第21話 夏がやってきた
高校生活でたった一度だけある一大イベント。修学旅行が終わってしまった事による鬱々としたムードが漸く学年内から消えてきた頃、夏がやってきた。
真っ青な空。照りつける太陽。
キラキラと揺れる水面。聞こえてくる声は賑やかで、鼻にはあの独特な塩素の匂いが届いてくる。
視線の先、彼女の輪郭は頭から爪先まで筆で引かれたような滑らかな曲線を描く。程よく筋肉のついた引き締まった体。直視できない程に眩しい白い肌。ひかえめな胸の膨らみ。何一つ不足の見当たらない究極の美がそこにあった。
ずっと眺めていたいと思っても、あまりの美しさに、あまりの刺激が強さに、1.5秒以上は目を向けていられない。それ以上は俺の心臓や理性か耐えられない。
だからプールサイドに体育座りで座った俺は、顔を伏せたふりをして、腕の隙間から時折彼女を眺めては止めてを繰り返していた。
今は体育の授業中。だというのに制服姿でこうしているのは、体調が悪いからという訳ではなく、水泳の練習がまだ進んでいないからだ。
スクールカーストを成り上がるため始めた体育の授業のための練習。おかげで大川をはじめとしたクラスの連中との仲を縮める事が出来た今、水泳で格好悪いところを見せたぐらいで奴らに嫌われるような事はないとは思う。
それでも格好悪いところは出来るだけ見せたくないという思いはあるわけで、寧ろその気持ちは以前よりずっと強くなっているような気がした。
俺は以前までの俺はではない。スポーツの喜びや楽しみを知ってしまったし、周りからも出来る奴だと思われている。そして俺自身も、そうでありたいと思うようになってしまっているのだった。
今までカースト上位にいるような連中は、幸せばかり感じているものだと思っていたが、もしかしたら常日頃からこうした窮屈な思いを抱えたまま生活しているのかもしれない。
富士が周りに仔犬を育ている事を隠したがっていたも、そんな理由に近い事なのだろう。
因みに旅行の期間だけ高嶺さんが預かる事になっていたあの仔犬だが、話し合いの末、そのまま高嶺さんの家で飼うことが決まったらしい。
高嶺さんの家族が仔犬を気に入った事に加え、富士も元よりあの廃工場で面倒を見るのは、飼い主が見つかるまでの間と決めていようだ。
時折、富士と高嶺さんがこそこそとあの仔犬の話をしているところを見掛ける。
最強の恋敵が誕生しまうのではないかというのが、ここ最近で一番の不安だったりする。
そんな事を考えながらぼんやりとクラスメイト達を眺めていると、隣からポツリと聞こえた。
「いやらし……」
声のした方へ顔を向けると、俺と同じく制服姿の山本日和が座っている。
白いワイシャツにスカート。個人的な話だが、制服は夏服の方が好みだ。
自分が着るにも、着こなしをあまり考えずに済むから楽だったりする。尤もそんな事を考えるようになったのは、今年になってからだが。
「何がだよ?」
俺は日和へ言った。
「だってさっきから女子の水着ばかり見て」
「べ、別に見てねぇし!」
「嘘。いやらしい顔してたもん」
「してねぇよ!」
「どうだか」
日和は吐き捨てるように言って、プールの方へ顔を向けた。
「水泳の授業も、また練習してから受けるつもり?」
打って変わって穏やかな口ぶりだった。
「まぁな」
「ふぅん」
「俺さ、今まで自分が出来ない事とか、叶えられない事っていうのは仕方がないもんだと思ってたけどさ。努力すればほんの少し、いや変わらない事もあるかもしれないけど、少なくとも端から諦めて何もしないよりは、変われる可能性はあるんだっていう事に漸く気づけたんだよ」
「当たり前の事じゃないそんなの。まぁでも、なんでも私に頼っていたあの頃よりは成長できたんじゃない」
「その節はお世話になりました」
「いいよ別に。利子つけて返してもらうつもりだから」
「うわ、ひっでぇ!」
大袈裟に言って見せると、日和はクスリと笑った。その直後、慌てた様子でそっぽを向いてしまったけど、数年ぶりに間近で目にしたその笑顔は、俺のよく知る日和の笑顔だった。
*
次の土曜日。
「よし!」
俺は頬を叩き、気合いを入れて家を出た。
この先に待ち受ける試練を思えば、気合いはいくらあっても足りないくらいだった。
まだ朝の早い時間。日差しはそれほど強くはない。何処かに出掛けようという人達も、動き出すにはもう少し後になるだろう。
普段学校へ行くより早い時間であるため、母は不審そうにしていた。理由を話すと驚きながら大丈夫か、着いていくかと提案してきたが、俺が一人で行く旨を伝えると、景気よく送り出してくれた。
「ノボルも成長したんだねぇ」
そう言った母の目には涙が光っていたような気がするが、おそらく見間違えだろう。
俺は人見知りだが場所見知りもする。従って新しい事への挑戦というものには幾つものハードルが付きまとう。
もし目当ての店が知らない土地にしかなかったのならそのハードルを一つ増やす事になっただろうが、今回は大丈夫。
