(6)色即是空
翌朝、俺たちは電車に揺られて牧瀬公園を目指した。公園のある宇山まで市内からは西へ一時間。俺が住む穏前からは半時間ほどかかる。穏前の駅で柚木崎と落ち合い、空いた車内でボックス席に陣取った。きんきんに冷えた空気で、滲む汗がさっぱりと引いていく。風呂釜みたいな車外と比べれば染みだらけのシートも一等席だ。これで風を楽しむことができれば文句はないのだが。矛盾した贅沢を空想しながら窓越しの景色に目を向ける。外は写真のような晴天だった。いつもより目立つ自動車。すっかりと背を伸ばした稲穂。高くなるほど深まる群青に、力強い積乱雲。くっきりと明るい山の緑に空の色がよく映える。車窓から望めば住み飽きた土地ですら見知らぬ異国のように輝いていた。流れていく一瞬の情緒を映画みたいに楽しみながら線路の音に耳を傾けた。柚木崎は向かいの席で静かに文庫をめくっている。充実感に眠ってしまいそうだった。
10時半には駅に着いた。すぐに駅前のコンビニへ入り、握り飯数個とスポーツドリンク、一口サイズの唐揚げを買った。柚木崎の食生活に小言を言っておいて何だが俺も健全な男子高校生だ。安上がりな昼食もたまには嬉しい。既にパンを持参していた柚木崎は書籍コーナーで文庫の背表紙に指をかけていた。使い古したリュックに昼食を詰め宇山の町へ歩みを進める。
宇山には古い景観が多く残っている。元々は酒造で栄えた町だと聞いた。旧道沿いに立ち並ぶ漆喰塗りの酒蔵は現代の町並にちょっとした歴史を招致する。そんな、先人から受け継がれてきた生活の基盤をこの町は観光資源として活用している。資源に乏しい凡々な町に住む人間としては宇山の風情が少しばかり羨ましかった。その町の北側に小さな山が寄り添っている。宇山の町を商人の領域とするなら、上にあるのは武士の領域だ。山の上にはかつて一帯を治める領主の居城があり、宇山を城下町として栄えさせた。徳川幕府の一国一城令によって城は取り壊され、支配者は土地を後にしたが、城跡には桜が植えられ、春を彩る名所となった。牧瀬公園は散策道が整備されたその山全体の総称だった。
頂上までは十五分程度。数メートル幅の舗装された遊歩道が天辺まで蛇行している。
「小坊ン頃だったかな。親父と妹と祖父さんの四人で、一度花見に来たことがあるんだ」
小道にはまだら模様が描かれていた。見上げると青葉若葉が頭上を覆っていた。重なる葉と葉が緑を深め、夏を色濃く染め上げている。隙間からは陽の光。木深さが木漏れ日を一層白く引き立てていた。夏の景色の、こういうところが綺麗だと思う。
「あの頃の俺は花になんて興味なかった。今も大して変わらんが……それでもやっぱりガキだったからな。祖父さんたちがにこにこしながら花を眺めてんのが不思議で堪らなかった」
だから尋ねた。何がそんなに面白いんだ。花が咲いてるだけじゃねえか。祖父さんは上機嫌で答えた。
『舎利子見よ色即是空花ざかり』
咲くも楽しい。散るも楽しい。酒を飲むのもまた楽しい。可愛い息子と孫もいる。これほど楽しいことはない、と。
「そう言って祖父さんは唄をうたった」
「唄?」
「古い唄さ。俺もよく知らない。こう、ゆっくりと拍子を取りながらな」
祖父さんが唄い始めると周りの飲んだくれ共が静まり返った。吐くほど騒いでいた連中が祖父さんの唄声にゆったりと耳を傾けていた。満開の桜の下で祖父さんの声と拍子だけが朗々と響いていた。不思議な光景だった。
「祖父さんが唄い終えると周りから拍手が沸き起こった。是非一杯注がせてくれと何人も酔っ払いが寄ってきた。あんだけ堂々と唄い切ったくせに祖父さんはしきりに頭を掻いてたな」
今はもう花見の時期は過ぎている。俺たち以外に人の姿は見当たらない。あたりには長唄ではなく蝉の声が充満していた。切れ目のない大合唱の中、柚木崎の目が日傘のフリルからじっと俺を見つめていた。
「? どうかしたか」
柚木崎は黙して首を左右に振った。
「……ううん。素敵なお祖父さんだったんだね」
「呑気なひとだったよ」
笑って葉影をまた一歩踏み締めた。
十分ほど登った。頂上を前に段々と身体が火照ってきた。じんわりと汗も滲んでくる。木陰はやはり多かったが途切れる瞬間が煩わしかった。空気は熱を孕んでいた。俺は平気だ。でも柚木崎は、
「……大丈夫だよ、これくらい」
「そうか。きつかったら言えよ」
柚木崎はペットボトルを受け取り、唇に添えた。なめらかなラインがこくこくと上下する。離し、雫をぬぐった。
「昔は太陽が十も十一もあったんだって。干乾びちゃうよね」
「太陽は昔から一つだろ」
本当に大丈夫か、柚木崎。
歩くことさらに数分。幾度目かのカーブに差しかかったところで終着点が目に入った。
「あそこがそうだ」
最後の斜路でひと踏ん張りをした。
