第9話 ムスコの高校受験(生物編)
その日も雛子さんは、清太郎君の従弟である倫太郎君の家庭教師に出かけた。
雛子さんが彼の家に行くようになってから随分経つが、今はどんなことを教えているのだろうか。
ふと、清太郎はそのことが気になり、倫太郎君への挨拶も兼ねて電話をかけてみた。
「もしもし? 僕だけど」
「ああんっ、清太郎君? どうしたのぉ?」
「ナニか、僕も倫太郎君の受験に力になれることはないかなぁ、って思って……」
「ううん。大丈夫だよ?」
雛子さんの力になりたいのに、あっさり断られてしまうと悲しいものだ。
「ふぅん。そっか。どんな授業してるの?」
「今日は近くの公園で、特別授業です」
「特別授業? 公園でナニを教えるの?」
「花の仕組みや有性生殖について教えようと思って……実物の花を見た方が分かりやすいでしょ?」
清太郎君は窓の外に目をやった。雲が少なく、外出するにはいい天気だ。
「何か、倫太郎君以外の声も聞こえるけど?」
「今日はね、倫太郎君のお友達も教えてるの」
「へぇ。そうなんだ」
「その子も倫太郎君と同じ高校を目指しているらしくて、一緒に勉強してみたいんだって」
倫太郎君以外にも、何やら子どもの笑い声が聞こえる。「今日もあったかいね」とか「これも脱いじゃおう」とか、そんな会話をしていた。
こんなに暖かい天気の日に、上着なんて必要ないだろう。コートやセーターを脱ぎたくなる気持ちは分かる。
「ほら、よーく見てね」
「おおっ……すっげぇ……」
「ここの花、綺麗でしょ?」
どうやら花の観察会が開始されたらしい。少年たちは息を呑み、真剣に花を見つめているようだ。
「こっちの花はね、菊っていうの」
「すっご……綺麗な色してる」
「そうでしょ? フフっ」
菊か。確か、この時期は菊の花が見ごろを迎えているはずだ。
雛子さんたちは菊が植えられている公園に出かけたのだろう。しかし、この近所にそんな場所があっただろうか。もしかしたら自分が知らないだけで、そういう公園があるのかもしれない。
「この真っ赤な花は……まだ蕾かな? ぷっくり膨らんでいるけど」
「ひゃ……つ、蕾はデリケートだから、あんまり刺激を、与えちゃダメなんだからねッ!」
「え、そうなんだ? すごく不思議な形しているなぁ、と思ってね」
「ひっ、刺激が強すぎちゃ……取れちゃうかもしれないからっ! んううううッ!」
雛子さんは倫太郎君たちの行動を制御するのに苦労しているらしい。
昔、自分たちの担任だった先生も、こんな苦労を抱えていたのだろうか。元気の有り余った若い男の子を連れて授業するのは大変である。
「雛子さん、倫太郎君たちの様子はどう?」
「ホント、子どもって好奇心旺盛なんだから……どんどんイっちゃう……少し危ないけど、でも、それが良いんだよね」
「まあ、子どもの好奇心っていうのは、僕らも大切にしていきたいよね」
もし、自分と雛子さんの間に子どもが生まれたら、その好奇心を伸ばしていく教育をしていきたいね――ということを結婚前に話したことがある。結婚後もその考えは変わっていないらしく、清太郎君は少し安堵した。
「うわ、こっちの花は蜜だらけだ!」
「ぶちゅ! チュパッ……じゅルルルゥっ! 吸うと、奥から蜜がどんどん溢れてくるよ?」
清太郎君の気持ちなどお構いなしに、倫太郎君たちは観察に夢中になっている。
公園によく植えられているツツジの花でも吸っているのだろうか。いや、もしかしたら、ホトケノザかもしれない。
昔、清太郎君も学校からの帰り道に、花の蜜を吸ったことがある。子どもの頃、一度は試してみたくなるものだ。あのとき吸ったツツジは、ほんのり甘い味がした。
「花はこんな風に蜜を出して、虫を誘き寄せるんだよ? 花粉を運んで子孫を残してもらうためにね」
「じゃあ、今集まってる俺らは虫かよ」
「花粉を持っていれば、子孫を残せるかもッ」
「この花が子孫を残せるように、花粉を中にくっ付けてやろうぜ?」
「いいね。メンデルの法則の実験だ!」
