何も黒(ノア)を使う必要はないのだった」
「……」
「メイド一人の首ていど、幾らでもはねられるのだからな。さすがに首を落とせば、その奇怪な治癒魔術も発動すまい」
振りかぶられたサーベルを避けられたのは、一回きりでした。
二回めの、横に薙ぎ払うような一撃は、避けるどころか目で追うこともできませんでした。
――間に割り込んできた、アレキサンドリア様がいらっしゃらなければ。
サーベル同士がこすれ合う音がすぐそばから聞こえてきます。アレキサンドリア様は呵々大笑しながら、
「残念、そうはさせないよ!」
「お前……誰だ? 情報にはなかった。魔術省の人間ではないな?」
用心深いのでしょう。リズ・キャンベルは後ろに飛び退って距離を取りました。
アレキサンドリア様は不敵に笑いながら、ひゅんっとサーベルを回転させます。その手つきの見事さと言ったら、ダンケルク様にも比肩するほどです。
「さあて私は誰だろう? そう気にすることはない。いずれ消えゆく影法師、お前に踏みしだかれる塵芥(ちりあくた)も同然だ」
「――お前、もしかして、」
リズ・キャンべルが言い終えるより早く、アレキサンドリア様が打ちかかって行きました。
敵が黒(ノア)を出して身を守ろうとするのを見、すかさず<秩序>魔術を放って援護します。
「ありがとリリス! さあさあどうした、キャンベルの娘よ? 私など一瞬で切り伏せられるだろうに?」
「……ッ、生き汚い魔女め! お前は生まれ変わることができないはず!」
「そうだよ、お前が食った龍のせいで、ねっ!」
鋭く切り込むアレキサンドリア様。からくもそれを受け止めたリズ・キャンベルは、きっと前を見据えて態勢を立て直します。
二人はしばらく切り結んでいました。互角のように見えた戦闘は、けれど、徐々に変化を見せていきます。
アレキサンドリア様の動きが鈍り始めたのです。
(当然です、あの方は分体……! 残った魔力で無理やり体を動かしている状態なのですから)
どうにかしなければと思うのですが、せいぜい<秩序>魔術をけん制に放つくらいで、ろくな助力もできません。
ですが、劣勢であるはずのアレキサンドリア様の顔は、なぜかとても明るいものでした。
切り傷をたくさん作りながら、押し込まれて苦しげに息を吐きながら、それでも決して俯くことはありません。
(ああ、きっとこの方は、こうして戦場に立ち続けてきたのでしょう)
<秩序>魔術を構築し、大聖女さまと共に、夫を殺した『黒煙の龍』から都市を守ったこの方は。
どんな時だって諦めずに敵を見据えていたのです。
(忍耐。強靭な精神力。……なるほど、確かに<秩序>魔術は人を選びます)
こんな時であるのに、私はこの方の後継者になれたこと――<秩序>魔術を使うに値する人間であることを、少しだけ誇らしく思いました。
勝利を確信した様子のリズ・キャンベルでしたが、その顔がはっと歪みます。
その理由が、私にはすぐ分かりました。
「足音……! アレキサンドリア様、援軍が来ています!」
「チッ」
リズ・キャンベルはサーベルをおさめると、黒(ノア)をマントのように身にまとって、疾風のように部屋を出ていきました。
私はアレキサンドリア様に駆け寄ります。小さな切り傷だけならよいのですが、脇腹に深手を負っているようです。
けれど出血というものはないようでした。ただバターに傷をつけたような跡だけが残っています。
「大丈夫ですか、アレキサンドリア様!」
「へーきへーき。どのみち分体だから、死の概念は私から遠い。機能停止するだけだから心配しないで」
「機能停止なら結局死んでしまうということになりませんか?」
「まあまあ。それより、援軍はまだかな?」
曖昧にごまかしたアレキサンドリア様は、戸口に視線をやります。
現れたのは護衛兵をぞろりと引き連れたイリヤさんです。
「やあリリス! いよいよだねえ! さっきキャンベル家のやつとすれ違って逃げられたんだけど、大丈夫だった?」
「イリヤさん! 良かった、合図がちゃんと届いたんですね」
「今日は新月だからね。花火はよく見えたよ。ダンケルクたちも動いている」
「ええ。私たちも仕事に取り掛かりましょう」
「おうとも」
イリヤさんが技官の方々に指示を飛ばし始めました。
「魔力測定開始。他七か所のポイントとは連携取れてるか?」
「測定開始了解です。はい、首都内のポイントには既に人員配置済み、そちらでも魔力測定開始中です」
「よし。<秩序>魔術の導線確認」
「確認完了済みです。他の七か所の確認を待ちます」
「それからセラ殿の到着も待たねばな」
「護衛と共に既に出発したと連絡がありました。もうじき到着されるかと」
打てば響くように返ってくる技官の方々の言葉に、プロ意識を感じます。
と同時に、少しだけ緊張してきました。作戦を軽くおさらいしておきましょう。
まず、キャンベル家の姉妹が首都にやってきたことを確認。
彼女たちの体から湧き出る黒(ノア)を消滅させるため、アレキサンドリア様の文体を楔として、セラ様と私が<秩序>魔術の結界を展開。
そうして『黒煙の龍』を取り込んだ、キャンベル家の姉妹を滅ぼす。
(私がしくじれば、作戦全体がとん挫する……。頑張らなければですね!)
むん、と気合を入れた時、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきました。
小部屋に駆け込んできたのはセラ様です。これで最後のメンバーが揃いました。
「わーっ! 遅れてごめんなさいっ! もう作戦始まっちゃってます!?」
「セラ様! いえ、これからですよ」
「すみません~……。うたたねしてたら花火に気づくのが遅れちゃって」
やけに髪の毛がぴんぴんと跳ねているセラ様は、私を見てにっこりと笑いました。
その微笑みを見ていると、力んだ体から程よく力が抜けてゆくようです。
(そうでした。一人ではないのです。セラ様も、もちろんイリヤ様や若旦那や、ダンケルク様もいらっしゃるのですから)
「がんばりましょーねっ、リリスさん!」
「はいっ」
二人でぐっと拳を握りしめていると、技官の方の一人が声を張り上げました。
「イリヤさん! 黒(ノア)の反応が増大中! 魔術省近辺を中心として、放射状に広がっていきます」
「おいでなすったな! リリス、セラ、配置についてくれ。――観測手! 黒(ノア)をばらまいているのは、キャンベル家の五人姉妹で間違いないな!?」
観測手は一人の柔和そうな女性でした。眼前で金色に瞬く魔術陣を、目を細めて睨んでいます。
あの魔術陣ごしに、魔術省近辺の様子を観測していらっしゃるのでしょう。初めて見る魔術でした。
「――ご報告申し上げます。キャンベル家の姉妹には違いないでしょうが、今観測できているのは……四人です」
「一人足りない、だとォ!?」
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