(16)
「……いい天気ね」
「そうだな」
大神殿を出されてから半年も経っていないというのに、王都の喧騒はなんだか妙になつかしく感じられた。
あたしの頭上には抜けるような青が広がっている。珍しく、雲ひとつない晴天だ。
約束の時間が近づき、予定通りに逗留しているハンスの屋敷を出て、あたしたちは大神殿へと向かうことにする。
「テオ、別にハンスの屋敷でゆっくりしていてもいいのよ? あたしの友人だし、悪いようにはしないと思うけど」
テオは正真正銘の奴隷だが、同時にあたしの大切な財産でもある。であればハンスも、彼の屋敷で働く人々も、手荒に扱ったりはしないハズだ。
というようなことを言えば、テオの目玉がぐーっとあたしの方に向けられる。
「ひとりで行けるのか?」
「大神殿に?」
「ああ」
「行けるわよ。あたしのこといくつだと思ってるの?! ……まあ、たしかにあの人に会うんだと思うと、及び腰にはなるけどね」
そう言いながら、あたしを王都に呼び出した張本人を思い浮かべる。
毛先までまっすぐの金のストーレートヘアーに、威圧的で油断のない灰色の目。
今よりもっと子供だったあたしにとって、何者にも手厳しく、静かな上昇志向の塊だった彼女は脅威の存在だった。
「相変わらずあの女が苦手なんだな」
「苦手っていうか……尊敬できる部分もあるし……徹頭徹尾ヤな人ってわけでもないんだけれど……」
自分の声が、尻すぼみになって行くのがわかる。
鋼鉄のような彼女のことは、ハッキリ好きとは言えない。けれども別に、毛嫌いするほど嫌悪しているわけでもない。
今の地位に就くために、あらゆる努力を惜しまない姿を、聖乙女の候補だったあたしは間近で見ていたからだ。
だから尊敬の念を抱くと同時に、畏怖の念も抱いてしまう。
それに彼女はあたしよりも年上だ。あたしの母親と――生きていれば――同じくらいの年だったハズである。
そういうことも相まって、年功序列であるから以上の理由で、わたしは彼女を敬う気持ちと畏れる気持ちを持っているのだ。
「……まあとにかく、あの人に会わないとなにも始まらないわ」
しかし、どのツラを下げて会いに行けばいいやら、大神殿の威容が遠景に見え始めた今も、未だにわからない。
彼女はあたしを聖乙女に推薦した大神官のひとりなのだ。
あたしがアッサリとアンナ・ヒイラギに法力で負けて聖乙女の座から下ろされたとなっては、面目丸つぶれとまでは行かないまでも、神殿内での立場が微妙なものになっていないか気にはなる。
彼女はたかがあたしひとりのために向上心を失うような人間ではない、ということはよくわかっていたが、なんとなく申し訳ない気持ちにはなる。
しかしそうやって、勝手に想像で申し訳なさを感じるのは、一方彼女の手のひらで踊らされているような気にもなる。
神殿内では間違いなく微妙な立場のあたしを、わざわざ古巣の大神殿のある王都に呼び寄せたからには、そのうしろにはなにか厄介な事情があるのだろう。
そういうことも相まって、あたしは憂鬱を抑えきれないのであった。
「よくきてくれました、魔法女ペネロペ」
キッチリと左右に分けられた金の髪はしっかり先までストレート。そしてあたしを映す灰色の目は手厳しい女家庭教師にも似た峻厳さを持っている。
元公爵令嬢という高貴な出自を持つシュテファーニエは、わざとらしく「魔法女ペネロペ」と呼んだ。今の立場をあたしにわからせるかのように。
その厳しい瞳から逃れたいがために、あたしは彼女を認識する頭の別の部分で、外で待つテオの姿を思い浮かべた。
「大神官シュテファーニエ、本日はどのようなご用件で私を?」
シュテファーニエは迂遠な会話を好まない。権力闘争の際は別として、平素はスッパリとした言い方を好む女性だ。
それをわかっているのと、一刻も早くこの大神殿から出て行きたいという気持ちで、あたしはシュテファーニエに用件を尋ねる。膝の上で組まれたシュテファーニエの指の先が、ぴくりと動く。
「本題から先に言います。聖乙女アンナ・ヒイラギと第七王子ツェーザルの身を護って欲しいの」
「なぜですか? ツェーザル殿下はもとより、アンナ・ヒイラギは聖乙女です。護衛など必要ないのでは?」
「……神殿の恥を忍んで貴女にだけは言うわ。――アンナ・ヒイラギは未だに法力を上手く使うことができないの」
先にハンスから「噂」を聞かされていたので、特におどろきはしなかった。
しかし噂は噂。話半分で聞いていた噂が、まるきり事実だということには、少しばかりおどろき未満のものは感じた。
シュテファーニエは膝の上で組んでいた指を一度解き、またわざとらしい動作で組んだ。
いら立ちを感じているのか、あるいはそういう風に見せたいのか。
どちらにせよ、あたしを上手いこと制御したいという並々ならぬ意思は感じる。
「アンナ・ヒイラギは――前任の――私の法力を上回っていると聞き及んでいましたが」
「それは確かよ。彼女は貴女よりも優秀な法力の持ち主です。けれども使えないのでは宝の持ち腐れ。おまけに民への施しも滞っているから、とにかく神殿にとっては頭の痛い問題ね」
