第24話 囮
そんな一人暮らしを三週間も続けた頃でした。
魔術省での勤務を終え、イリヤさんの馬車に同乗させてもらった私は、街中の店の前で下ろしてもらいました。
この時間なら、修繕に出していた帽子を引き取りに行けそうだったからです。
帽子屋は私の隠れ家から徒歩三分の近さなので、新鮮な空気を吸いがてら向かうつもりでした。
今日は新月。街灯のガスランプが、やけに小さく見えます。
夜でも人通りがちらほらあるはずの道に、私の靴音だけが響いています。
(……妙ですね。静かすぎる)
それに夜霧がひどく冷たい。足元からじんわりと這い上がって、私の体を凍えさせるかのようです。
石炭のような匂いが鼻をくすぐります。
(……)
耳をそばだてながら足を速めます。まとわりついてくるような冷気がいっそう強さを増し、眼前に黒い靄のようなものが現れました。
「黒(ノア)……!」
それは徐々に人間の女へと形作られていきます。それが誰であるかは、もはや考えるまでもなく。
にやにや笑いながら私を見ているのは、もちろん、ミス・キャンベルでありました。
「ごきげんよう。哀れで一人ぼっちな<秩序>魔術の使い手さん」
「こんばんは」
「まずはお見舞いを! 婚約破棄されたんですってねえ! そうなのよ、前から思っていたの、どうしてあんな血気盛んで眉目秀麗なモナード家の跡取り息子が、あなたみたいなみすぼらしいメイドと婚約するんでしょう、って」
「同感です」
その点については、ええ、私もなぜだか分かっていません。永遠の謎と言えましょう。
「ダンケルク・モナードの婚約者、っていう身の丈に合わないマントを脱げば、あなたなんて地べたを這うねずみみたいなものよね。そうして家を追い出されて、こんなところで一人暮らしですもの。笑っちゃうわ」
「ええ、ほんとうに」
「ま、張り合いがないのね。泣いたり怒ったりなさいよ」
(この分だと、罠であることには気づいていない……でしょうか?)
何も言わずにたたずんでいる私は、いたぶる獲物としては落第点だったようです。
ミス・キャンベルは少しつまらなさそうに舌打ちをすると、気を取り直して、芝居がかったしぐさでぐるりと回転しました。
「でもそんなの気にしないわ! 今宵はとっても素敵な夜。なぜって――」
靄がぎゅっと凝縮され、短剣の形に変貌します。悪意と黒(ノア)を押し固めた、禍々しい武器。
それらがざっと十数本、私に切っ先を向けて空中に浮いています。
「あなたを殺せる夜だもの」
魔性の目が殺意を帯びてぎらりと光ります。
今まで向けられたことのない殺気に、足がすくみそうになるのを叱咤しながら、私は詠唱を叫びました。
「”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”!」
襲い来る黒(ノア)が霧消します。けれどミス・キャンベルは、既に私の<秩序>魔術を見たことがあります。
前方の黒(ノア)の剣に気を取られている間に、足元をざあっと黒(ノア)の流れが駆け抜けていくのが分かりました。危うく転ぶところだったのを、踏み留まって態勢を立て直します。
「ね、ね!? 私も腕を上げたでしょう!?」
叫びながらなおも黒(ノア)を放ち続けるミス・キャンベル。禍々しく光る赤い目は、溶鉱炉を覗き込んでいるかのようです。
「あの滝つぼで死ななかったことを悔やみなさい! お前はここで、一人で、死ぬの」
「お断わり申し上げます。――”三度唱えるは我が名、二度唱えるは主の御名(みな)、そして一度唱えるは魔が名――静謐よここに、そして全てを<秩序>へ帰せ”」
足元の黒(ノア)を<秩序>魔術で吹き飛ばした、その瞬間。
「!?」
蛇のような黒(ノア)が背後から私の体に巻き付き、自由を奪います。
あっという間に全身を拘束したそれは、仕上げとばかりに私の口にもぐるりと巻き付きました。
呪文の詠唱を封じたつもりでしょう。――どうか、これで封じたと思い込んでくれれば。
そう願いながら私は周囲を観察します。
「捕らえたわよ、アーミア姉さん!」
初めて聞く声が響きます。その女性は油断なく私を睨みながら、ミス・キャンベルの横に並びました。
黒髪を短く切った、頭のよさそうな女性です。油断なく動く瞳は、彼女の姉と同じく、邪悪な赤に染まっています。
(恐らく、キャンベル家のご令嬢でしょう……! ようやく二人目のご登場というわけですね)
「ああ、シーラ。別にあなたが来なくても大丈夫だったのに」
「何言ってるのよ、二回も失敗したくせに。リズもエミリーも心配してきてくれたのよ」
