(6)
「まだ起きてるのか」
「……あんたもね。さすがに床じゃ眠れないんじゃないの?」
「そんなことはない」
ベッドに近づいてきたテオが、あたしの顔を覗き込むようにして身をかがめるのがわかった。
テオの表情はよく見えない。鎧戸の隙間から差し込む月光だけが、唯一の光源だった。そんな中ではテオらしき黒々とした細長い物体が、あたしのそばでうごめいている、くらいの視覚情報しか得られない。
それでも気配はいつものテオのそれで、あたしはいくらも不安に思うことはなかった。
あたしはテオに全幅の――と言えば言いすぎだが、まあとにかく信を置いている。
テオはあたしを裏切らない。……いや、裏切れないのか。テオの性格を思えば。
……とかなんとか、心の中でイイコトを言っていたというのに――。
「テオ?」
テオの右膝があたしが寝ているベッドのフチに沈む。
次いで背を丸めるような姿勢となったテオの両手が、あたしの顔の両脇に置かれた。
ずしり、とテオの体重がかけられたぶんだけ、ベッドのスプリングがきしむ。
いつもはテオの顔を見れば黒々とした細長い瞳が目につくけれど、今はその目の脇にある白い部分に視線が向く。
体にのしかかられたわけじゃないから、テオの重さは感じない。けれどもまるで、ベッドに押し倒されたような形になっている事実はいただけなかった。
しかしそこまでされても可愛らしくあわてるような感情は、あたしの中には湧かない。
ただ粛々と、テオの体があたしよりもずっと大きいという事実を、ぼんやりと認識する。
テオが男であるとかを気にしたことはなかった。信頼できる奴隷だと思っているから、聖乙女を解任されたあの日にだって、下着姿を晒せた。
けれども今は、どうしようもなく――テオが男なのだということを感じている。
見上げれば筋肉のついた胸板。脇に目をやれば筋張った男の手。釣り上がった切れ長の瞳を持つ顔は、頑張れば麗人に見えなくもないが、しかし、あたしには男にしか見えなかった。
テオの美しい瞳が細められる。
この顔を持っていて、性奴隷の経験がないというのは僥倖かもしれない。あたしと出会わなければ、今どこかでテオはそういう扱い方をされていてもおかしくないていどには、容姿に優れている。
でもいくらテオが美しいという客観的事実があったとしても、あたしからすればテオはテオなのだ。
あたしのことを「あんた」と呼んで憚らない、尊大な態度が可愛げのない奴隷なのだ。
けれどもテオにとってはどうも、違うらしい。違うと、言いたいらしい。
「――もう我慢しなくてもいいんだな」
「……は?」
「以前は婚約者もいるからと諦めていたが」
「は?」
テオの熱に浮かされたような目を見て、気づかないほどあたしはにぶちんじゃない。
たしかにあたしは処女だ。聖乙女を務めていたのだから当たり前だ。
加えて、恋すらしたことがない。みんなが恋をしている時間までもを使って、あたしは法力を高めて聖乙女になったのだ。
そんなあたしでも、テオの今の態度が彼のなにを示しているのかはわかった。
「あたしで発情できるの?」
あたしは冷静に、そしておどろきをもって、テオにそう問うた。
「愛しているから心配しないでくれ」
「いや、まず発情していることを否定してよ」
「男の犬の獣人には明確な発情期はない」
「そうなの? ……って、聞きたいのはそういうことじゃなくって」
会話が微妙にズレてきていることを感じて、あたしは軌道修正する。
「あなた、あたしのことが好きなの? 寝耳に水だわ」
「寝耳に水は言いすぎだろう。あんたはオレからの好意を感じていたはずだ。そこまでにぶくはないだろう」
「まるであたしがにぶいのが前提みたいな言い方」
「事実、オレの好意に気づいていない。……いや、気づかないフリをしていたというところか」
テオがあたしのことを大切にしてくれている、ということくらいは、ちゃんと感じ取っていた。
それこそあたしたちのあいだには、奴隷とその主人という以上の絆、みたいなものがあったハズだ。
「あたしは単なる好意と恋情を履き違えたりしない」
「……オレが履き違えているとでも?」
「……あたしがあなたを助けるようなマネをしたから……。それに、あたしはサディストじゃないから、あなたにひどいことをした覚えもないし」
「勘違いなんかじゃない」
いつもより語気を強めたテオの言葉に、あたしは一瞬だけ息を詰める。
「あんたは?」
「別に……あたしがどう思っているかなんてどうでもよくない? あなたはあたしの奴隷。言う通りにしていればいいの」
ベッドに寝転んだ体勢のまま、あたしに覆いかぶさっているテオの腹に、立てた膝を軽くぶつける。
テオにはなんてことのない攻撃だっただろうけれど、彼は渋々と諦めたようにあたしの上から体をどけた。
けれども今度はあたしのベッドのフチに腰を下ろして、まだ話があるようだった。
「まだあの女を恨んでいるか」
「あの女……アンナ・ヒイラギのこと?」
「ああ」
「……当たり前でしょ。あたしが血のにじむような努力をして手に入れた聖乙女の座を、あの女はなんの努力もなしに手に入れたんだから」
ムカムカとした消化できない気持ちを抱えたまま、あたしはまだ話があるらしいテオに付き合って、上半身を起こす。枕に押しつけられて乱れた髪を整えるために、赤髪に指を通す。
薄暗がりの中でテオと顔を合わせる。彼は相変わらず感情がわかりにくい。この暗がりの中では、なおさら。
だからだろうか、次にテオの口からなにが飛び出してくるのか、あたしにはさっぱり想像がつかなかった。