「それで、なぜ私が彼女らの護衛を……という話に?」
アンナ・ヒイラギの法力は、あたしよりも優秀だという事実を強調されて、なんとなく胸が詰まる思いだった。
聖乙女の座に戻れるなどという希望は抱いていなかったし、一度追われた座に今さら戻る気にもなれなかったが、しかしアンナ・ヒイラギが聖乙女どころか魔法女未満の力しか発揮できていないという事実は、あたしの心をより複雑なものにする。
「今週、聖乙女を披露するパレードがあるの。けれども現状、聖乙女としての実力がなく、実績もない彼女を披露することには反発がある。実際に反王室派の組織が動くとの内偵結果も出ている……今は憶測でしかないけれど、コトが起こってからでは遅いというのは、貴女にもわかりますね?」
「……延期するという選択肢はないのですか?」
「今のところはさっぱりよ。反王室派組織の脅迫に屈するのは、王室としては外聞が悪い。それに今回のパレードではアンナ・ヒイラギをツェーザル殿下の婚約者として披露するという側面もあるのよ」
シュテファーニエの言う通りならば、恐らくアンナ・ヒイラギとツェーザル殿下は並んでパレードに参加するのだろう。
もし、アンナ・ヒイラギが聖乙女として通常の働きができるのであれば、仰々しい護衛など必要がない。
けれども、アンナ・ヒイラギは聖乙女でありながら、聖乙女としての働きができない。
つまり、シュテファーニエらが問題視しているテロが実際に起こったとき、聖乙女の法力を行使できないアンナ・ヒイラギはあまりに無力だ。
だから、聖乙女をやめさせた人間に、聖乙女の役割を期待する――。
それはあたしにとっては、残酷な仕打ちにほかならなかった。
しかしそれはシュテファーニエもわかっているだろう。
あたしがシュテファーニエについて肌でなんとなくその性格がわかるように、彼女もまた、あたしの性格を熟知しているハズである。
「貴女がなにも思うところがないとは思っていません。しかし、アンナ・ヒイラギは渡り人。二度と、家族の元へも友人の元へも帰れない。この世界でどうにかこうにか居場所を作るしかないの。……どうか、慈悲を見せて頂戴」
膝の上に置いていたあたしの手は、いつのまにか拳を作っていた。
正直に言えば、アンナ・ヒイラギが酷い目に遭おうが……最悪、死ぬことになろうが、あたしにとってはどうでもいい。
聖乙女に返り咲く野望を仮に抱いていれば、今回の件はまたとない機会だろう。
けれども残念ながら、あたしはアンナ・ヒイラギに恨み辛みを抱きながらも、二度聖乙女になろうなどということは考えてはいなかった。
「働き如何によっては、大神殿内に貴女のポストを用意することも、やぶさかではないわ」
「……お気持ちはうれしいのですが……遠慮させてください」
「ポストを? それとも護衛を?」
「ポストを、です。護衛は……引き受けます。私は魔法女。神殿の一員ですから」
大神殿内にひとつポストを用意するなんて、シュテファーニエには朝飯前なんだろう。
けれども神殿を私物化するようなシュテファーニエの振る舞いは、好きではない。
あたしだって神殿の端から端まで神聖だとは思っていない。けれども神殿を俗物化させることに加担するのは、それはそれとしてイヤだった。
シュテファーニエの、アンナ・ヒイラギへの同情を誘うような文言に惑わされたわけではない。
ただ自分の居場所を得たいがために、法力を使えもしないのに聖乙女を引き受けてしまったアンナ・ヒイラギが、あまりにも哀れだったから引き受けただけだ。
それは慈悲と言うにはあまりにも浅ましい感情から出た結論だった。
「それはそれは。大変殊勝ですね」
シュテファーニエの鉄仮面はまったく満足しているようには見えなかったが、灰色の瞳だけは少しだけ笑っているように見えた。
それを敏感に感じ取ったあたしは、やっぱりシュテファーニエは苦手だと思うのであった。
「しかし、私にも魔法女として、担当地域というものがあります。そうそう何度もこのような役目は引き受けられません」
「ええ。それはわかっているわ。アンナ・ヒイラギもそのうち法力を自由に使えるようになりますから、その件は杞憂です」
シュテファーニエが本心からそう思っているのかは、わからなかった。
シュテファーニエは神殿内でアンナ・ヒイラギに対しどのようなスタンスを取っているのかはわからない。そして、それを聞き出そうとするほどの度胸は、あたしにはなかった。
「……アンナ・ヒイラギが早く法力を使えるようになることを、私も祈っております」
シュテファーニエが心にもないことを言っているかもしれないと疑いながら、あたしは心にもないことを言った。
いや、ちょっとくらいは本心が混じっている。あたしに面倒な役目を押しつけてくれるなよという、恨みにも似た感情が。
「言うまでもなく、聖乙女アンナ・ヒイラギの件は他言無用です」
そうして油断なく釘を刺されたあと、護衛に関する長い長い打ち合わせが始まったのであった。
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