(31)
「に、逃げられた……?」
あたしは思わず唖然としてシュテファーニエの、いつもの鉄仮面を見やる。
大神殿の応接室で向き合ったシュテファーニエは、なんてことないことのように言葉を続けた。
「拘束魔法を何重にもかけていたのだけれどね……。仲間がいたのでは、拘束魔法もあまり意味はないわね」
ヘクターが逃亡した。あたしたちがそれなりに苦労をして捕まえた、魔女の中でも相当な実力者と察せられる男を。
そう思うとあたしはすっかり脱力してしまう。
あの偽聖乙女ことヘクターとの勝負が終わっても王都に滞在していたのは、なにかあったときにあたしが対応するためだったというのに、移送を担当した騎士団と魔法女は彼の逃走を許してしまった。
移送もあたしが担当していれば、と思ったものの、ヘクターの奪還はかなり荒っぽい手法で行われたようだ。
シュテファーニエはあたしを慮ったのか、それとも他に意図があるのか、あたしの片脚では大怪我をしていたかもしれないと告げる。
それにどこまで蓋然性があるのかは、あたしにはわからなかった。起こらなかったことなのだ。まったくの未知数である。
それでもヘクターはそれなりに苦労をして捕らえたのだ。移送もあたしが担当していればと思わざるを得ない。
「移送集団に魔女の仲間がいたのよ。騎士たちもだいぶ手酷くやられたわ。荒っぽいやり方を見るに、ヘクターという男は魔女たちにとってはそれなりに重要な男なのかもしれないわね」
それでも死人は出なかったし、障害が残るほどの大怪我を負った人間もいなかった。そこは、「魔女の美学」というやつなのだろうか? あたしには相変わらずさっぱり理解できないが。
それにしてもこんなにも簡単に逃げられてしまうとは。
もしや、一度捕まって懐に入ることが目的だったとすれば……かなりイヤな推測だと、あたしはひとりで苦い顔をする。
「いずれにせよ、貴女を王都に留め続けている理由はなくなりました。ご苦労様ね」
「……ということは、帰れるんですね」
「ええ。……生活はどうですか?」
「え?」
あたしは一度としてシュテファーニエと私的な会話をしたことがなかった。
あたしはシュテファーニエの私生活なんてみじんも知らないし、彼女だってあたしのそういうところには興味がないと思っていたのだ。
しかし今、目の前にいるシュテファーニエの口から出たのは、間違いなく「私のパーソナルな部分に関する話題」というやつだった。
そのことに、あたしは思わず目を白黒させてしまう。
けれどもシュテファーニエは変わらずに鉄仮面のままで、あたしの答えを待っているようだった。
「え、えっと、困っていることとかはないですよ。テオもいますから、快適ですし、静かでいいところです」
「そう」
地区に配属された当初は前任の件で上手く行っていたとは言い難いが、今は違う。
黒の森に迷い込んだ三馬鹿を助けた件で、あたしは魔法女としてはそれなりに崇敬を集め、上手くやれていた。
しかしあたしの生活において一番大きいのはテオの存在だろう。
あたしが聖乙女を辞めることになっても着いて行くことをいとわなかったテオ。
それだけで、ずいぶんとあたしの心は助けられたのだ。
一拍置いて、シュテファーニエがじっとあたしを見ていることに気づいた。
シュテファーニエはこちらを見通すような目をしていて、ちょっとだけ気後れしてしまう。
「貴女にテオを連れて行ってもらったのは正解だったようね」
「……それは、どういう」
「貴女が聖乙女を辞めて大神殿を出るときに、テオはこちらで接収するという案もあったの」
相変わらずなんてことないことのようにシュテファーニエから告げられた事実に、あたしはおどろいて飛び上がりそうになった。
しかし彼女を前にして「ええ?!」などと大声を出せるはずもなく、あたしは静かに息を呑むにとどめた。
そんなあたしを前にして、シュテファーニエは淡々と話して行く。
「けれどもそんなことは
「そ、そうだったんですか……。知りませんでした。ありがとうございます」
「ええ。その判断には迷いもありましたが、今の貴女を見ていれば、間違っていなかったと確信できます」
