(5)あの子の価値
公園の一件から一週間が経った。木曜日の放課後、俺たち二人は市内にあるペットショップに訪れた。猫殺しの手がかりを探すため……ではなく柚木崎の家にいる白猫と黒猫、ナツメとソウセキの餌を買うためだ。
発端は前日の晩、柚木崎をマンションまで送り届け、部屋に立ち寄ったときのことだ。ナツメの頭上で猫じゃらしを振っていると柚木崎が餌皿を運んできた。メニューは野菜の盛り合わせで、萎びたレタスやキャベツ、人参などが雑に放り込まれていた。こりゃまた可愛げのない食事だと呆れていたら、皿の中に一際濃厚な緑色が混ざっていることに気が付いた。慌てて制止すると柚木崎は、
「猫ってネギあげたらダメなの?」
と目をぱちくりさせていた。信じられなかった。猫にネギは厳禁だ。詳しい理屈は知らないが体組織が壊れ、死に至ると聞いたことがある。
「今までも何度かあげたことがあるけど」
猫にだって個体差がある。少量なら問題ない場合もあるだろう。しかし問題がないから与えて良いというものでもない。体調が悪ければ大事に繋がる。同様にタマネギも駄目なはずだが、こちらも刻まれたものが見事に混ぜ込まれていた。こいつは猫を殺す気なんだろうか。
「この子たち飼い始めたの最近なの。よく知らなくて」
知らないで済む問題ではない。命を傍で預かる以上、人間はその責任を負わなくてはいけない。常に体調に気を配り、ストレスのない生活空間を確保しなければならない。餌の管理すらまともにできないようでは飼い主として論外だ。そんなことをくどくどと語ってやると、
「じゃあ明日キャットフード買いに行こうよ。神杉くんも一緒に」
と頬を餅みたいに膨らませたのだった。
ワンちゃんふれあいコーナーで子犬の頭を撫でまくっていたら「いい加減本題を済ませたいんだけど……」と柚木崎が呆れ声で言った。ラブの赤ちゃんに後ろ髪を引かれながら時計回りに店内を移動する。チェーン店のこの店は店舗が大きく、空間の広さに比例して品揃えも充実している。犬や猫だけでなく魚類・鳥類・爬虫類など豊富に商品を取り揃えていて、ちょっとした動物園気分だった。柚木崎は猫のケージや餌皿をここで買ったそうだが、俺は初めての入店だった。そもそも俺のような男一人がこんな可愛げな空間に訪れる機会など滅多にない。弾む心を自覚しながらショーケースを覗き込んでいると柚木崎が感心するように言った。
「神杉くんって本当に動物が好きなんだね」
俺の隣に腰を下ろし、並んで子猫に視線を向ける。
まるでぬいぐるみだった。手足はまだまだ生まれたばかりで、両目は飴玉みたいにくりくりしていた。ことりと首を傾けられると、ついつい頬が緩んでしまう。
「うちは親父が動物嫌いで昔から何も飼えないからなあ」
俺は親父と妹の文花と三人で暮らしている。以前は祖父もいたが二年ほど前に他界した。その祖父が猫を飼っていた時期があったそうなのだが、俺もまだ小さかったのでよく覚えていない。親父は祖父が飼っていた猫に足首を噛みつかれ猫嫌いになったのだと言う。しかし俺に言わせれば、そもそも親父は動物が好きな人間ではない。猫が駄目ならば犬を、犬が駄目なら鳥をという話にもならないのだ。散歩が大変だから駄目、毛が散らかるから駄目と一言二言目には飼えない理由を列挙する。俺や妹が解決案を提示しても聞く耳を持つことは一度もなかった。だから俺にとって犬や猫は手の届かない憧れの一つなのだ。
「俺みたいなでけえやつが、変かな」
柚木崎は無言で否定した。瞼を閉じ、そして開く。その動作がなぜだかとてもゆっくりと見えた。まつ毛が飾り羽みたいに長いと思った。柚木崎は淡い色をした唇で微かに笑みを浮かべて言った。
「いいと思うよ」
すとん、と胸に拳を当てられた気がした。柔らかだが、胸に響く一打だった。食らった箇所からじわじわと熱が発せられ、首と胴に汗が滲んだ。俺はついつい目を逸らし指で頬を掻いた。乾いた喉で尋ねた。
「えと、ナツメとソウセキはどうして飼い始めたんだ?」
声が少し裏返っていたが柚木崎に気に留める様子はなかった。口元に指を添え、宙を仰いだ。
「叔父さんと叔母さんが知り合いから只で貰ってきたらしいの。うちじゃ飼えないから私が世話しないかって。多分気を遣ってくれたんじゃないかな」
ありふれた世間話のように語る。俺は気を遣うの意味を考え、柚木崎の境遇を思い出した。頬を熱くしていたものがいくらか冷えるのを感じた。ガラスを覗く柚木崎の横顔が子猫よりもずっと小さなものに見え、胸が締め付けられた。
子猫は魚の形をしたクッションに抱きついてごろごろしていた。
「家に置いて分かったけど猫ってたまに変なことするよね」
俺は「ああ」と応じる。
「仕留めたネズミを持ってきたりとか?」
「それはまだ見たことない。うちは室内飼いだし。でもたまに壁とか天井のほうをじっと見てる。あれ、すごく怖い」
目にしたことはないが、よく聞く話だ。
「人間に見えないものでも見えてんのかな」
「……幽霊とか?」
「そうそう幽霊とか」
