第10話 ラブレター


 あのサッカーの授業を境に、俺の学園生活は一変……とはいかなかった。


 話題にされていたのは授業があった日からその後二日間くらいのもので、以降の俺に待っていたのは、これまでとさほど変わりのない生活だった。


 とはいえその一件で、多くのクラスメイト達と曲がりなりにも言葉を交わせたというのは、俺にとって大きな進歩であった。


 また、彼らのグループに混ざって話したりする事はないものの、あちら側が俺を声を掛けてもいい対象と見てくれるようになったように思える。


 例えば軽く足がぶつかった時、以前ならば舌打ちなり黙殺されるなりとしていたところが、今は「おお。悪い」と、気軽な言葉が投げ掛けられるようになっていた。


 なんだか少しだけ、学校が楽しくなってきていた。


 高嶺さんに会える、それもあるのだが、そうしてアキヒコ以外の生徒達が俺へ声を掛けてくれるかもしれない、今日はこちらから誰かに話し掛けられるかもしれないという思いが、俺の学校へ向かうまでの足取りを、軽くしてくれているように思えた。


 いつもの時間に目覚め、いつもと同じ電車に乗り込む。しかし気持ちこれまでとは違う。そんな自分に戸惑いながらも喜びを感じている。


 俺にこんな変化をもたらしてくれたのは、言うまでもなく高嶺さんだ。高嶺さんに出会ったからこそ、俺は少しでも彼女に近付くため、変わる事が出来ている。彼女という存在が頂にいるからこそ、俺はその山を登り続ける事が出来るのだ。


 それを思えば、今も遥か高みに存在し続ける彼女への想いは、益々増していく一方だった。


 校門から昇降口までの長い道。聞こえてくる部活の声や溌剌とした挨拶に、憂鬱を感じる事なく昇降口までやって来ると、脱いだローファーを手に持って、下駄箱を開けた。


「え?」


 と、声を漏らしたのは、下駄箱の中。二段あるその下の段。上履きの上に白い封筒に入った、手紙のような物が置かれていたからだった。


 こ、これはまさか……


 漫画ならば背後に『ゴゴゴゴゴ……』という文字が描かれそうな心境だった。

     

 頭にふと浮かんだ考え。それをかき消すように首を振る。


 いや。いやいやいや。


 俺に限って、そんな事はあり得ない。


 カースト最底辺。初対面の人間とは、言葉を交わす事すら儘ならない俺に、好意を抱く女性があるはずがないのだ。


 いや。


 しかし……


 この前のサッカーの試合。あの試合での活躍は、自分でも格好良かったのではあるまいかと思える程のものだった。それを見た女子が、俺を見直してくれたという事も。


 だとするならその女子はクラスメイトという事になる。


 ま、まさか。


 まさかとは思うが……


 頭にその顔が浮かんだ途端、バッと体が熱くなる。頭の先から足の先、耳までも熱くなっているのが、自分ても分かる。


 どうしよう?


 もしそうだったらどうしよう?


 高鳴る心臓に急かされながらそれを手に取り、その封を開こうとするも、手が震えてしまって上手くいかない。


 一度気持ちを落ち着かそうと、息を吐く。そこで漸く、ここが下駄箱の前、多くの人の目につく場所である事を思い出し、慌てて手紙をブレザーのポケットに突っ込んだ。


 万引犯のように、辺りをキョロキョロと見回す。幸い、こちらを気にしている様子の生徒はいない。


 一先ずと最寄りのトイレへ駆け込んだ。個室に入って鍵をかけ、蓋が閉じたままの便座に座って手紙を確認する。


 糊で閉じられた封筒。記念すべき初めてのそれになるかもしれないこの紙を、破いてしまう事などあってはならないと、困難な外科手術に挑むような心で封を開いた。


根尾登ネオノボル君へ』


 そうして取り出した手紙は、そんな言葉から始まっていた。


『お話したい事があります。

放課後、校舎裏の用具倉庫の前で待っています』


 差出人の名前は書かれていない。


 繊細で綺麗な筆跡からは、賢く、おしとやかな女性を想像させられる。


 や、やっぱり。これはラブレターというやつじゃないのか!?


*


 その日は、一日中ソワソワとしたままで過ごす事となった。


 授業をしていてもアキヒコと話していても、手紙の事、クラスの女子の事ばかりが気になってしまい、それ以外の事はまるで頭に入って来なかった。


 クラスの男子のイタズラという線も考えたが、そんな素振りを見せている生徒は一人もおらず、それならやはり女子なのだと胸をドキドキとさせ、しかし女子の中にもこちらを気にしているような生徒は見つけられなかった。


