第8話 ムスコの高校受験(数学編)
雛子さんは家庭教師として、近所の家に出かけた。というのも、実は清太郎君の叔父夫婦がアパートの近くに住んでおり、現在彼らの息子が中学生で、来年には高校受験を控えているらしい。
雛子さんは大学を卒業しており、中学の勉強を教えるための学力は申し分ない。清太郎君の叔父夫婦から「是非、雛子さんに息子の勉強を見てもらいたい」と頼まれたのだ。
しかし、雛子さんは大学で教職課程を受けていたわけではない。経験もなしに、ちゃんと教えられているのだろうか。
ふと、清太郎君は授業の様子が気になり、その従弟に電話をかけた。
「もしもし、倫太郎君?」
「どうしたの、清太郎お兄さん?」
従弟の名前は「倫太郎」という。目元や髪質が清太郎君にそっくりな男の子である。
「そこに雛子さん、いる?」
「うん……あっ……い、いるけど……」
「もしかして清太郎君? 授業の最中なのに、どうしたのぉ?」
倫太郎君の横から雛子さんの声も聞こえる。
「ちょっと授業の様子が気になっただけなんだ。雛子さんは倫太郎君の力になってるかな、って」
「だ、大丈夫だよ。変なことはしてないし」
「どう? 雛子さんは分からないところをちゃんと教えてくれる?」
「うん。雛子さん、温かくて、優しくて……問題解けたらご褒美くれるし……」
「ご褒美?」
「おっ……おっ……パイ、じゃなくて、ほらっ、お、お菓子だよ。アツアツで、フワフワの……」
「パイじゃないアツアツでふわふわのお菓子……? もしかしてスフレのこと?」
「そ、そう! それ! あっ、レーズンが、入ってて、食感が、なかなか良くて……」
レーズンスフレ。
確かに、雛子さんはレーズン系のお菓子が好きで、清太郎君も彼女が作っている場面を何度か見たことがある。それを倫太郎君にもプレゼントしているらしい。
「倫太郎君はお姉さんのレーズンが大好物なのよねぇ?」
「は、はい! 大好きです!」
雛子さんは自分のことを「お姉さん」と呼んでいた。彼女はずっと一人っ子であり、こうした弟分ができるのが嬉しいのだろう。
「このレーズン、もっと食べる?」
「はい! あふっ……ちゅぶ……ぴちゃっ!」
「あんっ! もぅ、そんなにガッつかないの! んふぅ……」
倫太郎君は雛子さんのお菓子を頬張っているのか。
「倫太郎君、電話、私に代わってくれる?」
「は、ふぁい……」
「もしもし清太郎君? ホント、倫太郎君って若いから飲み込みが早いの。私が教えたこと、すぐ覚えちゃって……弱いところに、どんどん攻めようとしてくるのッ」
「まあ、受験科目が全教科なら、自分の弱点に挑戦するのも大事だよね」
「もうすっかり、この子に教えること、なくなっちゃった。洞察力は大人顔負けだもの」
雛子さんは満足そうに息を吐いた。
「さ、ここまでは練習ね。次は、教えたことを全部応用した本番、イってみましょうか?」
「は、はい!」
「じゃあ、この赤い長辺が、この円の中心を貫いたとき、この内側のピンク色の部分はどうなるか、ヤッてみようね」
図形の問題か。
数学を教えているらしい。ピンク色に塗られた部分の面積でも求めるのだろうか。
「もしかして、パイも使う?」
「うんうん。どんどん使って……んぅ」
パイ?
おそらく円周率のπのことだろう。
「ここの頂点も、使ってみた方が良いのかな?」
「そう、あっ! くり……繰り返し問題を解いて覚えてきたでしょ。その辺りをどんどん弄れば、イけるからっ!」
「ここと、ここが、直角に交わって……」
「そう……良いよッ! 良いよっ! いいとこ、突いてるッ!」
「あと、もう少し……もう少しで、出せそうなのにッ!」
「じっくりっ……焦らなくてもっ、いいからねっ!」
「う、うん……あうぅ」
「ほら、ガンバレ、ガンバレっ! なかなか出なくてもッ、絞り出せるよう、お姉さんがリードしてあげるからっ!」
「アアッ! えっ! ふああああっ!」
倫太郎君は気持ち良さそうに声を上げた。
ようやく答えを導き出せてスッキリしたのだろう。
「こ、これで……良いんだよね?」
「うんうん……はぁっ……ああっ……完璧だよッ……んっ」
「はぁ……はぁ、本当に出せちゃった」
「倫太郎君、なかなかヤるね。これは将来、スゴいことになるかも」
「雛子さんがサポートしてくれると、ヤりやすいです」
やはり、倫太郎君にとって雛子さんのサポートは特別らしい。
清太郎君は雛子さんがしっかりと家庭教師として勉強を教えられていることに安堵した。これなら、自分が首を突っ込む必要はないだろう。
「もう一回、直角に交わるの、ヤッてみましょうか?」
「でも、僕、ちょっと疲れちゃった……」
「そうかな……元気有り余ってるように見えるけど?」
「ほ、本当だってぇ……はぁ」
雛子さんはまだ問題を解かせようとしている。もうすぐ夕方になるし、そろそろ授業は終わりにした方が良いのではないか。
「雛子さん、スパルタ教育も結構だけど、ほどほどにしてあげてね」
「はぁい」
こうして、清太郎君は電話を切った。
久々に清太郎君も雛子さんのレーズンスフレを食べたくなった。
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