第7話 お隣さんの生ビール

 ある夜、清太郎君がアパートに帰宅すると、雛子さんの姿が見えなかった。

 こんな時間にどこへ行ったのだろう、とスマートフォンを開くと、「買い物に行ってきます」というメッセージが入っていた。

 買い物くらい、僕に頼めばいいのに……。

 清太郎君はそんなことを思いつつ寝室に戻り、シャワーを浴びようと着替えを準備する。


 そのとき――。


 パンパンパンパン……!


 どこからか、微かにそんな音が聞こえてくる。

 これは一体、何の音だろうか。清太郎君が寝室中を見渡しても、音の発信源のようなものは見あたらない。


「もしかして、隣の部屋かな……」


 清太郎君はキッチンからコップを持ち出して壁にそっと当ててみると、音が強くなった。どうやら、謎の音は隣の部屋の住人が発しているらしい。

 確か、隣の部屋には三交代制で働く中年男性が二人、ルームシェアして暮らしていたはずだ。清太郎君も職場から往来するとき、アパートの階段や廊下でその二人をすれ違うことがよくある。腹の出っ張った巨漢と、痩せてヒョロヒョロな若者の二人だ。


 パンパンパンパン……!


 未だに音は鳴り止まない。

 苦情を入れたくなるほどの騒音ではないが、一体何が理由でこんな音が出ているのか気になるところではある。


「もしかして、例の布団叩きの音……?」


 清太郎君と雛子さんの会話中に度々話題に上がる、隣人が布団を叩く音。それがこれなのかもしれない。

 耳を澄ませてみると、どこかリズミカルで、かなり強弱の差が激しいことが分かる。


 さらに聴いていると、隣人の野太い男の声が聞こえてきた。声の主は太っている方の男だろう。

 壁越しでは言葉を鮮明には聞き取れないが、笑い声などからして上機嫌であることが覗える。


「ほら、あんまり音出すなよ……? 隣の主人、帰って来たみたいだからさ」

「……」

「苦情入れられて、変なトラブルに発展するのも嫌だしよぉ、頼むぜ?」


 理由は不明だが、隣人は自分が帰宅したことを気にしているようだ。騒音に配慮できるあたり、常識ある人ではある。


「しかし、やっぱり生は最高だなぁ。ほら、こんなに、どんどん泡立って……味わいが違う。アアッ、ほら、泡立ち過ぎて、床に零れちゃったぞ? ハハッ!」


 生……泡立ち……?

 今お隣さんは、生ビールを飲んでいるのだろうか。太っている男の方は、見るからにお酒が好きそうな外見をしていた。


「そこ、あんまり汚さないでくださいよ。貸し物件だし、汚れ落とすのも大変ですから」

「ハッハッハ、すまんすまん。つい気持ちよくてな」

「俺らの布団も、前回の匂いがまだ取れてないんです。だから今日も洗濯したんですよ?」


 別の男の声も聞こえる。もう一人の痩せた方だろう。

 どうやら先日、飲酒が原因で、布団が汚れてしまったらしい。匂いがまだ取れず、洗濯をした――やはり、このパンパンという音は、干した布団を叩く音なのか。


 太った男は酒を飲み、痩せた若者は布団干し――そういう構図が隣の部屋で繰り広げられていると清太郎君は推測した。


「しっかし、ホント、身が締まってて、プリップリだわ」

「自分もそっちを早く味わいたいですよ」

「何言ってる。菊の方も良いだろ?」

「まぁ……そうですけど……白くて綺麗なツマですよね、ホント」


 身が締まる、プリップリ、菊、ツマ……?


 もしかすると、男は刺身を肴に飲んでいるのかもしれない。この時期はマグロの赤身が美味しいはず。それと、食用菊の花弁を醤油に加えて刺身につけると、風味が良くなると聞いたことがある。

 若い男の方は、刺身に添えられているツマが好きらしい。そんなものが好きな人間なんて珍しいが、蓼食う虫も好き好きという諺もあるし、清太郎君がとやかく口を出すことでもない。

 刺身の薬味を二人で分けて食べているのかな。


「そろそろ……出すぞ!」

「自分も出したいなと思ってたところです!」

「この奥……狭くなっている場所に……!」

「も、もう少しです……!」

「と、届けええええっ!」


 一体、何を出そうとしているのか。


「っはあ! うオオッ……出た出た。この年になると、出すのも一苦労だ。だが、至福の瞬間を味わうには時間と苦労をかけないとな」

「この高かったドリンク……買った甲斐がありましたね」

「そのおかげで今日も頑張れたわ、ハハッ! 絶好調!」


 高かったドリンク?

