第16話 認める心

ようやく僕が落ち着いたのは、それから多分五分は経ってからのことだった。




「は、ぁ…はぁ…」




唐突に晒された悪意と嫌悪の入り混じった塊をなんとか飲み込み、胃の中へと押し返すことに成功した僕は荒い息を吐いて、なんとか呼吸を整えようとしている最中だ。少なくとも最悪の事態だけは回避できたことを、僕は内心安堵していた。




(なんとかなった、なんとか…)




だけど、つかの間の勝利の余韻に浸る余裕など、僕に与えられることはないらしい。


額に滲んだ汗を手で拭おうとしたところで、その前に柔らかいなにかが僕の肌に触れていた。




「あっ…」




「落ち着いた、凪君?すごい汗…」




それは乾いた布の感触だった。楓が手に持ったハンカチで、僕の顔を丁寧な手つきで拭っていく。未だ呼吸がままならないため、それを今は受け入れるしかない。


いつの間に隣にいたのか、楓の存在に僕はまるで気付くことはできなかった。




「顔も真っ白…体調悪かったの?朝から元気なかったし、それならそうと言ってくれれば…」




楓は心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。距離が近い。ほとんど目と鼻の先だ。これほど近くで楓の顔を見たのは、いつ以来だろう。少なくとも最後にキスをしたのは春休みのデートにまで遡った、ような…


駄目だ、どうにもあやふやだ。楓の唇の感触すら、今は思い出せそうにない。




今の疲弊した頭では、記憶を探ることすらもはや覚束無いらしい。できることといえば、楓の目を見つめ返すことくらいだ。


大丈夫だと目で伝えようと思ったところで、僕は息を飲む。




「凪君…」




僕を見る楓の瞳があまりにも綺麗だったからだ。




(楓…)




僕は一瞬だけ周囲の視線も忘れ、楓の鳶色の瞳に見入っていた。


そこにはなんの不純物も濁りもない、ただ純粋に僕だけを見つめる楓がいる。それは幼い頃から何度も見てきた楓そのままで。




(楓、ここにいたんだ…)




ここにきてようやく、僕の知っている記憶の楓と重なった。




だというのに。




(僕は、なんだ…?)




その瞳には、僕が映っている。


そこには楓の好意に甘え、素直に感謝していたはずの藤堂凪がいるはずなのに。




今の僕は、ひどく疲れた顔をしていた。


昔と変わらず僕に優しく接してくれる楓に感謝の色もまるで見せず、迷惑にすら思いながら、そんな自分に嫌気がさしてる自分の姿。




僕もいつの間にか、変わっていたのだ。知らず知らずのうちに堕ちていた。心が腐り始めていたのだ。






楓を見つめる藤堂凪の姿は、どうしようもなく、醜かった






―――釣り合わない






そんな考えが、すっと僕の中に入り込んでくる。


まるで童話に出てくる真実の鏡だ。あの物語では質問をすることで真実を教えてくれる道具だったが、僕には見るだけで充分伝わってくるものがあった。




それはきっと、幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた、ある意味合わせ鏡のような存在である楓だから分かることなのだろう。今ならハッキリと言える。




(こんな綺麗な目をした楓に、今の僕じゃ釣り合わない)




それくらい、今の僕は濁って見えた。キラキラと自分で輝く力を持った楓に比べて、僕はなんの色も持ち合わせていない。成長を拒み、今の自分で満足して停滞することを選んだ僕は、これからも変化を続ける楓を羨み、比較し、それでも変わらずずるずると堕ちていくのだろう。そして、いつか楓も巻き込んでーーー




それだけは駄目だ。やってはいけないことなんだ。


楓のことが好きだというなら、それだけは絶対に。




僕はここまでの人間で、楓と共に歩くことができる男じゃない。


きっと、そういう運命なんだ。




あんなに認めたくなかった事実が、楓を通してあっさりと自分の心の奥底まで染み渡っていくのは、奇妙な感覚だった。




だけど、悪い気はしない。むしろ清々しいまである。この歳で自分を知れたという意味では、自分探しの旅をするような大学生より、ある意味今後有意義に生きていけるのではないだろうか。


妙にポジティブな考えが生まれる余裕すらできたことに、僕は思わず自嘲した。




(案外切り替えが早い人間だったのかな、僕は)




いつの間にか思考が変化している自分に驚く。これなら、もっと早く周りの声に耳を傾けるべきだったとすら思う。そうすれば楓だって、僕に視線を送ることもなかったはずだ。




今もなにも言えずにいる僕を見て、瞳が潤み始めている。


こんなふうに、無駄な心配をかけることもきっとなかったはずだった。




「凪君、もう帰らない?そんな状態で学校行っても、体に悪いよ。私も一緒に休むからあきちゃんは先生に…」




そのことが、急に申し訳なくなってしまう。


僕は楓の言葉を手で制止し、遮った。




「大丈夫。急に具合悪くなっちゃったけど、頭はもうスッキリしてるから」




「でも…」




「本当に大丈夫だから。でも、さすがにまだちょっとふらつくから、教室に行く前に保健室に行くよ」




楓の人生における貴重な時間、それをこれ以上僕のために使わせるのは、心苦しい。楓に無駄な時間を過ごして欲しくなんてなかった。彼女と話したい人間はいくらでもいるのだ。僕になんて構っている時間はないはずだ。