神殿が俗世と切り離されている、というのは建前に過ぎない。だからこそあたしも個人資産を得られたわけで……。
しかし、いつの間にやらテオといっしょにいられることを、あたしは当たり前のことだと捉えていた。けれども実際はそうではなかった。
もしかしたらテオと離れ離れになっていたかもしれない、ありえた現実を想像し、あたしはひとり背を震わせる。
「貴女が――自ら命を断つなどという愚かな真似をするとは思ってはいませんでしたが、自暴自棄になりはしないかと心配はしていました」
「そう、なんですか……?」
「ええ。……教え子だったんですもの、心配くらいはするわ」
シュテファーニエの口元には――あたしの見間違いでなければ――微笑が浮かんでいた。
あたしはそれに驚愕して、言葉を失くす。
厳しいシュテファーニエのわずかでも破顔する姿など、初めて見た。
おどろきすぎて声も出ないとはこのことだ。
「……ありがとうございます」
座ったままではあったが、あたしはシュテファーニエに深々と頭を下げた。
シュテファーニエにだって色々と思うところはある。テオの件だって、あたしを懐柔するためという可能性は高い。
けれども彼女のお陰でテオといられる今を手にすることができたのだと思えば、懐柔されてもいいかなと思えた。
それくらい、あたしにとってテオの存在は大きくなりすぎていたのだ。
「気にしないで。アンナ・ヒイラギの件で帳消しになったと思っておきなさい」
「アンナ・ヒイラギの件?」
「法力をまともに扱えていなかったのが、近頃は徐々に操作ができるようになってきたの。あの魔女を捕まえるときに法力を最大量で放出したのがよかったのかしら? とにかく自分に扱える法力の量が把握できるようになったみたいだから。その件で、恩義がどうのというお話はなしにしましょう」
アンナ・ヒイラギのことは今でも好きではない。けれども以前よりも彼女をことさら腐してやろう、という気にもなれなかった。
奴隷を持つことそのものを悪だと断じたげだったアンナ・ヒイラギのことはよくわからないが、その前に見せた苦労をにじませた涙は本物だったと思うのだ。
彼女だって、才能ばかりだけでなく、日々努力をしてどうにか聖乙女になろうとしている。
そう思うと、いつまでも聖乙女でなくなってしまった自分の過去を、あれこれとほじくり返してばかりなのはよくない気がした。
あたしがどう思おうが、毎日は過ぎて行く。
あたしがどう考えようが、立ち止まっているつもりでいようが、どんどん前へ前へと毎日進んで行っているのだ。
あたしは実力で聖乙女にのし上がって、だからこそひとりっきりで生きてきたつもりでいたのかもしれない。
けれども現実にはテオやハンス、それからシュテファーニエに……ついでにイルマとかも?
……聖乙女を辞めたあとも、思っていたよりもあたしの周囲には結構人が残っていて、そして支えられていたんだなと気づいた。
――あたしやっぱり、そう簡単に魔女になる道は選べないよ。
心の中でヘクターに向かって告げる。
正直に言えば、魔女になるという道は、もしかしたら選んでいたかもしれないと思えるていどには、あたしにとっては魅力的ではあった。
あたしひとりじゃ王室にも神殿にも立ち向かえないが、同じ魔女という仲間がいれば――。そう考えてしまったこともたしかだ。
今でも王室にも神殿にもいい感情はない。ないけれども、だからといって短絡的に魔女になってしまってはいけないと思った。
……それこそがシュテファーニエや大神殿側の狙いなのかもしれないけれど……まあ、今は手のひらの上でもいいかなと思うていどには、あたしは落ち着いている。
しばらくは与えられたこの場所で、もう一度頑張ってみよう。
以前は「仕方なく」捉えていたそんな思いも、今は素直にそう思えるのだから、人と人とのかかわりや、言葉というのは不思議なものだ。
「息災で暮らすのよ」
シュテファーニエはまたもとの鉄仮面に戻っていたが、その言葉は本心がにじんだような優しさを伴っていた。
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