第4話 明晰夢

「ただいま」




一之瀬さんと別れた僕はあの後脇目も振らず、真っ直ぐ自分の家へと帰宅していた。


本当なら途中でスーパーに寄ろうかと思っていたのだが、そんな気にもなれずそのまま帰る運びになってしまったのは誤算だったが、こうなったら仕方ないと素直に諦めることにする。




確か冷蔵庫にはまだ食材が多少は入っていたはずだから、今日と明日はそれで誤魔化せるだろう。


両親は共働きであり、帰りが遅いときは僕が料理当番なのでそれなりに料理はできるのだ。


作り置きをできるくらいの分はあると思うし、まぁ最悪簡単なもので済ませてしまおう。


親には怒られるかもしれないが、明日改めて買い出しに行けばいいだけの話だ。




そんなことを考えながら、僕は自室がある二階の階段へと足を踏み出した。


時間も早いし焦ることもないのだが、今はとにかく横になりたい気分だった。


下校途中での出来事はもとより、最近の僕はとかく疲れやすくなっているように思える。


階段を踏みしめる足ですら、鉛のように重かった。




(もっと体を鍛えるべきかな…いや、これは関係ないか。重いのはきっと、僕の心だ)




肉体的にはそうでもないが、やはり精神的な疲労が大きいのだろう。


原因はわかっているが、それをどうにかする方法が思いつかない。




八方塞がりというやつだ。


正確には解決する手段はひとつだけあったが、それを選ぶ勇気も決断力すら今は持ち合わせてはいない。それができる性分なら、そもそもここまで思い悩むこともしないだろう。




だから僕は今もこうして苦しんでいる。どこまで損な性格をしている自分に呆れるほかない。




自己憐憫に浸るつもりはないけれど、愚痴くらいはこぼしても、きっとバチは当たらないと思いたかった。






時間が解決してくれるなら楽なのだろうが、今の僕には学校で過ごす一分一秒が苦痛で仕方ないのだ。


周りの目、貯まり続ける心労、そして残してきた過去が、僕の精神を抉り続ける。






スクールカースト。


上位の生徒には絶大な恩恵が与えられ、下位の生徒は底辺のように彼らの顔色を伺い、媚を売るその世界が社会の縮図だというのなら、僕がいる世界は地獄なのではないかとふと思う。


少なくともあの空間は、僕にとって居心地の良い場所からはかけ離れた位置にあった。




「ほんと、上手くいかないよな…」




階段を上り終え、ようやく部屋の前に立った僕は取っ手に手をかけ中に入る。


そこは見慣れた僕の部屋であり、現状で唯一といっていい安らぎの空間だ。


制服の上着だけソファーに放り投げ、僕はそのままベッドに飛び込む。




バサリという音とともに、柔らかな羽毛布団が体を優しく受け止めてくれた。そこでようやく人心地つけた気分になる。人間というのはなにかに包まれると安心する生き物なのかもしれない。




「つっかれたぁ…学校しんどいよ、もう…」




だから弱気の虫が這い出てくるのも、きっと仕方のないことなのだ。


我慢してきた心の疲労が一気に吹き出し、視界があっという間に狭まっていく。




「ちょっとだけ…ちょっとだけ寝よう…そしたら宿題やって、風呂掃除もして、夕飯作らなきゃ…母さん達帰り遅いって言ってたし、作り、置きも…」




眠りの世界に落ちる直前だというのに、僕は現実の心配からか、起きた後のスケジュールを口にした。やはり僕は根が真面目なのだろう。


それはいいのか、悪いのか。その判断をする力ももはやない。


閉じていく瞼の重さに耐え切れず、僕は意識を手放した。












―――凪君!見て、私たちの番号がちゃんとある!合格だよ!これで高校でも一緒だね






夢を見ている。そう実感できる夢のことを、なんといっただろう。






―――ほんとだ。良かった、楓が一緒だとやっぱり心強いよ






ああ、そうだ。確か明晰夢だったはず。


夢の中で記憶を探るなんて、なんだか変な気持ちだ。


夢は自分の記憶を元にして作られているという説もあるのに、その中で思い出すことがあるなんて、なんだか矛盾しているような、そうでもないような。






―――わ、私も…






まぁそれはともかく、これは夢であることに違いない






―――ん?どうしたの?






そうとしか言いようがないんだ






―――私も、凪君と一緒だと嬉しいな。本当に、大好きな人だから






だって―――






―――ありがとう。僕も楓のことが大好きだよ。ずっと一緒にいようね






今の僕が、こんな笑顔をできるはずがないのだから






―――うん!約束だよ!