 そんなこんなでとうとう迎えた放課後。


 俺は矢鱈と周囲の視線を気にしながら、こそこそと目的の場所を訪れた。


 校舎の脇にある駐輪場を抜けたその先、学校を囲う塀と校舎の間の狭い空間に、ポツンと小さな倉庫が佇んでいる。


 倉庫には鍵が掛かっている。中に何が入っているかは分からないが、一年の学園祭の時に、クラスの誰かが中にある物を取りに行かされていたような記憶がある。


 つまり生徒が年に一度くらいしか、訪れる事のない場所だ。


 当然辺りに人影はなく、退屈な授業から解放された生徒達の溌剌とした声が、遠くから聞こえて来ている。


 どうやら手紙の差出人は、まだ来ていないようだった。


 俺は少しホッとしたような気持ちで、倉庫の出入り口にあるコンクリートの段差へ腰を下ろしたが、やはり気持ちが落ち着かず、直ぐに立ち上がってうろうろし、また座っては直ぐに立ち上ってと、意味もなく疲れる行為を繰り返した。


 それからやけに長く感じる十五分が経過した時だった。


 倉庫の前に腰を下ろしてスマホを眺めていた俺はザッと聞こえた靴の音に、顔を上げる。


「えつ……」


 そしてそこに現れた人物を見て、声を失った。


「よう」


 色白の整った顔立ち。ナイフのように鋭い目付きに、明るく染められた髪。


 そう。俺の目の前に現れたのは、スクールカーストの頂点に立つ男。富士フジ義輝ヨシテルだった。


「待たせたな」


 思いがけない人物の登場に戸惑いながらも、俺はどうにか口を動かす。


「な、何でここに?」


「ああ? お前と話すためにだよ。お前だって手紙見たからここに来たんだろ?」


 どうやらあの手紙は、富士が出したものだったらしい。


 そういえば授業で富士が黒板に文字を書いた時、女子のような綺麗な字を書くのを意外に思った事を、今になって思い出した。


「で、でも何で手紙なんて?」


「教室で話しかけたりすると妙に目立っちまうようだったからな。この前みたいに他の奴に邪魔されないで話したかったんだ」


 やられた。


 流石は富士義輝。女子とろくに接した事のない俺の弱点をつい実に巧妙な手だ。


 俺をここへ呼び出した理由は一つしかない。あの日俺が知ってしまった秘密を口外させないため。


 前回、日和ヒヨリにそれを阻まれてしまった事を踏まえ、今日までその計画を練っていたのだろう。


 もしかしたら俺は今日ここで、消されてしまうかもしれない。


 どうする? どうする、俺?


 徐に立ち上がり後退りしてみるも、後ろは倉庫に阻まれ、それ以上進む事は出来なかった。


 倉庫の脇に、人が通れる程の隙間はない。つまり俺に進む道があるとすれば、富士が立っている正面だけだった。


 先程までとはまるで違ったドキドキが体の内側で鳴っている。額にはみるみると汗が滲んでいく。


 富士は二、三歩こちらへ近付き、躊躇いがちに口を開いた。


「まぁ、なんだ。あ、ありがとな。あの日の事言わないでいてくれて」


「へ?」


 思わぬ言葉に、間抜けな声が漏れた。


「俺があの工場で犬を飼っている事、誰にも言わないでいてくれているんだろ? お前が誰かに言っていたら、とっくに噂になっているはずだからな」


「あ、うん。でもそれはあの時階段で、富士君がそう言ったからで……」


「あの時は悪かったよ。もっとしっかり頼むつもりだったんだが、途中で山本が来ちまったから、あんな言い方するしかなくなっちまってな。今回はそれも謝りたかったというか……」


 頭を掻きながら言った富士からは、いつもの威圧的な空気が感じられなかった。本当にただ謝りたかった。そんな想いがひしひしと伝わってくる。


「でも、なんでそこまで秘密に? 別に悪い事しているわけじゃないのに」


「そういうの俺のキャラじゃねぇだろ? そんなんでいちいち騒がれるのがウザってぇんだよ」


 そこで俺は思い出す。彼があの工場で浮かべた、学校では見た事のない無邪気な笑顔を。


 どうあっても隠しきれない大きなレッテルのせいで、イメージと違う事をするだけで波紋を生んでしまうという、頂点に立つ者だからこその悩み。


 例え自分に害が無かろうと、そうした事でいちいち周りに騒がれるのは、確かに気分のいい事ではないだろう。


「まぁ、とりあえずそんな感じで。礼を言うためと謝るために呼び出させてもらったという訳なんだ。わざわざ時間取らせちまって悪かったな。でもこうでもしなけりゃ、中々機会も作れねぇと思ったから」


 富士はそれだけ言ってその場を立ち去ろうとした。


 それを「ちょっと待って」と引き止めたのは、あの工場で思ったのと同じ事が頭に過ったからだった。


 彼が今必要としているのは、あの無邪気な笑顔を、気兼ねなく見せれる相手なのではないだろうか?


 偶然とはいえ彼の正体を知った俺ならば、そんな存在になれるのではないだろうか?


「その。良かったら俺と友達になってくれない?」


 まるで告白でもするような気持ちで、俺は口をした。


 富士は驚いた様子で目を見開き、そして吹き出すように笑みを溢した。あの工場で見たのと、似た表情。


「わりぃ。そういうベタベタしたの、ガラじゃねぇんだわ」


 そうして富士は振り返り、その場を立ち去っていく。


 断られてしまった……


 しかし不思議と、充実感のようなものを感じていた。その理由は、多分富士が去り際に見せた笑顔にあるのだろう。

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