「へえ。で、ベルガモットはあいかわらず遅刻かしら?」
「ベルらしいでしょ。でも今向かっているそうよ」
私は必死に名前を数えます。ミス・キャンベルの名前はアーミア。ショートカットのこの人はシーラ。
そうして他の姉妹たちは、リズ、エミリー、ベル。
(イリヤさんから事前に聞いていた名前と合致しますね)
つまり、ここにキャンベル家の五人姉妹が、揃いつつあるということです。
(上手くおびき出せたということでしょうか……? もう少し何か喋って頂けるとありがたいのですが)
ミス・キャンベルは、悪戯が成功した子どものようににんまりと笑います。
「いつも遅刻のあの子にしては上出来じゃない。いいわ、ちょうど月のない夜だし――始めましょうか」
私を拘束する黒(ノア)の濃度がいっそう濃くなり、締め付けが強くなります。
と同時に、体から力が抜けていくのを感じます。
ミス・キャンベルは再びあの黒(ノア)でできた短剣を空中に出現させます。
その数はきっと、百本以上。
月のない空にくろぐろと浮かぶそれは、悪意にまみれて私を狙っていました。
「さようなら。見捨てられて一人で死んでいく、みじめでちっぽけなメイドさん?」
黒(ノア)が放たれかけた瞬間、私は心の中で<秩序>魔術の詠唱を走らせました。
(”世界の端から伏して乞う。謳うは汝(なれ)が名、寿ぐは汝(なれ)が命。清浄なる心を以て、その穢れを<秩序>に帰さんことを”)
体の中から金色の光があふれ出します。
私を拘束していた黒(ノア)が、暴風にもてあそばれる枯れ葉のように散り散りになり、百本もの短剣はガラスのように打ち砕かれました。
破片のように飛び散る黒(ノア)の向こうで、驚愕に歪むキャンベル姉妹の顔が見えます。
私は踵を返すと走り出しました。
待ちなさい、という声と共に放たれる黒(ノア)を蹴散らし、夜闇に靴音を響かせます。
(落ち着いて、落ち着いて……! まずは『連絡』です!)
私が一番恐れなければならないことは、このままむざむざやられてしまうこと。
姉妹たちの来襲を誰にも伝えられないまま、死ぬことです。
太もものガーターベルトに差していた光線銃をさっと抜き去ると、空に向けて発砲します。
ヒュルルルル……と上空に打ち上がった緋色の花火が、夜空で弾け、決められた人の元へ駆けてゆきます。
――この花火を合図として、私たちの作戦は始まります。
「あの女、合図を送ったわ!」
「構うものですか、今すぐに殺して! あいつさえ殺せば全て楽になる!」
二人が黒(ノア)を用いて追撃してきます。これは予想できたこと。
私は路地に飛び込みます。パブや八百屋の裏手に面するこの道は、狭くて臭くて物があふれているけれど、だからこそ格好の逃げ道です。
木箱の、半ば腐りかけた林檎の下から簡易<秩序>魔術術式を取り出し、路地を抜けます。
足元に絡みつく黒(ノア)をその術式で引きはがしながら、ひたすらに走って、キャンベル姉妹を振り払います。
時折物陰に隠れながら、しばらく逃避行を繰り広げた私は、黒(ノア)の追跡がないことを悟り、次の行動に移りました。
私の隠れ家からさほど離れていない場所に戻ります。慎重に、姉妹の影に注意しながら。
誰もいないことを確かめた私は、こぢんまりとした店の裏手に繋がる階段を下り、そこの突き当たりを思い切り蹴り飛ばしました。
もろい粘土で作っていた壁はあっさりと崩れ落ち、隠し通路が現れます。手のひらに炎を灯しながら、暗い道を下へ下へと進んでいけば――。
(アレキサンドリア様の分体がいらっしゃる場所へ辿り着ける)
分体の元へたどり着くことができれば、作戦を開始できます。私の打ち上げた花火を見て、既に他の皆さんも各自の仕事に取り掛かっているはずですから、急がなければなりません。
――そう、私とイリヤさんは、ただぼうっと来襲を待っていたわけではないのです。
キャンベル家の姉妹が襲ってきた時にどうすべきか。どう動くべきか。
そのパターンを数十通りも考え、練習し続けていたのです。ですから、この辺りの地図は全て完璧に頭に入っていますし、八か所ある分体の場所も正確に把握しています。
(落ち着いて……! 絶対に仕損じてはならないのですから)
今度こそ、かならず龍を滅ぼす。
その決意を胸に、通路を下りてアレキサンドリア様の分体がいらっしゃる小部屋に足を踏み入れた途端――。
大きな狼が私めがけて襲い掛かってきました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます