第11話 晴天の霹靂(下)
「ッ、ダンケルク様、んっ」
逃れようと顔をそむけても、腰に回った手がそれを許してくれません。押し付けられる体温の高さにめまいがしそうです。
やがて、ぷちゅ、と小さな水音を立てて離れていった唇は、私の紅の色を移して赤々と濡れています。
「お前が好きだ、リリス」
「なッ……にを、おっしゃって」
「俺としたことが、婚約者『役』などと生ぬるいことを言った。ほんとうの婚約者になってくれないか」
「なぜ、なぜです」
怒涛の展開に頭が追い付きません。
「か、からかっていらっしゃるんですか」
「俺は伊達や酔狂で、メイドにドレスを買い与えたり、婚約者のふりなんかさせない。親にも紹介しない」
ダンケルク様の声は熱を帯びています。先程の模擬戦闘で昂ぶった――と言うにはあまりにも、悲壮感が滲んでいます。
柳眉を切なげにひそめたダンケルク様の顔を見れば、からかう気なんてないことくらい、分かっています。
「でも、私は」
言いかけた言葉をすんでのところで飲み込みます。
私の片恋は、誰にも吐き出してはならないもの。けれどダンケルク様は、私の努力を簡単に無に帰してしまいました。
「ウィルのことが好き――だろ」
「ッ、なんで、どうして」
「見てりゃ分かる。簡単なことだ。先程の練兵場で、お前は太っちょの医務官にばかり目を取られていた」
見られているものですね。私は思わずため息をこぼしました。
「――どうして、黙っていて下さらないんですか。伝えるつもりのない気持ちを暴いて楽しいですか」
「楽しいわけがあるか。俺の惚れたおんなが別の男に惚れてるという事実は耐え難い。耐え難いが――しかしどうすることもできまい」
今のは現状確認だ、とダンケルク様はおっしゃいました。そう言いながらも、まるで獲物を捕らえる肉食獣のように、こちらをじっとうかがっています。
「ウィルの催眠は解けた。あいつの家は今メイドの一人もいない状態で、今すぐにでもお前に戻ってほしがっている」
「……」
「だが俺もこのままお前を帰したくはない。お前を手放すのはいやだ。耐えられない」
「そ、その言い方はずるいです」
まるで子どものような、聞き分けのない言い方に思わず抗議すれば、ダンケルク様はしれっとおっしゃいました。
「それも作戦の内だ。なあリリス、こういうのはなりふり構わない者が勝つんだ。俺はお前を手に入れるためなら道化にも子どもにもなるぞ」
「どうしてそこまでなさるのです。ダンケルク様ならば、お家柄の良い、美しい女性をいくらでも口説けるのに」
「なんだ、覚えていないのか? 俺は言っただろう、お前の好きなところ」
覚えていますが、それを自分の口から言うのは嫌でした。
(だってなんだか、自意識過剰じゃありませんか? あんな――演技のために仕方なく口にした言葉を、覚えているなんて)
それを見て取ったダンケルク様は、どこか厳かな口調で、
「あれは嘘じゃない、本心だ。俺はお前の辛抱強いところと、俺に厳しいところと――辛いことがあっても人前で泣かないところが好きなんだ」
「……一番最後におっしゃったことは、意味が分かりませんが」
「ああ。俺はお前が隠れて一人で泣いているところを見たことがあるからな」
「ッ、いつです!?」
叫んでから、しまった、と思いました。ここは否定すべきでしたのに。
案の定ダンケルク様は、口の端を微かに吊り上げて、笑みのようなものを浮かべました。
本気になったダンケルク様のお顔は、正直に申し上げて少し怖いですが、その代わりとびきり美しく見えます。
「――ウィルの両親が、戦場で消息不明になった、と速達があっただろう。二年前の寒い日のことだ」
「……」
「あの日俺はウィルに会いに来ていた。目的は、あいつの家にある稀覯本を読むためだ。いくつか確かめたいことがあると言えば、ウィルは――両親の知らせを受け取ったばかりなのに、俺を図書室へ通してくれた」
「……なるほど」
読めてきました。なぜって、図書室は私の”避難場所”だったからです。