 会話から察するに、高価な酒でも購入したのだろうか。それを戸棚の奥から取り出し、これから飲もうとしているようだ。酒のために仕事を頑張るなんて、下戸の清太郎君には少し考えられない生き方である。


 高価な酒を一緒に飲むためか、布団を叩くパンパンという音は止まった。


「こいつ、栓を抜いたら勢いよく吹き出しちまうことがあるからよ、ちゃんと器を構えとけよ?」

「えっ、ちょっ……待っ……!」

「イクぞ……そりゃっ!」


 栓を抜いたら勢いよく出てしまう酒――シャンパンのことだろうか。


「ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ン"ッ!」


 今のはどちらの男の声だろうか。やや高めの声で、裏返っているようにも感じる。出したい声を我慢しているような……。


「あ~あ~。やっぱりスゴいことになっちまったな」

「こ、こんなに出ちゃうんですね」

「ほら、勿体ねぇから、器に入った分は、ちゃんと味わって飲むんだぞ?」


 シャンパンが零れてしまったらしい。

 あまり乱暴に瓶を扱うと気泡が発生しやすくなり、栓を抜くと同時に激しく吹き出してしまう。シャンパンを扱うには高度なテクニックが求められるのだ。


「どうだい? お味は?」

「……」

「ハハッ、良い笑顔だな」


 若い方の男が飲んだのだろうか。

 あまりの美味さに言葉を失うなんて、清太郎君もシャンパンの味が気になってきた。清太郎君は人生で一度もシャンパンを飲んだことがなく、いつかは味わってみたいと考えている。


「じゃあ、互いに気持ちよくなれたし、そろそろ終わるか」

「そうですね。久々にスカッとしました」


 どうやら、男たちの夕食が終わるらしい。


「あ、そうだ。さっき、俺の実家からナスが送られてきたんだよ。どうだ、太くて立派だろ? これをお前さんにも味わってもらおうと思ってな」

「えっ、まさか……?」

「そのまさかだよ。これを、ここに、入れて……奥に突っ込むぞ……オオッ! ギリギリ入ったみたいだな」

「こっちにも、もう一本収納しちゃいましょうか? おっ、おっ……何とか入りました!」

「ま、好きなときに取り出して食えばいいさ。取り出すときは気を付けろよ?」


 冷蔵庫に食品が溢れているのか、収納スペースに困っているようだ。ナスをぎゅうぎゅうに押し込んで保存するらしい。


 このとき、清太郎君はふと冷静になった。

 なぜ僕は隣人の食事中の会話なんて盗聴しているのだろう。

 清太郎君は急に自分の行動が馬鹿馬鹿しく思えてきて、キッチンにコップを戻した。

 そうだ、早く風呂に入らねば。

 清太郎君は着替えを脇に抱え、脱衣室に向かう。


 そのとき――。


「ただいまぁ」


 玄関の扉が開き、雛子さんが帰ってきた。


「清太郎君、ただいま」

「おかえり。買い物くらい、僕に頼んでもいいのに」

「でも、清太郎君は仕事で疲れてると思って……」

「そんなこと、気にしなくていいのに……」


 雛子さんは清太郎君の横を通り抜けると、買ってきた品物を冷蔵庫に入れるためキッチンへ向かった。

 激しい運動でもしてきたのか、雛子さんの息は少し乱れていて、歩き方もどこか不自然だった。歩幅が小さく、クネクネと腰を動かす。

 雛子さんは冷蔵庫の野菜室の前にゆっくりと座り込んだ。股の間に買い物袋を置き、手を突っ込んで何かを探していた。


「んくっ……!」

「どうしたの? 雛子さん?」

「んはぁっ……はぁっ……大丈夫……奥に入ったナスが、なかなか取れなかっただけだから……」


 雛子さんの手に握られていたのは、太くて立派なナス。表面が濡れているのか、蛍光灯の光を黒々と妖艶に反射していた。


「あ、そうだ。これから麻婆茄子を作ってあげるよ」

「えっ、いいの? ありがとう、雛子さん」

「ほら、お風呂でも入ってきて。その間に作って待ってるから」


 こうして、清太郎君と雛子さんは、美味しい麻婆茄子を食べましたとさ。めでたしめでたし。

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