電車に乗ってたどり着いたのは、毎朝訪れる学校の最寄り駅。比較栄えているこの近辺で、目ぼしい店を探すのは難しい事ではなかった。
予約の時間より随分と早く到着してしまったため、近くのコンビニに立ち読みをして時間を潰す事にした。
コンビニは場所見知りのオアシスだ。どの土地にもあって、どこも同じように作りをしている。どこも同じ態度で自分を受け入れてくれる。
かなり時間に余裕があったため、興味のある本を殆んど読み終えてしまった。
いよいよ時間が迫ってくると、緊張で本の内容などまるで頭に入ってこなくなる。そのドキドキに耐えられなくなって、少し早いが店へ向かう事にする。
訪れたのは大通りにある商業ビル。目当ての店はその一階にある。
全面ガラス張りになっているため、オシャレな内装がまる見え。今からあの中に自分が入る事を想像すると恐怖すら感じる。
こんな時、俺は取っておきの呪文を持っている。
「気合いを入れろ。高嶺さんに少しでも近づくためだ」
唱えると、俺は意を決してその扉を潜った。
「いらっしゃいませ」
満面の笑みで現れたのは、美人な店員さん。初っぱなから強敵の登場である。
「えっと。あの、予約していて。時間、少し早くなっちゃって。あっ、俺根尾って言うんですけど」
「カットのご予約の根尾様ですね。お待ちしていました」
「は、はい!宜しくお願いします!」
そう。俺がやって来たのは美容室だった。
夏にもなったし髪も伸びてきた短くしようと考えたのだ。
そこで昔から通っている床屋さんではなくオシャレな美容室を選らんだ理由は、言うまでもないだろう。
学校で色々言われるのが怖いから夏休み中に切ろうも思っていたが、それはあからさま過ぎて逆効果らしい、というのはネットで得た情報だ。
「こちら席へどうぞ」
お姉さんはニコッと笑って俺を店の奥へ連れていく。
店員は、美人とイケメンしかいない。
客の一人に頭にビニールを被され、ヒーターみたいなものを当てられている男の人がいる。そんな事されていながら平然と本を読んでいられる姿を少し格好いいと思った。
「飲み物飲まれますか?」
椅子に腰を下ろすと、お姉さんが聞いてくる。
予習をしておいて正解だった。サービスで飲み物を出してくれる美容室がある。と、予めネットで知っていなければ、間違えてカフェに入ってしまったのではと焦っていたところだろう。
注文した暖かい紅茶をお姉さんが取りに行っている間に、調べてあった知識を頭の中で復習する。
全体のシルエットをアウトライン。コーナーはシルエットの中でカドになる部分。重めのところはウエイト。
トップは頭頂部。サイドが横で、クラウンが後頭部の上の辺りだ。ネープは襟足だったっけ?
不安になって調べようとしたところで、紅茶が運ばれてくる。
しまった、と思っている間に、お姉さんは話を進めていく。
「本日はカットのご予約という事でしたが、ご希望の髪型はお決まりでしょうか?」
どうやらこのお姉さんが俺を担当してくれるらしい。他のイケメン達はちょっとチャラくて怖く見えたから、優しそうな女の人でホッとする。
「えっと、こんな感じで」
俺は一週間以上、悩み抜いた末に決めた髪型をスマホに表示させてお姉さんへ見せる。
マッシュショートというやつらしい。爽やかで柔らかい雰囲気という謳い文句と、あまり目立ち過ぎない事に惹かれて決めたものだが、これでは変化が少ないのではという不安もあったのだが……
「あぁ、いいですね。お似合いになると思いますよ」
お姉さんの一言でその不安は解消された。
それからは初めて経験の連続だった。
カットの前の仰向けでするシャンプー。何度も首の力を抜いていいと言われたが、どうしてもそれが出来なかった。
切ったら髪が服に付かないようにする布みたいなのは、頭だけではなく、腕も通せるようになっていて驚いた。
カット中、お姉さんは沢山話し掛けてきた。
「お兄さん、学校でモテるでしょ?イケメンだもん」
「そ、そんな事は」
「好きな人は?」
「ま、まぁ……」
「うわ、いいなぁ。気合い入れてカッコよくしますからね。期待してて下さい」
最初は緊張で上手く答える事は出来なかったが、お姉さんのおかげで次第にこちらからも話せるようになっていった。
「それでね、彼女、そんな綺麗な顔しているのにラーメンが大好きみたいで。そういうところに余計惹かれちゃうというか」
「あー、ギャップっていうやつね。分かる分かる」
楽しかった。
しかし楽しい時間というのはあっという間に終わってしまうものだ。
「はい。お疲れ様でした」
カットを終えた俺は、いつもより少しだけ高い料金を支払い、店を後にする事となる。
なんだか話し足りないな……
来週の休みもまた来ようかな。
あっ、でも髪伸びていないと駄目か。
初めての美容室。帰路の最中、その事を思う俺であった。
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