グラットン家の図書室は、そこそこの大きさがあります。本棚が軽く三十は並び、書見台や大きな作業机も置いてある、恐らくお屋敷のなかで一番広い部屋です。
だから、先客がいたとしても気づけないのですが、あの場所に入り浸るのは若旦那くらいのものでしたので、だいたい誰もいないのです。そう思って、たかをくくっていました。
「俺が本を閲覧していると、足音を殺してお前が入ってきた。紙みたいに白い顔のまま、奥の方の書見台の前に行った。俺は本棚の隙間からお前の後姿を覗ける位置にいたが、お前はそれに気づいていないようだった」
「……あの時はとにかく、廊下で泣きださないようにするのに必死でしたから」
「そうなんだろうな。俺の角度から、お前の顔は見えなかったが――。肩が震えているから、たぶん、泣いているんだと思った」
ダンケルク様は静かに続けます。
「声も漏らさずに、ただ肩だけ震わせて――。あんまり静かに泣くから、俺がいることを気づかれてるんじゃないかと思ったくらいだ。一人なんだから、もっと派手に泣けばいいのに、と思いながら、なぜだかお前から目が離せなかった」
「……癖なんです、たぶん」
「だろうな。ともかくお前は少しの間、泣き続けて、それから唐突に顔を上げた。顔を乱暴にこすって、それから何事もなかったかのように図書室を出て行った」
泣いていたところを細かく描写されるのは、いたたまれなさと気恥ずかしさがすごいです。泣き顔を見られなかったのがせめてもの救いでしょうか?
ダンケルク様は私の顔を覗き込んでおっしゃいました。
「その後図書室を出て、ウィルに挨拶に行ったら、お前はすました顔で立っているじゃないか。俺は驚いた」
「切り替えの早い、冷淡なおんなだとお思いになったでしょう」
「ばか、違うよ。このメイドは、人前では歯を食いしばって、平気な顔をして――それで一人になったら、あんなふうに静かに、声もあげずに泣くんだな、と思ったんだ」
たぶん、そこで好きになった。
囁くようにおっしゃったダンケルク様は、ふいと体を離しました。熱いくらいの体温が遠ざかるのを、少しだけ寂しく思ってしまいます。
(この人は、私が考えるよりもずっと――繊細で、気配りのできるお方なのかもしれません)
ダンケルク様はにやりと笑い、おどけた様子でおっしゃいました。
「もちろんそれだけじゃないがな。酔っぱらったお前も大変にかわいらしかった」
「だっ、そ、それは! お忘れください!」
「いやだね。にこにこ笑いながら鹿の血まみれの解体場所に踏み込んでいって<秩序>魔術を使った時なんかもう、ほんとうにかわいかったぞ」
「もうやめて下さいぃ……」
顔が真っ赤になっているのを自覚しながら言えば、ダンケルク様は喉の奥でくっくっと笑いました。
そのお顔がいやに優しいので、まっすぐに見ることができません。
それに気づいているのかいないのか、ダンケルク様はおどけたしぐさで両手を広げました。
「ともかく、だ! 俺はお前の弱みに付け込んで、俺の家に引き込んだ。婚約者まがいのこともさせた。その借りは返そうじゃないか」
「借り……?」
ダンケルク様はにんまりと不敵な笑みを浮かべました。
「お前も嬉しい、俺も嬉しい、そしてウィルも嬉しい、三方よしの名案を思い付いたんだ」
*
若旦那は、荷物をたくさん持って、モナード家の門をくぐりました。
屋敷に足を踏み入れると、滝のような汗をぬぐいながら、わあと声をあげられます。
「ずいぶんぴかぴかだ! 君の家ってこんなに綺麗になることがあるんだね?」
「お前が来るから徹底的に掃除したんだぞ? まあ掃除したのは俺じゃなくてリリスなんだがな」
若旦那は荷物を置くと、私の方に向き直りました。
「君とまた会えて嬉しいよ、リリス。私の催眠が解かれてから、ちゃんと話す機会もなかったし」
「いえ。若旦那が元通りになられて良かったです」
「うん。まったく私としたことが、騙されて結婚したあげく、君を追い出すなんて! ほんとうに申し訳ないことをした。すまなかった」
食べ過ぎて叱られた子犬のようにしょぼんとする若旦那。きゅうんと母性がくすぐられます。