清太郎君も中学生の頃、そういう実験を試みたことがある。庭に植えたマメ科の植物に別の形質を持つ同じ植物の花粉をくっ付け、その後を見守るのだ。しかし、あまりに膨大な時間がかかるため、結果が出る前に飽きて育成を放棄してしまったが。
「この花の雄しべって、先っぽが膨らんだこの部分のことだよね?」
「そ、そうね……」
「じゃあ、ここから出る花粉を、花の奥にある雌しべに入れて……」
「あああっ、んぅ……そんなに広げちゃ……あぁん」
「もっと動かして、結構乱暴に擦り付けた方が良いのかな?」
「アアッ! んくっ……そ、それは乱暴にヤりすぎだってぇ……っはぁ!」
ゴシゴシと花粉を擦り付けているのだろう。
子どもの頃は力の加減がなかなか分からないものだ。清太郎君も子どもの頃、採取したメダカの卵や捕まえた昆虫を、うっかり力加減を間違えて潰してしまった経験がある。
「じゃあ、こっちの菊にも受粉させてやろうよ」
「はぁっ、くぁ、ん……そ、そっちの花はぁ……ぅうあ」
「菊の花って、どこが雌しべなのか分かんないや。こっちの花と比べて小さいし」
キク科の植物には、小さな花が集合してまるで一つの大きな花のように見えるような種類がいくつもある。彼らが観察しているのも、そういう種類なのだろう。肉眼では花の構造が分かりづらいのも納得できる。
雛子さんもそれを言おうとしたのだろう。
「お姉さん、こんな感じでどうかな?」
「はぅ……二人とも、良いよっ!」
「ここに、しゃせいしても良いんだね?」
「好きなだけ、どんどんしゃせいして良いからね! じっ、時間はたっぷりあるから!」
しゃせい?
写生かな。花をスケッチするらしい。
「うはぁん……なかなかっ、上手いじゃない!」
「そ、そうかな? お姉さんが教えてくれたおかげだよ!」
「もっともっと、沢山しゃせいしてね! ンッ、上達してくれたら、私も嬉しいからッ!」
「じゃあ、俺も、しゃせいするよっ!」
「わっ! す、スゴい! あっ、ヤバ……んふぅ……はぁん! こんなの……うっ……ああっ、キタキタキタキタ……ああああっ!」
雛子さんは倫太郎君たちの写生の上手さに、狼狽しているようだ。雛子さんは絵が苦手で、猫を描いても人間を描いても、筒のような謎の生物が出来上がる。自分より年下の男の子に上手いスケッチを見せつけられたら、それは驚くだろう。
「はぁ……はぁっ……こ、これ……じゅ、受粉したかも」
「ちゃんと受粉していれば、ここが大きくなって、中で新しい子どもを作るんだよね?」
「うん……そ、そうだよぉ……はぁっ。時間はかかるけどね」
「どうなるのか、もっと観察してたいな」
「ンフッ……この雌しべがどうなるか、楽しみにしててね」
雛子さんたちは、これから何度もその公園に足を運ぶつもりなのだろうか。
「あれ? お姉さん、この茎を抜いたら、白くてネバネバした液体が付いちゃった……」
「今すぐ綺麗にシてあげるからねっ……」
おそらく倫太郎君に付着したのは、コニシキソウの液体だろう。
あらゆる場所に生える雑草で、茎から白い粘着性のある液体を出す性質があり、この草を抜くときには注意が必要である。
「はぁい……んっ……お水、イクよ?」
雛子さんは倫太郎君たちを公園の手洗い場に連れていったのか、プシャアと水を勢いよく出すが聞こえた。
「うわっぷ! お、お姉さん……出しすぎだって。ビチャビチャになっちゃったよぉ」
「はぁっ……はぁっ……ご、ごめんね。加減が分からなくて」
初めて行く公園だと、蛇口の水圧がよく分からなくて、いつもの感じで蛇口を捻ると水が一気に出てしまうことはよくある。
申し訳なさそうに謝る言葉とは裏腹に、雛子さんの声はどこか快感そうだ。ずっと一人っ子だった雛子さんは、年下の男の子と遊ぶのが、弟ができたみたいで楽しいのかもしれない。
今日もおっちょこちょいな雛子さんだった。
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