第20話 進展
お顔を上げたダンケルク様の表情は、硬くこわばっていました。
ソファではなく、床に座ったまま、じっと火を見つめていたのでしょう。火の名残が翡翠色の目の奥で、ぱちぱちと瞬いています。
「……何か飲まれますか。ハーブティでも」
「ん。お前と同じものでいい」
私はキッチンに引っ込んで、お茶のセット一式を持って、ダンケルク様の横に座りました。
居間の暖炉ですから、お鍋をかけるようにはできていません。なので手のひらに炎を呼んでお湯を沸かしました。
(キッチンでやってくればよかったんでしょうけれど。今のダンケルク様をお一人にしておくのは、忍びないです)
ダンケルク様は、ハーブティを淹れる私の手元をじっと見つめていらっしゃいます。
「あの、ダンケルク様。……大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるか」
「僭越ながら、見えませんね。お茶、こぼさないように持ってくださいね」
カップを持たせると、ダンケルク様はそれをすぐ床に置いてしまいました。
そうしてじっと私を見ています。
「……そうご覧になられると、飲みにくいのですが」
「まだ信じられん。お前、ほんとうに生きてるのか」
「生きておりますよ。幽霊がハーブティを淹れられるなど、聞いたことがありませんし」
そう返せば、ダンケルク様がおずおずと私に手を伸ばしてきました。
指先がそっと髪先に触れます。
「下ろしてるの、初めて見た。結構長いんだな」
「男性の前ではほどきませんもの」
確かめるように髪を撫でていた手が、そっと頬に触れます。ずっと火にあたっていたとは思えないほど冷え切った指先でした。
手のひらで頬を覆うように撫でられ、私はその手の上に自分の手を重ねました。
「――私はここにいますよ。ご心配をおかけしました」
「……ッ」
ダンケルク様の腕に抱き寄せられ、きつく抱きしめられます。
自慢の銀糸のような髪にはまだ、砂や岩のかけらが絡みついているようでした。
泣いてこそいないようですが、ダンケルク様の押し殺したような吐息は、ともすれば嗚咽に変わってしまいそうな危うさがありました。
「お前が滝つぼに落ちたとき、終わった、と思ったんだ。この高さじゃ助からない、無理だ、と」
低く、絞り出すような声の苦しみに、私はそっと目を閉じます。
きっとそれはとても恐ろしい光景だったでしょう。
「ええ、私もそう思いました」
「ならせめてその亡骸を抱きたくて、夢中で滝つぼに飛び込んだ。ほんとうなら、お前を突き落とした兵士を取り押さえて、尋問すべきなのに」
軍人らしい行動とは言えませんが、かといって誰もダンケルク様を責められないでしょう。
(落ちたのが、セラ様や、若旦那――ダンケルク様だったら、きっと私も同じように行動したでしょうね)
「――でもお前は、見つからなくて。イリヤが<秩序>魔術の痕跡を追う手法を確立していたのを思い出して、あいつの事務所に飛び込んだ」
「それで、私を見つけて下さったんですね」
「イリヤを引きずってあの丘に戻るまで、俺はお前が死んだと思った。あの時お前の手を離した俺を殺してやりたいと、ずっと後悔していた。けどあの丘でイリヤは言った。”<秩序>魔術が使用されたのは、ほんの数十分前だ””リリスはまだ生きている”」
「……で、壁を壊してあの鍾乳洞へ来てくださった、と」
「生きてるお前を見た時、自分の目が信じられなかった。今でもまだ信じられていない」
あのお顔を拝見するに、その言葉は真実なのでしょう。
「それは困りました。ダンケルク様が抱いているのが幽霊ではないと、証明しなければなりませんね」
私はダンケルク様の腕の中で身をよじり、そのお顔に手を添えます。げっそりとしていても、憎たらしくなるほど綺麗なお顔です。
けれどその目はまだ昏い。絶望に一瞬浸った瞳に、またあの翡翠色の輝きを取り戻して差し上げたくて。
私はそっと唇を寄せ、ダンケルク様に口づけをしました。
少しだけ呆然としたようなダンケルク様のお顔。初めてこの方を出し抜くことができたのかもしれません。
「……ね? 生きているでしょう?」
「……よく分からなかったから、もう一度頼む」
「だめです」
身をよじって離れようとする私の腰を引き寄せ、ダンケルク様が再び顔を近づけてきます。
急にぎらぎらし始めたダンケルク様の目に、なんだか妙な気恥ずかしさを覚えます。自分から、なんて、はしたなかったでしょうか。
「ちょっと、離して下さい」
「分からなかったと言っているだろうが、もう一回!」
「そんなに元気なら大丈夫でしょう! もうっ」
ソファの上に逃げると、ダンケルク様もすぐに追いかけていらっしゃいました。その目の中にもう陰りはありません。
私の腰にするりと腕を回し、僅かな距離も惜しいとばかりに、私を抱き寄せてきます。
(というか、立ち直りが早すぎでは!?)
