第18話 課長の子育て生活
ある日の在宅ワーク中、清太郎君は職場の上司である課長と通話しながら作業を進めていた。企業の新しいホームページ制作。クライアントの要望を基に、その方針を課長と話し合う。
本日、雛子さんはショッピングに出かけている。
家には清太郎君ただ一人。静かなリビングでヘッドホンマイクを着けて作業に取り掛かる。
「課長?」
「どうした」
「何か、変な音が聞こえません? 何かしゃぶっているような……」
チュパッ、チュパッという音が聞こえる。
イヤホンから聞こえるので、画面の向こうにいる課長が発していると思うのだが。課長は自宅からビデオ通話しており、おそらく寝室で仕事している。
「さ、さぁ、気のせいだろ。そっちで鳴ってるんじゃないのか?」
「いえ、こっちにもそんなものはないですし」
「こ、こっちだって何もないぞ?」
どうもカメラの死角になっている課長の下半身辺りから鳴っているような気もする。課長が「何もない」と言っている以上、こちらから今すぐ確かめる方法はないが。
「ところで、君は妻と最近うまくヤッているかね?」
そう言えば、自分たちの結婚式に課長を招待したこともあった。確か当時の課長は「こんな美人と結婚できるなんて羨ましい」と肩を叩いてきた。課長にも奥さんはいるのに……。
最近、課長は奥さんと夫婦仲が悪いという噂をよく耳にする。
痩せた体型の課長とは対照的に、彼の奥さんは結婚後にかなり太っており、スーパーマーケットで彼女に怒鳴られている姿を社員に目撃されている。
夫婦は体型が似ている方が、結婚生活が上手くいく――という話を聞いたことがある。夫婦間の格差は体型に現れるのかもしれない。夫婦仲に疲れた課長が別の痩せた女性に目がいくのは仕方ないのだろうか。
「まあ、それなりに雛子さんとは良い関係を築いていると思いますよ」
そのとき、カチャカチャという、金具が擦れるような音が聞こえた。
パンツのベルトを外す音に似ているが、課長の両手はキーボードの上に乗っており、手を使わずにベルトを外すのは無理だろう。
「う、うぉっ……
「課長、何か言いました?」
「あ、ああ。クライアントから指定された文章を挿入することができただけだよ、ハハッ……」
課長、額に汗がすごい。目が血走っていて息も荒く感じる。
寝室で仕事をしているだけなのに、どうしたのだろうか。
「すまない。少しの間、通話を切っていいか?」
「どうしたんですか?」
「実は、俺のムスコが騒がしくてな。少しあやしてくるよ」
確か数ヵ月前、課長には第一子が生まれたはずだ。何度か産休を取得しており、酒の席で息子の写真を見せてもらったこともある。
その息子が泣いているらしい。
「ああ、はい。大丈夫ですよ」
「悪いな」
そう言って、課長は通話を切ろうとした。しかし、慌てていてボタンを押し間違えたのか、映像が切れただけで、音声はまだ聞こえている。
何をそんなに慌てているのだろうか。
「まったく、しょうがないな、お前は……」
椅子がギシギシ鳴っている。
椅子に座りながら息子を抱いてあやしているのかな。
微かに「あんあん」という高い声も聞こえる。やっぱり赤子が泣いているようだ。
「おいおい、こんなに濡らしやがって……もしかして、おもらしか?」
課長はマイクを外すのも忘れたまま、今度はオムツの取替えをしている。
オムツの取替えができるなんて、なかなか育メンとしての能力が高いと清太郎君は思った。
「ほらっ……今、お前の好きな濃いミルクをたっぷり出してやるからな……! もっとしっかり振らなきゃ……! だんだん温まってきたぞ?」
今度はミルクを作っているらしい。哺乳瓶に粉ミルクとお湯を入れ、振っているようだ。ギシギシという音はより一層強くなり、かなり力を込めて作っていることが分かる。
「んぅっ……ああっ……ハァッ! うぉっ……ヤベッ……」
課長が何やら変な声を上げている。
腕に力を入れすぎて、
しばらくすると、チュパチュパと再び何かをしゃぶる音が聞こえてきた。赤ちゃんがミルクを元気に吸っているらしい。
「おいおい、ミルクこぼしてるぞ? あんまり家の中を汚すなよ? 汚れや匂いが残っちまうと、俺の嫁に怒られちまうんだから……」
赤ちゃんにそんなことを言っても理解できるわけがないのに。
「はあっ……はあっ……まったく、清太郎のヤツが羨ましいな」
課長が何やら僕を羨んでいる。
子育ての苦労を知ってしまったが故に、そうなる前の生活が恋しくなったのかもしれない。
「あっ、やべ……マイク切ってなかった!」
ようやく音声の切り忘れに気付く。映像が戻ると、課長はかなり汗をかいていた。髪型が乱れ、テーブルに置かれていた小物の位置も少しずれている。息子のために動き回っていたようだ。
「あっ、あのさ……音声、聞こえてたか?」
「はい。まぁ、ところどころ」
「俺、何か変なこと喋ってなかったか?」
「いえ……特に」
「そうか……」
「『あんあん』って泣いているような声が聞こえましたけど、課長の息子さんですか?」
「えっ、ああ。そ、そういうことだよ」
「そうですよね」
結局、子育ては重労働なのだ。自分もいつか子どもを作ったら、課長並の労働を覚悟しなければならないだろう。
こうして作業に一区切りがついて、その日の在宅ワークは終了した。
しばらくすると、雛子さんが帰ってくる。
「ただいまぁ」
「おかえり……あれ、雛子さん? スカートに何か付いてるよ?」
雛子さんのスカートに白いジェル状のものが付着していた。てらてらと光っている。
「ああっ、これは……日焼け止めジェルよ!」
「え、何でそんなものがスカートに?」
「さっき新しいのを買って試そうとしたとき、出し方の力加減が分からなくて思いっきり飛び出ちゃったの」
「それは災難だったね」
雛子さんの肌が妙につやつやして色っぽく見えるのも、多分全身にジェルをたっぷり塗ったせいだろう。
「雛子さん、子どもって欲しいと思いますか?」
「もしかして清太郎君、子どもが欲しいの?」
「僕はまだそういう覚悟はできてないんだけど、雛子さんはどうかなって」
「私? ふふっ、清太郎君の覚悟が決まったらでいいよ?」
清太郎君夫婦が子どもを作るのはもう少し先の話である。
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