(2)
お見事なまでに失脚し、聖乙女の座から去ることになったあたしが、持って出る物はそう多くはない。
元々がドがつくほどの貧乏人で、私物をほとんど持っていなかったこともある。だから、大神殿に居を移したときと同じく、中くらいのトランクひとつで持って出る物はすべてまとまった。
聖乙女でなくなったあたしに残ったものは、そのていど。
一方、失ったものは多い。
聖乙女の絶大なる地位と、莫大な名声。それらをぽっと出の渡り人にかっさらわれただけでも業腹だが、それに加えてあたしは婚約者までもを失った。
淡い金髪に紅顔がまぶしい第七王子のツェーザル。それがあたしの、婚約者
つい先日まで婚約者だったツェーザル殿下は、その美貌と地位と、年頃の男性王族の中では唯一の未婚だったこともあって、ご令嬢方――とその後ろで糸を引く保護者たち――には大人気だった。あたしという婚約者がいたときでさえ。
ツェーザル殿下はその点、不誠実ではなかったので婚約期間中に浮気をされたことはなかった。
あたしももちろん、こんな性格だが聖乙女としての自意識だけは強かったから、ツェーザル殿下に不義理を働いたことはなかった。
それでも、あたしたちの仲はお世辞にもいいとは言えず、むしろ冷え切ってさえいた。
ツェーザル殿下の白皙の美貌はいつだって微笑をたたえていたが、まるで彫刻のようだった。
紳士らしくこちらを尊重する態度は見せるものの、それが見せかけのものであることくらい、魔法女の世界の荒波を泳ぎ切ったあたしにはお見通しだった。
でも、それでもよかった。ツェーザル殿下は――理由はわからないが――あたしを愛してなんていなかったが、あたしだって別に彼を恋慕って情熱的な感情を抱いていたわけでも、ましてや向けたこともなかったから。
魔法女の熾烈な争いを勝ち抜いて、聖乙女に指名され、王族と婚姻を結ぶことはこの国の女にとって理想的なエリートコース。あたしの目に映るのはそれがすべてだった。
今思えばツェーザル殿下にとっては酷な婚約者だった。けれども、殿下は殿下で一度としてあたしに心を開いたことはないのだから、まあお互い様ってやつだとあたしは思っている。
王家のご機嫌伺いをする聖乙女であるあたしに選択肢はなく、ツェーザル殿下にも父王に逆らう意味はなかった。
ツェーザル殿下があたしの婚約者に選ばれたのは、社会全体に恋愛結婚が増えるにつれて、単にここ数世代の間に王家に嫁いだ聖乙女がいなかったから。
そして手頃で年頃な男性王族は、ツェーザル殿下しかいなかった。他は婚約するにはまだ早い、幼い王子か、あるいはすでに結婚を済ませている既婚の王子しかいなかったのだ。
婚約する前も、婚約していたあいだも、婚約が解消された今も、ツェーザル殿下とあたしのあいだに愛などなかったと言い切れる。
けれどもそれはそれとして、腹が立つ。
なにせツェーザル殿下の次なる婚約者は、あの渡り人の女――つまり、あたしに代わって聖乙女となったアンナ・ヒイラギなのだ。
渡り人は「幸運の運び手」などと言われている。伝承に現れる渡り人は、常に王家に富や繁栄の栄誉をもたらしてきた。王家としては、ぜひとも迎え入れたいところだろう。
伝承の通りにあの渡り人が「幸運の運び手」であるかどうかは、実のところ重要ではない。ただ「幸運の運び手」とされている渡り人が王家の一員となったと、民衆や周辺諸国に喧伝できればそれでいいのだ。
だからあたしは邪魔だった。
渡り人を王家の席に迎え入れるに手っ取り早いのは婚姻という方法で、あたしはその貴重な席を埋めていた。そしてあたしは渡り人よりも法力が劣っているくせに、聖乙女の座にいた。
だから王家は、神殿は、聖乙女の首をあたしからあの渡り人にすげ替えるという選択を取ったのだ。
そうすればなにもかもが理想的だ。あたしという存在を除いては。
こんなあたしだけれど、結構王家にも神殿にも聖乙女として尽くしてきたという自負がある。
けれどもそんな自負は今や滑稽以外のなにものでもない。
あたしはただ、いいように利用され、消費された無様な女。それが現実。
昔から色んなものを犠牲にして、必死で聖乙女を目指してきた過去までもが、急に色あせて薄汚れたものに感じられる。
加えて、次代の聖乙女への引き継ぎ業務といったものもなく、追い出されるように聖乙女の任を解かれた。
血反吐を吐きながら聖乙女になって、
とにかく周囲からはありありとあたしを早く追い出したいという空気を感じた。