「なあ、今のってつまり、俺の婚約者になるってことだろ」
「違いますが?」
「なんで!」
「まだ若旦那のことが好きですから」
「じゃあお前は好きでもない奴にキスするのか」
「犬と思えば、できなくはないです」
「犬!」
絶望的な声で叫んだダンケルク様は、すねたように私の髪先をいじっています。
「まあいいさ、お前が犬と思いたいんなら、せいぜい『らしく』振る舞ってやるが、しかし! どうしてまだあいつのことが好きなんだ!」
「どうして、と言われましても……。星は一朝一夕で嫌いになれるものではないでしょう」
「星?」
しまった、と思いました。笑われるかもしれません。
ですがダンケルク様は、ほんとうに主人の指示を待つ犬のように、じいっと私の顔を見つめてきます。
「……笑わないです?」
「笑わない。大魔女の名に誓って笑わない。この心臓と家名とそれから勲章と、」
「そ、そこまでしなくても……あの、よく言うじゃないですか? 好きな人のことを、その、太陽のようだ、とか」
「まあ、使い古された表現ではあるがな」
「それでですね、私にとっての若旦那が、星なんです」
確かに太陽のようだと言えなくもありません。若旦那が笑って下さると、ほんとうに心の底から気持ちが暖かくなりますから。
けれど太陽は、夜になったら隠れてしまいます。
「道に迷ったとき、航路を失ったとき、人々は空の星を見上げて自分の行先を決めますでしょう? 私にとって若旦那は、そんな存在なのです。何か辛いことがあったとき、自暴自棄になりたくなったときでも、若旦那が示す方向に行けば間違いはないと信じています」
「……まあ、あいつは良いやつだからな」
「はい。いつも他人のことを考え、相手を慈しみ、己の力を全部他人のために使う――。そういう人間になりたいと思っていれば、きっと、道を踏み外すことはないでしょう?」
実際にそうなれているかはまた別の話ですが。
「いつも若旦那の方を見て、行動していれば、良い人間になれるような気がする。そういう意味で、若旦那は私の星なのです」
「なるほどな。その理論でいくと、俺はお前の星にはなれそうもない」
「勝手になられても困ります」
「だろう? それに、星じゃあ都合が悪い。お前に見上げられるだけで、隣に並び立つことができないんじゃあ、星になったってなんの意味もないだろ」
その言葉を聞いて、ああ、と思いました。
(この方は、星のもう一つの意味を分かっていらっしゃる)
星は道しるべであり、そして永遠に手の届かないものです。満点の空を覆いつくす輝きは、地を這う人間には与えられないもの。
私は若旦那をお慕いしている。けれど最初から、若旦那の恋人になろうとは、考えてもいなかったのです。
(だって、きっと私では、若旦那を幸せにして差し上げられないから)
もちろん私の身分では不相応だということもありますが。
何より、ここ最近の若旦那の優しそうな、楽しそうな表情は、全てセラ様と一緒にいるときのものです。
私と一緒の時に、あんなお顔はなさらなかった。あんなに弾んで、生き生きとした喋り方はなさらなかった。
(それをねたんだり、悔やんだりするつもりはないのですが――。ああ、何と言ったらよいのでしょうね?)
「……まだ辛いか」
ダンケルク様の問いが何を指しているか、すぐに分かりました。
「セラ様と若旦那が一緒にいらっしゃるところを見るのが――ですか?」
「そうだ」
「辛くない、と言えば嘘になりますが。嬉しくないと言っても嘘になりますね」
「何だそれは」
「セラ様はきっと若旦那を幸せにしてくださるでしょう。それが私でないのは辛いです。けれど、若旦那の前にそういう人が現れたことは、嬉しいです。それがセラ様であることも、きっと嬉しい」
「俺はとてもじゃないがそんなふうには思えん。お前の考えを立派とは思うが、真似はできないな」
立派でしょうか? いいえ、これは立派であるとかそうでないとか、そういう話ではありません。
「私は長い間若旦那とご一緒してきました。きっと私の一部はもう、若旦那そのものなのです。――だからきっと、若旦那の幸せは、ほんの少しだけ私のものなのでしょう」
「そうすると俺は、お前と一緒にウィルも愛さなければならないことになるが」
「そういうことですよ。私を愛してくださるということは」
我ながらなんて大胆な。私を愛してくださるということ、なんて、どこかの三文小説のセリフのようです。
ですが、ダンケルク様は何かに気づいたように目を見開きました。じっと私の目の奥を見つめています。
「……なるほどな。お前の星ごと、か」
そう言いながらお顔を近づけてきます。
私が逃げようと身をよじると、切なそうな声で、もう一回だけ、とねだります。
「あと一回でいいから、キスさせてくれ」
「……一回だけ、ですよ」
そう言って私は、ダンケルク様の唇を受け入れるために、そっと目を閉じました。
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