第15話 帰省したムスコ(田植え編)

 翌日、清太郎君が目を覚ますと、隣に雛子さんの姿はなかった。布団は綺麗なままである。すでに雛子さんは起床していて、布団を整えてどこかに行ったのだろうか。


 やや二日酔いの頭痛を感じつつ、清太郎君は台所へ向かった。


「お、おはよ。清太郎君」

「おはよう、清太郎」


 台所には雛子さんと父が立っており、朝食を作っている最中だった。雛子さんのスカートがやや乱れているところが気になる。随分と慌しく調理していたらしい。


「雛子さん、少し顔が赤くない?」

「あっ、うん……やっ、野菜が硬くて、なかなか切れないから、つい力を込めちゃって……」

「そうなんだ」


 雛子さんが使っているコンロでは、根菜のたっぷり入った味噌汁が温められていた。硬い野菜が多くては、切れ味の悪い包丁だと下ごしらえに苦労する。


「そりゃもう、雛子ちゃん、すごく踏ん張ってたよ。大声まで上げちゃって、あんなに力を込めてた雛子ちゃんを見たのは初めてだったよ」

「やだぁ、もう、お義父とうさんったら」

「はっはっは」


 雛子さんと父の仲はかなり深まっているらしい。

 昔、雛子さんが清太郎君の家に嫁入りした頃、こちらの家族と仲良くなれるか不安だったが、うまくイッているようで安心した。


 こうして清太郎君たちはこげ茶色のちゃぶ台を囲んで朝食を取った。


「今日は町内会で野菜や稲の植え付けをするんだけど、清太郎も来るよな?」


 食事中、父からそんな話題を切り出される。

 そう言えば、昨夜、風呂場で雛子さんがそんなことを言っていたような気がする。

 しかし、清太郎君には別の予定が入っており、行事に参加することはできなかった。


「ごめん、僕も参加したいところなんだけど、これからリモートで仕事をしなきゃいけなくて……」

「清太郎君ったら、実家に帰省しているときくらい、仕事くらい休めばいいのに……」

「作業に少し遅れが出ているんだよ。申し訳ないけど、農作業は雛子さんにお願いしていいかな?」

「しょうがないなぁ、清太郎君は……」


 こうして父と雛子さんは軽トラで町内会の会合に出かけた。一方、清太郎君は実家に一人残り、持ってきていたラックトップで仕事に取りかかる。車の音や、人の声すら聞こえない静かな空間。