「恨むのはやめて、オレと生きる気はないか?」
「はあ?」
「正直に言って……恨み辛みに囚われているあんたを見たくはないという、オレの身勝手な願いではある。だが、一考の余地はあると思う」
いつになく控え目なテオの物言いに、あたしは呆気にとられた。
しかし間もなく我に返ってテオの言葉に反論を加える。
「まず、あたしがどうとかいうのは置いておいても、あの女を恨み続けることと、あなたと生きる? とかいうことは両立できるわよね?」
「そうだな。だがオレはイヤだ」
「なぜ?」
「オレと生きてくれると言うのならば……オレだけを見ていて欲しいからだ」
てっきり「怨念に囚われるのはよくない」とか、説教じみたことを言われると思っていたあたしは、テオのあまりに自己中心的なセリフを受けて、二度呆気にとられた。
「それに、あんただってわかっているはずだ」
「なにを?」
「あの女ひとりを恨むのは違うということくらい、あんたもわかっているだろう」
テオの言葉に、気がつけばあたしは手元にあったシーツを握りしめていた。
「……っかってるわよ」
最初の一音はかすれて、言葉にならなかった。
わかってる。わかっている。あの女を――アンナ・ヒイラギひとりに恨み辛みをぶつけることは、「違う」っていうことくらい、わかっている。
恨むべき相手はもっとたくさんいるってことくらい、わかっている。
人心を集めるために、そして将来的に王室へ送りこみ、恩を売ることを見越して、聖乙女の座をぽっと出の渡り人に明け渡すことを決定した神殿。
「幸運の運び手」と言われる渡り人を王家の血筋に取り込むために、神殿の決定に異を唱えずあっさりとあたしの退任を承認し、第七王子との婚約をなかったことにした王室。
でもあたしは聖乙女を辞めさせられても、魔法女として神殿の描く組織図の中で生きて行くしかない。それ以外の生き方を、あたしは知らない。
そしてたとえ煮え湯を飲まされても、国に歯向かうほどの根性は、あたしにはない。
わかっている。あの女ひとりだけを恨むのは、違うってことくらい。
けれども――。けれども、だ。
「わかってるわよ。でも、悔しいのよ。あれだけ血反吐を吐いて習得した法力が、真実なんの努力もしていないあの女に負けたこと。自分が情けなくって、悔しくって、消えてしまいたくなる。だから、どうしてもあの女が許せない」
わかっている。片田舎でひっそりと生きて行くよりは、神殿と王室の保護を得て生きて行く方が堅実だってことくらい。渡り人であるあの女には、自分を守り慈しんでくれる家族はいないのだから。
だからあの女が拒絶も辞退もせず、聖乙女の座を受け入れたことについては、頭の中で気持ちの整理はできている。
けれども、どうしても心がついて行かない。
「あの居場所をあっさりとあきらめられたら、今こんな気持ちでいるわけがない。……わかるでしょ?」
あたしは笑っていた。歪んだ笑みを浮かべているのが、自分でもわかる。
それがこの薄暗い部屋にいるテオに、どれほど伝わるかはわからなかったが。
「オレと生きる気はないか?」――。あれは、テオなりの、最大限の慰めの言葉なのだろう。
そしてあたしは、そんな風に慰められるまでに落ちぶれている。
そういう考えが浮かんでしまうくらい、あたしの心はひねくれて、ねじれている。
「……なんであたしのことを、こんなに気にかけてくれるの?」
他人の好意を素直に受け取れないことがどれほど醜いか、あたしにだってわかる。まだ、それくらいの理性は残っている。
聖乙女を辞めさせられた日に散々荒れたあたしを見ているというのに、テオはまだあたしに優しい言葉をかけてくれる。かけられる。それが、あたしには不思議だった。
けれどもひねくれもののあたしは、テオに「あたしのことをそんなに好きなの?」と直截には問えなかった。
あそこまで醜態を晒しておいて、まだ羞恥心が顔を出す。
「そうだな……あんたを利用できるだけ利用すれば将来は安泰だからな。――とでも言えば、あんたは納得するか?」
「頭では理解できるわよ」
「あんたはひねくれものだからな。だから放ってはおけないし、そういうところも好きなんだが」
「はあ……あんたって、変わってる」
「『あばたもえくぼ』と言うだろう。あと『恋は盲目』」
「つまり目が曇っているってことね?」
「それでもいいだろう」
テオを見る。テオもあたしを見ていた。
そしてテオは
薄暗がりでも、それがわかった。
「それでも楽しいからな」
「はあ……よくそんなこと、恥ずかしげもなく言えるわね」
あたしはあからさまな、大きいため息をついてやる。
顔はかっかと熱くて、たぶん日の光の下だったら、あたしの頬が赤く染まっていることをテオは確認できただろう。
「……でもまあ、ちょっと元気が出たわ」
「それならなにより」
「……じゃ、おやすみ。明日からまた仕事があるんだから、もう寝るわ」
恥ずかしさを誤魔化すように発せられたあたしの言葉に、テオは異を唱えなかった。
ただいつものようにぶっきらぼうな口調で、「あしたからまたよろしく頼む」とだけ言って、床に置かれた毛布へと戻って行った。
あたしはそんなテオの優しさに、ちょっとだけ涙する。本当にちょっとだけだったが、じんわりと目頭が熱くなった。
それは自身への情けなさから出たものでも、恨み辛みから出たものでもなかった。
テオの優しさが純粋にうれしくて、あたしはその思いを大切に噛みしめるようにして、眠りに就いた。
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