(懐かしいです、この感じ……! 若旦那と話している実感が持てます)
「君がダンの家で働いていると聞いた時、君が路頭に迷わなくてよかったって思ったよ。ダンには感謝しなくちゃね」
「当然だ。リリスを他の奴らになどくれてやるものかよ」
「あはは、ほんとに、良かったよ。それに君はいまや唯一の<秩序>魔術の使い手なんだろう?」
「そのようですね。実感はまだありませんが」
「いつも家を綺麗にしてくれていたけど、あれが<秩序>魔術だなんてちっとも思わなかったよ。君はやっぱりすごいな!」
にこにこと微笑みながら、惜しげもなく褒めてくる若旦那。あいかわらずです。
頂いた言葉をじんとかみしめていると、若旦那は小首をかしげて、
「それに、ダンから聞いたよ。彼の婚約者役をやってるんだって? まったく彼はいつもものすごいお願いをするね」
「あ……き、聞かれたのですね。その、これは、成り行き上仕方がなく……」
「分かってる分かってる。聖女さまは二人がほんとうの婚約者同士だと思い込んでるから、口裏を合わせろとも言われたよ」
思わずダンケルク様の方を見れば、知らぬ顔で肩をすくめていらっしゃいます。手回しの良いこと。
「メイドで<秩序>魔術の使い手で、おまけに婚約者役も務めるなんて! さすがリリスだね」
「それでさすがと言われても、素直に喜べませんが……」
「あはは。でも、どれも君にしかできない仕事だ。何か困ったことがあったら言うんだよ。力になるから」
お優しい若旦那。穏やかな微笑みがじんわりと胸に染み込んできます。
と、ダンケルク様が横から、いじわるそうなお声で入ってきました。
「そんなことより、お前を家に居候させてやることについての感謝をまだ聞いていないが」
「ダンケルク様!」
感謝をねだるなんてはしたないです。けれど若旦那はけらけらと快活に笑って、
「そうだった! モナード将軍、この度は私めのような太っちょ魔術師の居候を許可して下さり、恐悦至極に存じます」
「うむ、苦しゅうない。三食昼寝にリリスつき、お前の家のような立派な図書室はないが、その辺の本は自由に読んで構わんぞ」
「ははっ、ありがたき幸せ」
(……ま、まあ、お二人が楽しいならそれでいいのですが)
そう、ダンケルク様がおっしゃった「三方よし」の名案とは。
若旦那をモナード家にお呼びすることでした。
(私はあと半年はモナード家のメイドですし、そうするとグラットン家にメイドは一人もいなくなってしまうのですよね。新しく雇うなり、私が通うなりすれば良いと申し上げたのですが)
しかしダンケルク様は聞く耳を持ちませんでした。
(『お前のことだから、半年はモナード家のメイドになれという約束を律儀に守りとおすつもりだろうが、ウィルのことも心配だろう。それにチャンスは平等(フェア)でないとな』なんておっしゃっていましたが)
果たしてどこまで本気でいらっしゃるのか。
ですが、私としては気は楽です。ダンケルク様のお世話をしながら、若旦那はどうしていらっしゃるか悩まずに済むのですから。
(でも、ちょっと待ってください。私が好きな若旦那と、私のことが好きなダンケルク様と、私が、一つ屋根の下で暮らすというのは――だいぶ、気まずくならないでしょうか?)
手垢にまみれた表現ですが、要するにこれは三角関係というやつなのですから。
その事実に気づいて考え込む私の肩を、ダンケルク様が親しげに抱き寄せます。
そして若旦那に聞こえないような声で囁かれました。
「そういうわけで、第二ラウンド開始だ。俺は本気でお前を婚約者に迎えるつもりだからな」
「……意地の悪いことはなさらないで下さいね」
「善処しよう。期待はするな。――俺は絶対にお前にイエスと言わせてみせるぞ」
ダンケルク様の、軍人らしい強引な物言い。
(それが不思議と、そこまで嫌ではないと申し上げるのは……もう少し後にしましょうか)
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