(30)
「獣人の脚がこんなに速いなんてね。ちょおーっと距離が足りなかったかな? これは純粋な誤算だ」
ヘクターは軽口を叩いたものの、拘束魔法を抜け出すだけの力は残っていないのか、あるいはそもそもないのか、その場から逃げようとする気配すらなかった。
あたしもヘクターの意識をそらすために結構法力を消費してしまった。
しかし今のヘクターは走って逃げられるような状況ではないだろう。もうこの場には移動魔法で別の場所へと飛ばしたテオが、戻ってきているのだから。ヘクターが犬獣人の脚力に勝てるような健脚の持ち主には見えなかった。
他方、隣の木から跳躍し、華麗にヘクターを蹴り落としたテオは不機嫌そうな目で彼を見ている。
まあ、移動魔法をぶつけられて、よくわからない場所に飛ばされたら、うらみがましい目も向けたくなるだろうな……。
それよりも今はまだ姿が見えないイルマが気になる。
とは言え、彼女も聖乙女候補だった実力者。すぐに探査魔法を展開してこちらの姿を捕捉するくらいはしているだろう。
同じように一時的に探査魔法を展開し、こちらへと近づいてくる白い点を確認してあたしはテオを見た。
「白い点がこっちに移動してきているわ。たぶん、イルマだと思うけれど……油断はできない」
「向こうからやってきているなら、こちらからは移動しない方がいいだろうな。万が一、こいつの仲間であれば、迎え撃てばいい」
「僕の仲間だったらとっくに脱出してるよ」
「お前には聞いていない」
ピシャリと言ってのけるテオに、ヘクターは眉を下げて笑う。
「手厳しいね」
「当たり前だ」
そしてあたしはここにいたって、アンナ・ヒイラギが会話に参加していないことに気づいた。
あれだけの法力を放出したのだ。力尽きて倒れているんじゃないかと思って周囲を見やる。
アンナ・ヒイラギはあたしたちが集まっている場所から少し離れた後ろで、
あたしを上回る法力の持ち主と言えど、あのような竜巻めいた法力の放出を行えば、腰が立たなくなってもおかしくはない。
アンナ・ヒイラギにはやはり思うところはあるものの、彼女のお陰でヘクターを捕縛できたことも事実。
ここは大人になってアンナ・ヒイラギをねぎらい、礼を言うべきだろう。
そう思ってあたしはヘクターをテオに任せて、アンナ・ヒイラギに近づいた。
「意外とやるじゃないの、アンナ――って、泣いてるの?」
聖杖にすがるようにして座り込んでいたアンナ・ヒイラギの顔を覗き込む。
彼女の野暮ったい目には涙が浮かび、白目が充血してますます野暮ったい雰囲気になっていた。
あたしはアンナ・ヒイラギがなぜ泣いているのか、さっぱりわからなかった。
なんだかんだでヘクターが怖かったのか、それとも――。
「わた、わたし……王都にきてから、初めてだれかの役に立ててっ……それが、それがうれしくて……」
アンナ・ヒイラギは胸に押し込めていたものを広げるようにして、ぽつりぽつりと愚痴めいた話をする。
神殿には居場所はなく、魔法女には陰口を叩かれ、また恐らく反アンナ派だろう神官には放逐をほのめかされる――。
教育係のイルマはアンナ・ヒイラギによくしてはくれるものの、近頃は目に見えて疲労していた。
法力が使えないことにあせるばかりで、アンナ派だろう神官たちも楽観的なことしか口にはしてくれない。
神殿内では表立って非難されない一方、息抜きにと出た市井では聖乙女のあることないこと、悪い評判ばかりが流れている……。
唯一の目立った味方は第七王子のツェーザルくらいで、それでも彼は魔法女も聖乙女でもないから、真にアンナ・ヒイラギの悩みの役には立てなかった。
「でも、でも、あの魔女の人に『法力を撃て』ってペネロペさんに言ってもらえて……初めて頼りに応えられた気がして……」
鼻を鳴らしながら答えるアンナ・ヒイラギを見ていると、彼女を心の中で腐していた自分が、急に矮小な存在に感じられた。
当たり前だが、法力が使えないことを一番気にしているのはアンナ・ヒイラギ自身だった。