あたしの性格的に、新たな聖乙女となるあの渡り人になにかするとでも思われたのかもしれない。
たしかに一発かましてやりたい気持ちは、正直に言って、ある。
けれどもあたしだってそこは大人だ。感情だけで先走って、半殺しになんてしたりしない。
まあたしかに、今のあたしは手負いの獣だ。聖乙女の座を追われ、婚約者も失った。
聖乙女を「引退」することが決まったと同時に、婚約も解消することが決定された。表向きは、一年前の
その理由を半ば押しつけられた対価は、聖乙女を引退したあとに国から支払われる年金の加増。この事実を知っている者はほんの一握りしかいない。
片田舎で渡り人が発見されてからそう日は置かずに王宮へ上がった際に、陛下は田舎の静かな環境で静養すればいいと「提案」してくださった。
それは事実上のクビ宣告で、王命とほとんど同じ。あたしに選択肢なんてハナから存在しなかった。
あたしがひとりジタバタしたってどうしようもない。
聖乙女と褒めそやされて崇敬を集めていた存在とて、王家が支配する社会の歯車のひとつにすぎないのだ。
ただあたしはそれを大人しく受け入れて、陰で悔しさに歯噛みするほかなかった。
……だがすべてはもう、終わったことだ。
魔法女の黒服に袖を通したあたしは、だれがどう見ても、もう聖乙女ではない。
ケチな神殿と、理不尽を強いる王家とのあいだを取り持つ、クソみたいな環境からおさらばして、片田舎で悠々自適の年金生活を始める。
あたしは自分にそう言い聞かせて、トランクひとつにすべてを詰めて大神殿をあとにする。
見送りを申し出られたが、結局あたしはそれをすべて断った。あたしの中のなけなしのプライドがそうさせたが、後悔はなく、不思議と清々しい気分になれた。
あたしのすべてを詰め込んだトランクを持つのは、獣人奴隷のテオ。あたしが持つには少し重いトランクも、テオは苦もなく運べるようだ。
白亜の大神殿を出てまず晴々とした青空が目に飛び込んできた。雲ひとつないなんて珍しい。ここは都合よく幸先がいいと捉えよう。
大神殿の裏口からテオがトランクを持って出てくるのを見やり、あたしはくるりと体を反転させて彼と向かい合う。テオはあたしのそばまでくると歩みを止め、ぴくぴくと黒毛の犬耳を立ててこちらをうかがう。
「これからもよろしく。――ってもあんたはイヤだとしても、あたしとよろしくしなきゃなんないんだけどさ」
少々特殊な経緯はあるが、テオはあたしが所有する財産のひとつで、借金奴隷である。文字通り、金が返せなくて奴隷身分になった獣人がテオだった。
その身分から解放されるには、金で自分を買い取らねばならない。そうするまでは自分の身分を買い取った主人――つまり、あたしに従うほかない。いくらテオがあたしのことを嫌っていたとしても、だ。
しかしテオはぱちくりと瞬きをしたあと、いつもの奴隷らしくない口調で、気負いもなく答える。
「気にするな。犬の獣人はだれかのために働くのはさほど苦ではない。それにあんたをひとりでは放ってはおけないからな」
「放っておけないって……なにそれ」
「だれもあんたのことを心配などしないからな。不思議な話だが」
「『オレだけはあいつのことをわかってやってるんだぜ』ってやつ? ずいぶんな思い上がりね。……でも、ま、あたしの心配なんてだれもしてくれないのは事実だけど、あたしは別に心配なんてされなくても死なないから」
たしかにだれもあんな形で神殿をあとにするあたしを気にかけてはくれていない気がする。悲観的な妄想じゃなくて、これは純然たる事実だ。なにかまかり間違ってあたしが自殺するとか、だれも考えちゃいない気がする。
しかしまあ、あたしがそんなタマじゃないってことをみんな理解しているんだろう。
そうだ、あたしは自らの人生に悲観してどこかで身を投げたりするような、可愛らしさは持ち合わせていない。
腹の中で無限に怒りを放出しながら、地べたを這ってでも生き延びる。そういう図太さがあたしにはある。
でもまあ、それはそれとして――。
「心配してくれてありがとう。でもあたしはか弱い乙女じゃないから」
それは半ば、自分に言い聞かせるように。半ば、可愛げのないあたしの、可愛げのない虚勢。半ば、本心。
「さあ行きましょう。日が暮れる前には王都を出なきゃ」
テオの黒い瞳は「仕方ないやつ」とでも言いたげで、あたしの本心はこの獣人奴隷には筒抜けのようだった。
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