異世界からの聖乙女に能力で勝てない負け犬現地人元聖乙女。つまり、あたしの話。 ~負け犬現地人と獣人奴隷~

やなぎ怜

(1)

※当作品にはタグに記載がない通り、復讐・ざまぁ・元以上の地位に返り咲く逆転劇・出奔して仕返しするなどの要素は含まれておりません。わかってるよ! という方は下へどうぞ。


 *



 手を離したくなかった。


 この大仰で、いつも重くって仕方ないと鬱陶しがってた聖杖せいじょうを手離したら、いよいよあたしは聖乙女せいおとめじゃなくなる。


「――これにて聖乙女の任を解く。これまで大儀であった」


 朗々たる陛下の声が神殿の白い天井に反響する。


 銀刺繍が施された白衣びゃくえの裾に気を払いながら、あたしの去就のすべてをほとんど一方的に――強制的に決めた陛下へと深くこうべを垂れる。それを居並ぶ神官と貴族たちが見届ける。


 これをもって、あたしは聖乙女ではなくなった。


 これで、見慣れた白亜の大神殿ともおさらば。翼を生やした赤子のレリーフの微笑みが、あたしを嘲笑っているようにみえるくらい、参ってる。


 涙が出そうだった。けれどもそれは悲しみからくるものではない。悔しさと怒りに満ち満ちた、まったく可愛げのない涙だった。


 あの女がやってきて、あたしはすべてを失った。――アンナ・ヒイラギ。それがあの渡りびとの女の名前。口にしたくもない、忌々しい名だ。


 そんなごちゃごちゃとした気持ちを楚々とした白衣の下に押し込む。あたしは片足をわずかに引きずりながら赤い絨毯を下がり、もう一度陛下へ向かって頭を下げて、儀式の大広間から退場する。


 恐ろしいほどの沈黙が場を支配していた。それにはどこか「後ろめたさ」みたいなものを感じ取ったが、それはあたしの妄想だろう。せめて罪悪感を抱いていて欲しいと願う、あたしの浅ましい願望が見せた幻覚だ。


 外廊下へ出れば、大扉の近くに待機していた奴隷のテオが駆け寄ってくる。黒い犬の耳としっぽ、そして茶褐色の肌を持つ獣人奴隷だ。いつもの無表情で無感動な黒い瞳をあたしに向ける。


 あたしはそのままテオを引き連れて、不自由な足取りで大神殿内にある聖乙女の部屋へと戻った。質素倹約を体現したこの部屋とも、あと少しの付き合いだ。そう思いはしたものの、寂しさのようなものはまったく感じなかった。


 テオがそっとあたしの白衣に手をかける。武骨な手に反した、壊れ物を扱うような優しい手つき。けれどもそれが、今日は妙に気に障る。


 あたしは湧きだしたいら立ちのままに白衣を乱暴に脱ぎ捨てて、大理石の冷やかな床に叩きつけた。


 無惨にも床へと投げ出された白衣を、テオが拾い上げて埃を払う。いつもだったら「物に当たるな」とおおよそ奴隷らしくない物言いであたしに声をかけてくれるテオも、今日ばかりはなにも言わなかった。


 それが、悔しかった。


 気を使われている。


 弱々しい生類しょうるいを相手にするような、同情を向けられている。


 聖乙女として一身に崇敬を集めていたあたしは、今やそんなモノに落ちぶれている――。


 それが悔しくて悔しくて仕方がなかった。


「――どーせあんたも、あたしなんて、いなきゃよかったって思ってるんでしょ!?」


 馬鹿馬鹿しいセリフだった。自分の思い通りにならなくて、癇癪を起した子供ガキと同じだった。それでいて相手の罪悪感を、同情心を引き出すような言葉選び。なにもかもが醜悪で、滑稽で、無様だった。