それに、楓も。ああ、そういえば。


いつ以来だっけ。笑っている顔なら、見ては、いる、けど。




確か、楓のこんな綺麗な笑顔を最後に見た、のは―――
















「夢、か……」




目が覚めた。


夢の中で自分を認識してしまったからだろうか。寝起きはいいものとはいえなかった。




むしろ最悪といってもいい。一年前、僕らが高校に入学した日のことを、久しぶりに思い出してしまったからだ。




夢とはいえ、第三者の視点でみると、なんともまぁ恥ずかしいことをしていたものだと改めて思う。


あの時周囲には僕らのように高校の入学合否の張り紙を見に来た生徒が何人もいたし、僕らのバカップルのようなやり取りはしっかりと目撃されていた。




あれがきっかけで僕と楓が付き合っていることはしっかり周知されてしまったのは、僕がやらかした大きな間違いのひとつだった。


思い返すだけで顔から火が出るほど恥ずかしい。




ただ、含まれている恥ずかしさは羞恥によるものだけじゃない。自らの無知を恥じる後悔の念も大きかった。




高校生になる。


それがどういうことなのか、僕はまだ本当の意味で分かっていなかったのだ。




世界が変わることの意味を、あの時はまだ知らなかった。






「…やめよう、もう昔のことだ」




一年もすれば、考えだって変わってくる。知らなかったことを知る機会も、知りたくないことを知る機会も平等に人に降り注がれる。




そういう意味では、まだ幸運だったと思うほかない。僕は多少なりとも己の立ち位置と身の程というものをこの一年で知れたのだ。






だけど、それは成長と呼べるのだろうか。知らないふりをして、みたいものだけをみていたほうが、もしかしたら幸せだったんじゃないだろうか。




そんな考えが浮かぶが、それを振り払うようにベッドから立ち上がる。


少なくとも体の調子は悪くない。時計をみると針は19時を指していた。


どうやら二時間は眠っていたようだ。それに気付いたからか、不意に腹の虫が小さく鳴った。




「…ご飯つくろ」




時間もちょうどいい頃合だ。炒飯くらいは作れるだろうと当たりをつけると、僕は着ていたシャツを脱ぎ、部屋着へと着替えてゆっくりと階段を下りていく。




「ん?」




そこで妙な違和感があった。階段の半ばほどで、鼻を奇妙な匂いがくすぐったのだ。


それも焦げ臭いだとかの異臭ではなく、食欲を掻き立てるような料理の匂い。


僕以外誰もいないはずの家から嗅げるようなものではなかった。




寝起きで鼻の調子が悪いのだろうかと訝しみながら、慎重に下りて行くと、疑惑は確信へと変わる。降り立った廊下の先、リビングと一体になったダイニングキッチンから、光が漏れていたからだ。




「…泥棒か?」




一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに却下された。


家に金目のものなんてほとんどないし、第一呑気に料理を作る泥棒なんているはずもない。


玄関には僕の靴だって脱ぎ捨てている。それに気付かないほど間抜けな物取りもそうはいないだろう。






そこでふと思い当たる節があり、僕は足音を立てないように玄関まで近づいてく。


この考えが正しいのなら、やはり僕はまだ寝起きで頭が回っていないらしい。




「やっぱり、か」




明かりがついたままの玄関にたどり着いた僕は、こっそり土間を覗き込むと、そこには僕以外のローファーが一足、丁寧に並べられていた。ご丁寧に僕の靴もだ。


そこからこの靴の持ち主の性格もなんとなく察せられる。




サイズも僕のものより小さい女性ものだ。さらにいうなら、その靴にはよく見覚えがあった。


高校生になる前に、一緒に買い揃えたもののひとつであったのだから。






「なんでくるんだよ…」




ここまで材料が揃えば、もう推理の必要もないだろう。


今の僕はきっと苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いなかった。






理由はきっと、今日のことが原因だ。せめて家に着いたときに連絡のひとつでもしておけば良かった。


これなら一緒に帰ったほうがまだマシだったかもしれない。




僕は一度ため息をつくと覚悟を決め、リビングに向かって歩き出す。


警戒心は既にない。そこにいるのが誰なのか、僕にはもう分かっている。




「入るよ」




念のため声を一度かけた後、僕はリビングの取っ手に手をかけた。


短い返事が聞こえたが、それをかき消すようにガラガラと引き戸の音が鳴る。




果たしてその先にいたのは、僕の予想通りの人物がいた。悪い予感というのはいつだって当たるものだ。




「来てたんだね…楓」




白瀬楓。学園のアイドルにして高嶺の花の幼馴染が、鼻歌を歌いながら僕の家のキッチンを我が物顔で占領していた。




「うん、お邪魔してるね。もうすぐご飯できるから、ちょっと待っててくれるかな」




予想が外れていて欲しかった。そんな顔をされたら、僕はもうなにも言えない。




朗らかな笑顔を浮かべる楓を見て、僕は小さく頷くしかなかったのだ。






その顔は、夢で見た笑顔より少しだけ曇っているように思えた。

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