「じゃあ私も着いて行くよ。それなら…」




「それもいいから。僕は少し休んでゆっくり行くから、宮間と先に行きなよ。遅刻しちゃうかもしれないしさ」




そのほうが、きっと楓のためにもなる。これからの楓の学校生活において、彼女の存在は必要不可欠だろうから。僕の代わりに楓を支える人は、どうしたってほしい。宮間以上の適任者は、恐らくいないはずだった。




「え、だって凪君…」




「僕がそうして欲しいんだよ。いいだろ?」




有無を言わせるつもりはない。これ以上楓に迷惑をかけたくなんてないんだ。


僕が強い口調で言い切ると、楓は押し黙った。




内心できっと不満はあるだろうけど、僕たちの関係はこれまで互いの譲歩によって成り立ってきたものだ。どちらかが強く押せば、引き下がることは分かっていた。




「宮間、そういうことだから、楓のことを頼むね。あと先生に僕が保健室に行くことを伝えてくれたら助かるよ」




僕は楓から視線を外し、宮間へと話しかける。


実際さっきまでと比べて歩く生徒の姿はだいぶまばらになっていた。さすがにいつまでも野次馬根性を発揮して遅刻を選択するほど馬鹿な生徒はいないらしい。それなりに真面目な生徒が揃っていることに定評がある我が校に始めて感謝してもいいかもしれなかった。




「…それでいいの?藤堂」




僕を嫌う彼女ならこの提案に乗ってくれるだろうと思っていたのだが、何故か彼女は妙に渋い顔を浮かべていた。


そしてよく分からない質問が飛んでくる。


意図がわからず、僕は思わず聞き返していた。




「…宮間?なにを…」




「…なんでもない。うん、分かった。先生にはそう伝えとく…」




なんでもないってことはないだろう。何故か返事にも元気がない。そこは普通に頷くところだろうに。




さっきまで喜々として楓との差を見せつけてきた子とは思えない変化だ。さすがに訝しんでしまう。






なにか言おうかと思っていたところで宮間が僕に近づいてくる。すれ違いざま、僕にだけ聞こえるような声量で小さく「ごめん」と呟くと、彼女は楓の手を取った。




「楓、いこ」




「え、でも凪君を置いてなんて…」




「いいから、いこ。ほんとに遅刻しちゃうかもだから」




そう言って宮間は強引に楓を引っ張っていく。こちらを振り返ることなく、彼女は前だけを見て進んでいた。その姿がなんとも頼もしい。




楓は後ろ髪が引かれるようにチラチラこちらを見ていたが、僕が手を振って見送る姿を見てやがて諦めたのか、やがて宮間の隣に並んだ姿が見て取れた。




「…これでいいんだよね、きっと」




その姿がまるでこれからの未来を暗示しているように思えて、ポツリと想いが零れ出た。




僕は自分が楓に釣り合っていないことは確かに認めた。だからといって楓への愛情まで消え失せたわけじゃない。この想いは、確かに今の僕の中に残っている。




(未練っていうのかな、こういうの…)




心は決まりつつあったのに、まだ踏ん切りが付かない。時間がまだ欲しかった。


僕の想いは本物であったのか。この沸き上がる気持ちは、本当に楓が好きだったから選ぶ選択なのかを確認する時間が、どうしても僕には必要だったのだ。




(結局はまだ一緒にいれたらいいっていう、奇跡みたいな願望にすがってるだけなんだけどさ)




この期に及んで、まだ言い訳が必要らしい。そのことに呆れるやら、僕らしいとある意味誇らしいやらで、心はなんとも曖昧だ。




さてどうするべきかと迷いつつ、僕も一歩踏み出そうとしたところで、背後から声がかけられた。




「あれ、藤堂くんですか?」




それは、昨日の再来のようで。




「…あぁ、一之瀬さん、おはよう」




一之瀬刹那の姿を見て、僕は反射的に、いつも通りに挨拶をした。




「あ、おはようございます…?ていうか藤堂くん、大丈夫ですか?なんか顔色悪いですよ」




戸惑いながら挨拶を返してくれる一之瀬さん。


しかし今日はよくよく心配される日のようだ。




だけどこうして誰かに好意的な声をかけてもらえたのは久しぶりで。




「大丈夫。ありがとう、心配してくれて」




僕は思わず笑ってしまった。




誰かに笑いかけるのも、ひどく久しぶりのことだった。


後書き編集

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る