第19話 その手に引かれて
「さぁ、どうぞ入ってください」
「お、お邪魔します…」
僕はおずおずと一之瀬さんの部屋のドアをくぐり抜けていた。
その先には15畳はあろうかという、一人部屋にしては非常に広い間取りの空間があった。戸惑いながら軽く辺りを見渡すと見えるのは薄いクリーム色の壁紙にシックな天井。
家具はレトロ調のもので統一されているらしく、部屋の調和がとれている。材木までは分からないが、どれも高価そうな代物だ。家の外観を見たときにも思ったことだが、彼女は結構なお嬢様であるらしい。僕の部屋とは大違いだ。
そんななかでベッドや窓枠に可愛らしいぬいぐるみがチョコチョコ置かれているのが、いかにも女の子らしいなと思ってしまう。同時にお金持ちの中の見出だした庶民らしさというか、こういったものが置かれていることで、嫉妬するより密かに安堵するあたり、僕はつくづく小市民気質であるらしい。
「飲み物を取ってきますから、少し待っててください。藤堂君はお茶で大丈夫ですか?」
「お構いなく。なんでも大丈夫だよ。うん」
本当になんでも良かった。とっくに喉はカラカラだから、なにを飲もうが今なら美味しく感じることだろう。なんなら水道水でも構わない。
なにより、さっきから僕の心臓はずっと鳴りっぱなしだ。
学校をサボるなんて初めてのことだったし、学生服の男女が朝から通学路を逆走とか、誰に見られてるかわかったものじゃない。
学校に連絡されるのではないかと、ここにくるまで、周囲の目が気になって仕方なかったのだ。いろんな意味で落ち着かなかった。
そんな僕を見て一之瀬さんはクスリと笑う。
「なんですか、改まっちゃって。今は家には私達以外誰もいなんですから、そんなに遠慮しないでくださいな」
「いや、だって…」
緊張しないはずがないじゃないか。楓以外の女の子の家に来るなんて、これまで僕の人生であり得なかったことなんだから。
むしろ堂々としてる一之瀬さんのほうがおかしいとすら思えてくる。
いくら僕とはいえ、男は男だ。家に連れ込むとか、ちょっと大胆が過ぎるんじゃないだろうか。
「恥ずかしがってもしょうがないでしょう?もう藤堂君の泣き顔まで見ちゃった仲なんですから」
「や、やめてよ。本当に恥ずかしいんだから」
今思い出しても顔から火が出そうだ。この歳になってあんな醜態を人前で晒すなんて、考えてもみなかった。自然と顔が熱くなる。
「あはは。いや、結構可愛い顔で泣くんだなぁって、私ちょっとときめいちゃいましたよ?こう、母性本能くすぐられちゃったといいますか」
その相手である僕のクラスメイト、一之瀬刹那さんは、僕の黒歴史を早速からかってきているところだった。
そんな彼女の笑えないジョークに、思わずジト目で返してしまう。
「…一之瀬さんって、結構いじわるだよね」
「そうですよ?知らなかったんですか?」
存外彼女はいい性格をしていたらしい。
僕がこれ見よがしにため息をついたにも関わらず、一之瀬さんは楽しそうな笑みを浮かべた。
…正直言って、知らなかった。
彼女がこんな柔らかい笑みを浮かべること、泣き止んだ僕の手を取って「今日はもう学校をサボっちゃいましょう」と自分の部屋に連れ込むような強引さがあることも。
同じ中学に通っていたはずの一之瀬刹那という少女のことを、僕はほとんどなにも知らないのだ。
(いや、知ろうともしたことがないんだろうな)
別に彼女が例外というわけでなく、正しくあの頃の僕の世界には、たったひとりの女の子しか存在していなかった。
そのことを思い出し、今度は僕が軽く笑った。
「楓以外の女の子に、興味なかったからね」
「うわ、ハッキリ言うんですね。ちょっと傷つきましたよ。三年間一緒のクラスだったのに…」
僕の言葉を受けて、一之瀬さんは少し拗ねたようだった。
そんなに一緒だったのか。それも始めて知った。本当に僕は狭い世界で生きてきたのだと実感する。あまりにも周りを見なさすぎだろ、昔の僕。
今度アルバムでも引っ張り出してみようかと思っていると、一之瀬さんは僕を軽く睨んできた。
「なにまた笑っているんですか。そんなラブラブだった子と上手くいってなくてヘタれまくってた人が、ちょっと生意気じゃないですか?」