 しかも今のあたしは白衣を脱いで下着姿。ますます馬鹿らしい。


 それでも止まらなかった。今日の今日、今の今までずっと押し殺してきた感情は決壊し、もはやせき止めることなど不可能だった。


 拳を振り上げて、物に当たりたかったが、あたしの中に残されたわずかばかりの理性が、その自傷的行為を抑制する。


 その代わりのようにあたしは肩を大きく上下させ、腕を震わせ、爪が食い込まんばかりに拳を握りしめて――泣いた。


 ぼろぼろと熱い涙がこぼれて止まらない。


 けれども下着姿で目を真っ赤にして鼻をすすりながら、歯を食いしばって泣くブサイクな女のご機嫌を取ってくれるやつらは、もういない。


 ――あたしの目の前にいる、この獣人奴隷こいつ以外には。


「目が腫れるぞ」


 テオはいつものぶっきらぼうな口調で、しかし優しい声音であたしに白いハンカチーフを差し出した。


「わかってる」。そう言いたかったが、口を開いたら本格的に泣き声を上げてしまいそうで、あたしは唇を噛みしめたままハンカチーフを受け取って、そっと涙をぬぐった。


「明日にはここを出て行くんだ。そのときに、目が腫れた姿は見せられないだろう?」


 下手な慰めの言葉よりも、その言葉はあたしの心に響いた。


 ぽっと出の渡り人に法力ほうりきで負けて、無様に失脚して神殿を去るあたしだが、それでも義理で見送りくらいはしてくれる人間はいるだろう。


 そう思うと最後はせめて美しく去りたい。どれほど滑稽だとしても、背筋を伸ばして、シャンとした姿を見せつけてやりたかった。


 それは他人の目には強がりに映るだろうし、実際にそうなのだが、それでもせめてあたしのプライドは守りたかった。既にずたずたにされて久しいプライドを。


 渡されたハンカチーフで鼻をかむ。品のない音が部屋に響く。


 そうしているあいだにテオはあたしが叩きつけた白衣を衣裳部屋へと戻し、魔法女まほうめの黒い服を持ってきていた。


 久方ぶりに袖を通す魔法女の服。これであたしは名実ともに聖乙女ではなくなり、一介の魔法女に戻った。


 そう思うと悔しさがまたぶり返してきて、じんわりと涙がまなじりに浮かぶ。


 死ぬまで聖乙女でいられるとは流石に思ってはいなかった。法力はどうしても加齢に伴って落ちて行く。だからいずれは魔法女に戻る日がくるのはわかっていた。


 けれどもまさかこんな風に魔法女に戻る日がくるとは思わなかった。


 一年前に魔獣狂乱スタンピードの討伐に参加した際、あたしは不幸にも片脚に怪我を負った。もう二度と走ることはできないと宣告され、怪我の影響で下がった体力と比例するように法力もわずかに弱まった。


 それでも、他の魔法女に比べればあたしの法力は絶大で、聖乙女としての地位が揺らぐことなんてなかった。


 それにあたしはいくつかの村を滅ぼした魔獣狂乱スタンピードから王都を救った英雄だった。だから、だれも文句を言いたくても言えなかった。言わせなかった。


 けれども渡り人が現れて、あたしはあっという間に一介の魔法女に戻された。


 聖乙女には渡り人の方がふさわしいと言われて。あたしよりずっとずっと優秀な聖乙女だと言われて。


 涙がまたこぼれる。


 テオは無言であたしの涙をハンカチーフで吸った。


 聖乙女になる前も、なってからも、だれかに弱音なんて吐いたことはなかった。けれども、聖乙女のときにあたしが泣いたら、きっと周囲は大慌てであたしの機嫌を取ったハズだ。


 魔法女からたったひとつの席である聖乙女に至るまでの道は苛酷だが、そのぶん聖乙女となればその権勢は絶大だった。平民から貴族まで崇敬を集め、下にも置かない態度でおもねられ、おべっかを使われる。


 けれども今やこうしてあたしの涙に気を払ってくれるやつは、テオ以外には、いない。


 それが聖乙女でなくなったあたしの、今の価値のすべて。


「あはは。なにもかもなくなっちゃった」


 かすれた、乾いた笑いが出る。


 聖乙女でなくなったあたしに価値を感じていない一番の人間は、きっとあたし自身だ。


 物心ついたころには貧乏のどん底で、そんな境遇から抜けだしたくて魔法女になった。


 それこそ比喩でなく血のにじむような努力をして、血反吐を吐きそうになりながら法力を高めた。


 聖乙女を目指す魔法女同士の熾烈な競争を制して、聖乙女に選ばれてやっと運が向いてきたと思った。


 だから、聖乙女の仕事で手を抜いたことは一度としてない。


 俗世を離れていたから、親の死に目にだって会えなかった。それでもあたしはひとりになったときだって、泣いたりはしなかった。


 ……その結末がこれか。


 そう思うとまた悔しさと涙がぶり返してくる。


「ペネロペ」


 テオがあたしを呼ぶ。


 テオは棒立ちで突っ立ったままのあたしの足元で膝をつき、うつむくあたしの顔を見上げた。


「オレがいるだろう」


 一寸の疑いも抱いていない、真っ黒な瞳にあたしが映る。ブサイクな泣き顔を晒す女は、怒っているとも泣いているとも判断がつかない顔をしていた。


 テオはぴんと犬耳を立てたまま、拳を作るあたしの手をそっと取る。そうしてあたしの強張った指をひとつひとつ丁寧にほぐして伸ばす。あたしの手のひらには爪が食い込んだ、赤い三日月型の痕ができていた。


「オレはどこにもいかない。オレはあんたの奴隷のままだ」


 おおよそ奴隷とは言い難い口調でテオは静かに告げる。


 あたしはハンカチーフで自らの涙をぬぐった。いつの間にか荒々しかった呼吸も落ち着いていて、ハッキリと言葉を発せるように戻っていた。


「神に誓って?」

「ペネロペに誓って」

「……わかった。もし、嘘をついたらその舌を引き抜いてやるからね」


 いつまでも、くよくよなんてしていられない。


 あたしの聖乙女としての人生は今日終わったが、あたし自身の人生はまだまだ続いて行くのだ。


「テオ、水を持ってきて。……まぶたを冷やさなくちゃ」

「わかった」


 悔しい気持ちは消えないけれど、でも、もう泣くのはこれでおしまいにしよう。


 テオがいるから、もうさめざめと泣くのはやめにしよう。


 明日からまた、あたしはあたしの人生を生きて行かなければならないのだから。

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