広場の大きさは数十メートル四方。敷地には桜の木が幾本も植えられていた。絢爛な春を思い出させる本数だ。時期外れの今は青い枝葉が手を伸ばしているだけだが、坂道を攻略してきた身にはありがたかった。ある木の根元で長椅子に座り、追想する。祖父さんと花見したのもこのあたりだった。奥のほうに目をやった。敷地の先端に二つの巨石が鎮座していた。大きさは四、五メートルほど。手前の看板には色褪せた文字で『物見岩』と書かれてある。かつてここが領主の居城だった頃の名残だ。片方の周りには大小の石が配置されていて階段の役割を果たしている。
「登ってみようぜ」
柚木崎が躊躇を見せた。
「いいの?」
気にかけていたのは足元だ。『危ないので登ってはいけません』 そんな貼り札があった。剥がれ落ちて雑草の陰に埋もれている。ラミネートの表面は雨に曝され茶色く変色していた。
石段は不揃いで段差が大きい。最上段など手を使わなければ上れないほどだ。だが、それができないほど年寄りでもない。
「大丈夫だろ」
俺が先行して岩に上がった。見上げる柚木崎に手を差し伸べる。
「滑らないよう気を付けろよ」
柚木崎はうんしょと岩肌に足をかける。登り、顔を上げる。瞬間、垂れた前髪がふわりと宙に浮きあがった。
「わああ……」
涼風に額を撫でられ、柚木崎が感嘆の声を上げた。露わになった瞳が爛々と陽光を取り込んでいた。その輝きに満足を覚えながら、俺は眼下を見下ろした。
「来た甲斐があっただろ」
物見岩の頂上。そこからは宇山の町が一望できた。深緑に囲まれた漆喰の里。小づくりの箱が地表を白く覆い尽くしている。敷き詰められた小箱の隙間に模型みたいな車の姿。さらに小粒な動く点。遊びに出かける小学生も、稼ぎに出かけるご苦労な大人も、山頂から見下ろせば共に等しく小さかった。粟粒のような町の上を雲の影がのんびりと漂っている。時間を忘れる風景だった。
柚木崎は肩掛けのバッグからスマホを取り出しパシャリと一枚写真に収めた。次に黄色い表紙のスケッチブックを腿の上に置いた。部屋の書棚に立てかけられていたものだ。見せて欲しいと頼んだことはあるが、許可が下りたことは一度もなかった。柚木崎は白紙のページを開くと、早速鉛筆を走らせ始めた。俺にはとても信じられない勢いで眼下の景色を写し取っていく。俺は舌を巻きつつ苦笑した。
「疲れてるだろ。昼にしないか?」
「先に食べてて。すぐに終わるから」
ここまで来てそういう話にもならんだろう。
「下で待ってるぞ。区切りが付いたら下りて来てくれよ」
横顔が「うん」と返事をする。俺は肩をすくめた。区切りはすぐに付きそうになかった。巨石の傍らには桜が一本立っていて枝葉が木陰を落としていた。陽射しにやられる心配はないだろう。石段を下りてベンチに腰を下ろした。両脚をだらりと開放させる。太腿が熱を帯びていた。胸の奥も。耳を澄ますと心臓がとくとくと小走りで駆け続けていた。肺を膨らませ、せっかちな鼓動の手綱を締める。ゆっくりと、息を吐いた。
緑の屋根を仰いだ。それを形作るものを一枚、二枚と数えてみた。枝分かれまで数字を並べて馬鹿らしくなった。何もかもが明るく、青々としていた。瞼を閉じ、来年の春のことを想像した。幼くきらめく黒い瞳を想像した。
きっとそうなればいい。
満ち足りた気分で疲労感に身を委ねた。
十分、いや、五分程度だろうか。俺は座ったまま蝉の鳴き声に意識を委ねていた。それから、広場を歩いて花を眺めたり、蝉を捕まえたりしながら時間を潰した。時期が時期なのでカブトやクワガタでもいやしないかと木の根元を覗いたが見つからず、段々と空腹を意識し始めた。柚木崎はまだだろうか。ふと物見岩に目を向けたとき、それが視界に入った。
人の手だった。白い、女の手。巨石の下、石段の、昇り始めくらいの位置に女の手が横たわっていた。手はだらりと力なく垂れ、脇の草陰から突き出していた。付け根の部分は茅に隠れて伺えない。
どうしてあんなところから手が垂れている? 一体あれは誰の手だ? 俺たちの他に人はいない。俺の手じゃない。だとしたら……
「柚木崎っ!」
弾かれたように駆け寄った。必死に走り、細い葉先を腕で払った。柚木崎が、石段の上でうつむけに倒れていた。なぜこんな場所で居眠りをしているのか。一瞬過ぎった間抜けな疑問をすぐさま頭から打ち消した。意識がないのだ。
「柚木崎、おいッ!」
倒れた柚木崎の、その小さな肩を掴んだ。身体を反転させた。瞬間、俺の左手に赤い絵具のようなものが飛び散った。血だった。普段隠れている柚木崎の、その右の額のあたりが、べっとりと鮮血に塗れていた。
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