あたしはそれをなんとなく無視していたのかもしれない。彼女が、悪口を言うに値するような、そういう人間であって欲しいというあたしの浅ましい願望が、そうさせたのかもしれない。
「あの……いつだったか殿下が言っていたんです。以前の婚約者の人にはひどい態度を取ってしまったって。本当だったら自分がかばってやるべきだったのかもって……だから、反省して今度はわたしのことを守るって、言ってて……。だから、その」
「……ツェーザル殿下には悪い感情を抱くなって?」
「あの、わたしにはおふたりのあいだになにがあったかなんてわかりませんけど……その、殿下は悪い方ではないと、思うんです。殿下がわたしをかばってくれるようになったのは、ペネロペさんのお陰ということになるというか……。うまく、言葉にできないんですけど……」
アンナ・ヒイラギのことをやっぱり好きになれないのは、あたしたちが決定的に違うからなんだろう。生まれ育ちも違うし、物事に対するスタンスも違う。だから、なんとなく相手のことがわからなくて、苦手に思ってしまう。
アンナ・ヒイラギの言い方はあまりいいものではなかったが、つまるところ「ツェーザル殿下のことを悪く思わないでくださいね」ってとこなんだろう。
ハンスの――ローゼンハイン邸での出来事をもしかしたら気にして、こんなことを急に言い出したのかもしれない。
なかなかあたしに言い出すタイミングがなかっただろうし、あたしはあたしでアンナ・ヒイラギの話を聞くそぶりなんてものは見せていなかっただろうから。
だからここで言いたいことを言ってしまおうという算段なんだろう。
今はそういう空気になっていて――だからこそアンナ・ヒイラギはそういうことを言い出したんだと思う。
「あの、前から疑問に思っていたんですけど……どうしてペネロペさんは……その、奴隷を連れていらっしゃるんですか?」
「……どういう意味?」
「えっと、なんだかイメージにそぐわないというか……非人道的じゃないですか」
「……つまり、あたしが奴隷を虐待する鬼畜女だって言いたいの?」
「ち、違います! 決してそういうことを言いたいわけじゃなくて……」
あたしはにわかに雲行きが怪しくなってきたのを感じた。
なぜ、アンナ・ヒイラギが奴隷を持つことを非難がましい口調で告げたのか、あたしにはさっぱりわからなかった。
あたしはテオをひどく扱ったことなんてない。とうてい無理な命令を下したことだってない。
それなのになぜ「非人道的」などと言われるのか、あたしにはまったくわからなかった。
「奴隷なんて、イヤに決まってるじゃないですか」
「そりゃ、だれかにこき使われるのはだれだってイヤでしょうね」
「だからその……その人の意思を無視して奴隷として扱うっていうのは、聖乙女のイメージにそぐわないって言うか……」
アンナ・ヒイラギは必死で説明しようとしている、ということだけは伝わってくるが、言っていることの意味はあたしにはやっぱりわからなかった。
あたしは早々にこれは知能の問題ではないなと思った。なにか、決定的な齟齬があたしたちにはある。それはたとえば、生まれ育った環境とかに起因する、どうしようもないものなんだろう。
それでもアンナ・ヒイラギは必死になにかを伝えようとしてくる。
けれどもそれはどうしてもあたしを非難しているようにしか聞こえない。
つまるところ、アンナ・ヒイラギにとって奴隷を持つということは即「いけないこと」に繋がるらしい。
しかもその「いけないこと」とは「非人道的」である、という意味のようだ。
……やはりあたしにはよくわからなかった。
「……悪いんだけど、あたしにはさっぱりわからないわ」
「テオさんに聞いたことはあるんですか? ペネロペさんの奴隷でいるのはどうなのかって」
思えばアンナ・ヒイラギもずいぶん熱心である。