 さすがに、誰かいないと寂しいものである。職場ではいつも誰かが一緒に作業してくれる環境があるのだが、一人での作業はどこか不安になってしまう。

 せめて、雛子さんが傍にいてくれたらいいのになぁ。


 そのとき、雛子さんから電話がかかってくる。


「やっほ、清太郎君? 何してる?」

「仕事だよ。雛子さんこそ、ナニをしてるの?」

「今ね、んっ、種まきの準備をしてるとこ。町内会の会長さんのお手伝いだよ。清太郎君にも、私がどんなことしてるのか教えてあげようかな、って思ったの」


 何か、雛子さんの声を聞くと安心する。妻の声とは、こんなにも自分の心を穏やかにしてくれるのか。こういう感情を思い出す度に、結婚して良かったなぁと振り返るのである。


「それじゃあ雛子さん、始めようかねえ」


 そのとき、電話の向こうから、陽気そうな老人の声が聞こえる。彼が雛子さんの言う会長だろうか。これから農作業が始まるらしい。


「種を入れる穴を、ほら、こうやって……少し指でほじるぞ?」

「はいっ、あっ、んうっ!」

「結構深めに入れるからな。穴を広げるような指使いで……」

「あんっ、はっ……巧いですね。はぅっ!」


 どうやら畝に種を入れるための穴を作っているようだ。会長が見本を見せ、その作業のスピードに雛子さんは驚いている。


「んあっ! ひゃうぅっ! イッ……んくぅ!」

「ハッハッハ、水撒きのタイミングはもっと後からでいいんじゃよ」

「はぁん……んぅ……はぁっ、はぁっ……ごめんなさい」


 タイミングを誤って水を撒いてしまったのか。相変わらず雛子さんはおっちょこちょいを発揮しているらしい。これ以上、会長に迷惑をかけなければ良いが……。


「じゃあ、雛子さん、次はこちらをヤってもらおうかな」

「そうですね。こっちが本番ですもんね」

「どうかな? 感触は? なかなか深いじゃろう?」

「んっ、やぁん……ぬるぬるしてて、気持ちいいです……深くまで入っちゃいましたぁ」

「雛子さんが想像しているよりも沢山のオタマジャクシが出るかもしれんから、驚かんようにな?」

「やだぁん」


 今度は田植えのために、田んぼの中へ入ったのだろう。泥の中にはオタマジャクシも沢山いるはずだ。


「ほら、もっと腰を落として」

「こ、こうですかぁ? んっ、くぅん」

「そうそう。この体勢なら奥まで入って植え付けやすいからのぅ」

「そ、そうですね……んぅぅ……」

「ほらほら。根元まで埋まりやすいじゃろ?」

「は、入ってますっ……奥っ!」


 苗の根が土の奥深くまで入っていくよう、町の長老は植え付けの体勢についてレクチャーしているらしい。


「苗の植え付けって、大変なんですね」

「そうじゃよ。この歳になると、体力的に難しくてな。だけど、雛子さんのおかげで元気が出たし、このとおりピンピンしとるわい」


 町内は全体的に高齢者が多く、農業の後継者や人手の確保に苦労している――という話は、自分の父親から何度か聞いたことがある。若い人が手伝いに入ってくれて、きっと会長も喜んでいるのだろう。


「ほらほら、もっと腰を動かして」

「こんな感じ……ですか?」

「おほっ! なかなか良い! さすが、腰づかいが違うな!」

「わ、私もっ、スイッチ入ってきました!」

「そろそろ儂の体力が……」

「お、お爺さんは休んでてください! 私が、お爺さんの分も動きますから!」


 やはり、高齢者は体力が落ちているのか。会長の分の残った作業を、雛子さんが引き受けることになったらしい。随分と健気に働くものだな、と清太郎君は感心していた。


「ほらっ! 儂の作った苗……全部、出してくれ!」

「はい! 全部ぅ! 貰ってイッちゃいます!」

「おっ……ほおおっ……!」

「はぁん! イッ……この、深いところに……挿してっ! んぅ! いっ、います! ここに、すごい数のオタマジャクシがいます! 沢山、出てきて……うんっ! ハアアアアアアっ!」


 どうやら、泥の中に潜んでいたオタマジャクシが大量に飛び出し、雛子さんは驚いて変な声を上げてしまったらしい。そんなに沢山いるのなら、自分も是非見てみたいところである。


「はぁ……あはっ……こんなに沢山、植えちゃいましたぁ」

「雛子さん、手応えはどうかな?」

「思ってたよりも、うまくデキたと思います」

「ほほぅ……育ってくれるのが楽しみじゃのう」


 どうやら田植えは終了したようだ。

 荒かった雛子さんの呼吸は落ち着き、一休みしているらしい。これで、この地域の農家も少しは救われただろうか。自分の代理として参加している雛子さんには、頭が下がるばかりである。


「雛子さん、もうひとつ頼みたいことがあるんじゃが?」

「何でしょう?」

「今、村の男たちがキノコを収穫したいそうなんじゃが、人手が足りなくてな。雛子さんにも手伝ってもらいたい」


 まだまだ農作業は続く。すっかりスイッチの入ってしまった雛子さん、それに付き合うつもりなのだ。


「村の男たちが大切に育てたキノコ、収穫して、味わってイかないかい?」

「はい! イキます! ヤらせてください!」

「いやぁ、ありがたい! さ、みんな隣で待っておる。頑張るんじゃぞ!」

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