「…やっぱりいい性格してるよ。一之瀬さんは」
意趣返しのつもりなんだろうか。物凄く痛いところを遠慮なしについてきた。ちょっと前の僕ならその強烈なカウンターを食らったら、思い切りのたうち回って吐瀉物をぶちまけていたことだろう。
思わず苦笑する。もっとも触れられたくなかった急所を指摘されても、存外心乱されることなく、穏やかでいる自分自身に。
図星を突かれたからといって、それに動揺することも逆上することもない。そんなことをしたところで、無意味だからだ。
「そうかもしれませんね。でも、藤堂君もいい顔してますよ。ひどいこと言われたのに、ちゃんと笑えてます。目元はまだ赤いですけどね」
「ひどいこと言った自覚あるんだ…」
仕返しですよ、と目の前の少女は軽く笑う。亜麻色の長い髪が軽く揺れ、窓から差し込む光を薄く反射し、その美しい輝きを増していた。
「笑えるなら、それはとてもいいことです。笑えない人に、神様は振り向いてくれませんから」
一之瀬刹那にかかっては、今の僕は形無しだ。勝てる気もしないし、自分を取り繕うこともできそうにない。仮面を被って愛想笑いをしても無意味だと、もう理解しているのだ。
「神様なんて、もう信じる歳でもないんだけどなぁ」
「じゃあ女神様なんてどうです?ちょっと意地悪な女神なら、貴方のすぐ目の前にいますよ」
「それ、自分で言う?」
裏表のない本当の自分。弱くて醜い藤堂凪を、彼女の前で全て晒してしまったのだから。
それは両親はおろか、幼馴染である楓にすら見せたことのない姿だ。
これまでずっと我慢して隠して取り繕ってきたのに、僕は目の前の女の子に自分の弱さを全てを見せてしまっていた。
それはきっとひどく情けないものであっただろうに、彼女は笑いもせず呆れもせず、ただ黙って側にいて僕の話を聞いてくれた。
それがただ嬉しかった。なにかしてくれたわけでもない、吐き出したところで、自分がいきなり楓と釣り合うような男になれるわけでもないというのに。
ただそれだけで、救われた気がした。
思えば誰かに話を聞いてもらえたことなんて、いつ以来だろう。相談という考えはいつの間にか思考の外にあった。人に頼ろうという考え自体が、僕の中から消えていたのだ。
それほど追い詰められていたのだと思うと、僕の今の立ち位置はやはりひどく危ういものなのだろう。
(ていうか、今の状況もすっごい危ういよな。楓に申し訳ないよ…)
そして冷静になった頭で考えてみれば、よくよく考えなくても今僕が置かれている状況は非常にまずい。
なんせ僕にはまだ楓という彼女がいるというのに、平日の学校をサボって他の女の子の家にいるのだ。客観的にみて、これは浮気と取られても言い訳がしようがない。問われたところで返す言葉も思いつきそうになかった。
これは明確な楓に対する裏切り行為にほかならないだろう。
去り際の彼女の心配そうにこちらを見てきた目を思い出すと、胸が痛む。
今さらながら罪悪感が襲って来るが、僕はゆっくりと頭を降った。
(でも、無理だった。断る事なんて、できなかった…)
多分何度同じ状況に置かれても、僕はまた同じ選択をするだろう。
―――行きましょうと、僕の手を取ってくれた一之瀬さんの手を、また振りほどくことなんてできなかった。
僕はきっと、優しさに飢えていたのだと思う。それがたまたま一之瀬さんだっただけ。そう言い訳することは簡単だけど、それはきっと違うのだろう。
彼女の優しさ、当たり前のように僕の手を取って前を歩く彼女の姿が、ひどく眩しく見えてしまったのだ。
僕は一之瀬さんだったから、その手を握り返してしまった。
頷いてしまった。
「じゃあ私、今度こそ飲み物取ってきます。言っておきますけど、部屋の中を漁ったりしないでくださいね。そういうのは白瀬さんだけにしておいてください」
「しないってば!」
ああ、もう。ほんと調子が狂う。僕はこういうキャラじゃないってのに。
でも、なんでだろう。
からかわれて悪い気がしないと、そう思うのは。
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