熱心すぎるあまりにいつものオドオドとしたムカつく雰囲気は消えて、かわりに正義感みたいなものに勝手に燃えているらしいムカつく態度に変わっていた。
……いずれにせよムカつくことには変わりないというのは、あたしたちの相性が徹底的に悪いことを示しているようだった。
あたしはアンナ・ヒイラギに反論しようとした。
もちろんテオは解放奴隷になりたがっている、というのは知っていたし、あたしだってそれに協力することはやぶさかではない。
しかしテオはあくまで莫大な借金を自力で返すために奴隷となり、コツコツと働いているのだ。
そこに勝手な想像で茶々を入れることは、傲慢ではないのか? と、あたしは言いたかった。
が――。
「いちいちうるさい女だ。お前が借金の肩代わりでもしてくれるのか?」
「え……」
先に口を開いたのはテオだった。
片手でヘクターの襟をつかみ、ずるずると引きずりながらこちらへズンズンと大股で向かってくる。
テオに引きずられたヘクターは「修羅場に突っ込みたくないんだけどなあ」と、ぶつくさと文句を言っていたが、それを相手にする人間はこの場にはいなかった。
アンナ・ヒイラギは闖入者にびっくりするような顔をしている。自分たちの会話が聞かれているという意識が欠落していたのかもしれない。
この距離なんだから、当然テオたちにも聞こえているだろうことは、ちょっと想像を働かせればすぐにわかるだろうに。
テオに口を挟まれたアンナ・ヒイラギは、急にまたオドオドとした態度になる。
それを見たテオは、あからさまに大きなため息をついた。
「オレは借金を返済しない限り解放奴隷にはなれない。……できもしないことにクチバシを突っ込まないでくれ」
「でも……奴隷なんて……」
「たしかに奴隷なんていいもんじゃない。オレだって身をもって知っているさ。だが、オレはペネロペの奴隷になることを選んで、後悔したことなんてひとつもない。それに――」
いつもの歯に衣着せぬ物言いが、今日はさらに鋭さを増しているようだった。
いや、それはあたしの錯覚かもしれない。テオがちゃんと、あたしたちのこれまで積み重ねてきた関係をわかってくれているという喜びからくる錯覚であって、テオはまったくいつも通り――。
「オレは、ペネロペの恋の奴隷だからな」
――いつも通り、じゃない!
なぜか満足げに笑みを浮かべるテオを見て、あたしは「うまいこと言ったつもりなのか?!」と心の中で盛大に突っ込んだ。
アンナ・ヒイラギはぽかんと間抜けに口を開けてテオを見ていたし、テオに襟首を掴まれているヘクターの肩は笑いをこらえているのか震えていた。
それを見ていると、なんだかアンナ・ヒイラギ相手にマトモに反論しようとしていた自分が、急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「――それ、今言うべきことなのかしら?」
「当たり前だろう。今言わずして、いつ言うんだ」
「……もしかして、前々から考えていたセリフとかじゃないわよね?」
「…………」
テオはなぜかあたしから視線をそらした。……図星なのか?
けれどもそんな珍しいテオの態度を見ていると、アンナ・ヒイラギに感じていた微妙な不快感はどこかへ消えてしまった。
そうするとテオのセリフや態度が妙に面白くなってきて、あたしは自然と笑い声をこぼしていた。
テオはそれに若干不服そうな顔を見せる。
「……あのふたりはさ、もう主人と奴隷とかいう関係をとっくに超えているんだよ。君がなにかを心配するまでもなく、ね」
拘束魔法をかけられたままという間抜けな姿のままだったが、ヘクターはアンナ・ヒイラギに言い聞かせるような口調でそんなことを言った。
しかしあたしは笑いが止まらなかった。
こんなに笑ったのは久しぶりという笑いが止まったのは、ぜえぜえと肩で息をする必死の形相のイルマがあたしたちに合流してからだった。
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