第24話 名前を呼んで
「気を取り直しまして…では早速ですが、私の名前を呼んでみてください」
なにやら考えを切り替えたのか、一之瀬さんは明るい声を出していたが、僕はさっきまでの彼女の表情に引っかかるものがあった。僕と楓が一幼馴染であるということに、なにか思うことでもあるんだろうか。
「うん、それはいいけど…」
とはいえ、それを追求できる空気でもない。ひとまずは彼女の提案に乗ることにする。
少し時間をおけば、心に沸き上がったこの妙なざわめきも収まるかもしれないから。
「はい。では私のことはこれからせっちゃんと呼んでください。私は藤堂君のことをなーくんを呼びますので」
「ストップ。ちょっと待って」
訂正。別の意味でもっとざわめきが大きくなった。主に鳥肌的な意味で。
「えー、なんですかいきなり…」
「いきなりはこっちの台詞だよ!ハードル高すぎ!ていうか、それもうハードルどころか高飛びのバーくらいあるから!」
一之瀬さんは口を尖らせて不満をアピールしているが、いくら可愛かろうがダメなものはダメだ。
名前を通り越していきなりあだ名になってるし。そんなどこぞのバカップルみたいな呼び合い方をするなんて、とても僕の心が持ちそうにない。
「なーくんはワガママですねぇ。いいじゃないですか、私たちの仲なんですから」
「いや、マジでやめて。勝手に過去を捏造しないで」
どんな仲だよ。僕は楓とすらあだ名で呼びあったことないんだぞ。小さい頃から名前では呼び合ってたのは確かだけど。
「…捏造、ですか」
僕の言葉に、一之瀬さんは何故か憂いを帯びた顔をした。
え、なにその顔。さっきまでの流れで急にシリアスに突入されても困る。
「違うの?」
「いえ、違いありませんけど」
「違わないのかよ」
合ってんじゃん。なにも問題ないじゃん。意味深な顔した意味あんの?
「じゃあ刹那でいいですよ。これでいいんでしょう?まったくもう…」
「だから僕がワガママ言ってるような流れにするのやめてくれない?なにも間違ったこと言ってないよね?」
なにこの僕が悪いみたいな空気。普通に困惑するんですけど。さっきからツッコミどころしかない。
あるいは譲歩案でも引き出そうという彼女の戦略なのかもしれないが、拗ねられても僕は絶対妥協はしないぞ…
「過ぎた過去のことはもうどうでもいいじゃないですか。ほら、早く早く。マイネームプリーズギブミー」
今度はイントネーションがおかしい。エセ外人かよ。しかも過去にするのが早すぎるし。さっきの話の流れからまだ一分も経ってない。
(なんかもう微妙に疲れるぞ…)
本当に、一之瀬さんのペースには振り回されっぱなしだ。しかも嬉しそうな顔を隠そうともしてないし。
(…僕と話していて、楽しいのかな)
そんなことを、ふと考えてしまった。
思えば教室ではろくに話す友人がいないのだ。こうして話が弾むこともいつ以来だろう。いじられるのは好きではないけど、一之瀬さんと話していると不快な気持ちはしない。むしろ普通に楽しかった。
だからこそ困る。楓に対する罪悪感が、ドンドン増してしまうのだから。
普段僕が話す相手は専ら楓だけど、彼女はどちらかというと聞き役になる性格だから、話が盛り上がったりすることは少なかった。最近はSNSを通したやり取りも頻度が減ってきていたし、話題をすり合わせもあまりできなくなっている。
これに関しては僕の努力不足もあるからなんとも言えないけど、今朝のように実際話していると会話がないことも増えてきているのは分かっていた。噛み合わなくなっているんだ。
それに対し、一之瀬さんとの会話では彼女が主導権を握ってくれているため、合わせやすかった。
グイグイと引っ張ってくれるこの感覚は悪くない。むしろ居心地の良さすら感じてしまう。
僕と一之瀬さんの相性は悪くないと思えてしまうくらい、彼女との会話は楽しかった。
それはきっと、良くないことなのだと分かっていても。
(ああ、もう全く…)
雑念を振り払う。今は楓のことを忘れよう。比較するような真似をするなんて一之瀬さんにも失礼だ。
僕は彼女に改めて向き直る。
亜麻色の長い髪。整った顔立ちに意志の強そうな大きな瞳。こうして見ると、やはり彼女は楓に匹敵するほどの美少女だ。
そんな女の子とふたりきりで部屋にいて、そしてこうして話すことになるなんて、昨日までは考えもしなかった。
「そう急かさなくても、ちゃんと呼ぶから。案外せっかちだよね、刹那さんは」
「!!」
だけど、悪い気はしないから困る。
こうして名前を呼ぶことも。ハッとしたように大きな目を見開かれて、驚かれることも。
「そ、そんなことないです!凪くんがゆっくりしすぎなんですよ」
そして、彼女に名前を呼ばれることも。
「そうかな?」
「そうですよ!私はしっかりしてますから!凪くんが悪いんですよ、全部!」
捲し立てるように話す刹那さんを見ること。彼女の頬が興奮からか赤らんでいること。何故か嬉しくなっている自分。
その時、僕の心は確かに癒されていたんだろう。
悪い気は、しなかった。
しなかったんだ。
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