やめてよ神杉くんと柚木崎が苦虫を噛み潰したような顔を見せた。初めて見る表情だった。動物の死骸は平気なのに足のないやつは苦手らしい。自分は妖怪少年みたいな髪型してるくせに。
「あはは、だとしたら面白いんだけどねえ」
と笑ったのは俺ではない。振り返るとエプロンをまとった女が白い歯を零していた。ペットショップの店員だ。年齢は二十代後半と言ったところだろうか。はっきりとした顔立ちできつい印象を受けるが、人当たりは良さそうだった。
「猫はとても耳が良いのよ。聴覚神経の数は人間よりも1万本多い4万本。可聴域は60Hzから6万Hz、最大10万Hzの高音を聴き取ることができる。人間で2万Hz、犬でさえ4万Hzが限界なんだからその聴覚がどれだけ優れているか分かるでしょう? 猫のこの驚異的な聴覚は狩りを夜間に行う習性によってもたらされたと考えられているわ。つまり壁や天井を向いてじっとしてるのも、何も霊を視てるんじゃなくて人間には捉えられない音を聴き取っているのよ。たとえばネズミの足音とかね」
女はショーケースに近付くと腰に手を添え、中を覗き込む。髪がはらりと頬を撫でた。女は垂れた黒髪を指で掬い、耳の後ろにそっと上げた。
「ま、そういう魔性を感じさせてくれるのも猫の魅力の一つだよね」
そうして女は柚木崎に向いてにっこりと目を細めた。一方の柚木崎は曖昧な顔を返した。俺は柚木崎に問いかけた。
「柚木崎、知り合いか?」
ぎこちない動きで首を傾げた。
「……店員さん?」
女はアハハと快活に笑った。
「ごめんごめん、私が一方的に覚えてるだけだから。いらっしゃいお客さん。支店長の草壁です」
俺と柚木崎はハアドウモと頭を下げた。胸元の名札には名乗ったままの役職が書かれている。霧代支店支店長・草壁凛。店舗のトップを任せられているにしては随分と若い。あるいは見た目どおりの年齢ではないのだろうか。
疑問をよそに、草壁は人差し指をぴんと立てた。
「ちなみに猫が飼い主に獲物を持ってくるのは自慢でも感謝の気持ちでもないわ。あれは教育なのよ」
「教育? 飼い主を?」
「そ、人間を未熟な子猫に見立てて狩りの仕方を教えようとしているの。つまり親でもないのに親ネコの気分になってるのね」
「なんかいじらしいっすね」
「この場合、獲物の状態によって飼い主に何をさせようとしているかも大体わかるわよ。死んだ獲物を持ってきたら解体方法を、生きた獲物を持ってきたら自力で止めを刺させようとしている、とかね。猫はそうした経験を積ませることによって子猫を一人前の狩人に育てあげていくのよ」
俺はふうんと感心した。ペットの猫にも野生が残っているらしい。ショーケースを横目で見ると子猫が魚のクッションにたどたどしくパンチを繰り出していた。可愛かった。
草壁が「雑談はこれくらいにして」と腰に手を当てた。
「今日は何のご入用で?」
猫の餌が欲しくてと柚木崎。
「いくつか種類があるけど」
「多いんですか?」
草壁は手で左側を指し示す。子猫ばかり見て気が付かなかったが、ちょうど真後ろがキャットフードのコーナーだった。陳列棚には猫のイラストやら写真やらががちゃがちゃと敷き詰められていた。頭が痛くなってくる数だ。目立つのは袋物だが箱物や缶詰も少なくはない。同系統の商品でも複数種類があるらしくパッケージの色合いが微妙に異なっていた。赤と緑で一体何が違うのか。
「総合栄養食、一般食、副食、カロリー補給食、栄養補完食。動物用サプリメントなんてのもあるけど」
草壁が慣れた手つきで指を折る。柚木崎が露骨に面倒臭そうな顔をした。陳列棚をじっと見て言った。
「……普通のやつで」
「じゃあ、総合栄養食かな。必要な栄養素は全部入ってますってやつ。ドライフードとウェットフードはどっちがいい?」
どっちがいいと問われても選ぶ基準を持っていない。だからそんな目で俺を見るな柚木崎。
草壁が苦笑した。
「要は袋と缶詰よ。違いは水分の含有量。10パーセント以下がドライフードで、75パーセント以上がウェットフード。ドライフードは長期保存に向いていて価格が安い。ウェットフードはその逆だけど肉や魚を多く使うから猫の満足度が高いって感じかな。ま、一長一短ね」
柚木崎がうーんと唸った。
「そんな贅沢させる気もないし、ドライフードでいいかな」
「じゃあ、このあたり。給餌は朝夕の二回。適量は袋に表示してあるけど猫の体格に合わせたほうがいいわね。水分がないから水は多めにあげてね」
「オススメとかないの?」
「青天井ならいいのあるわよ?」
草壁がいたずらっぽく笑った。柚木崎はむうと頬を膨らませ、パッケージを見比べ始める。選ぶまで多少時間がかかりそうだ。手持無沙汰になった俺は草壁に話を振った。
「客のこと全員覚えてるんですか?」
草壁は肩をすくめた。
「まさか、特徴的なひとだけよ。可愛い娘とかね」
冗談口で片目をつぶった。草壁の黒い髪から香水の香りが漂ってくる。控えめな匂いだが俺には少し甘ったるい。むず痒くなって鼻の頭に指を押し当てた。
「別にこいつとはそんなんじゃないですよ」
「まーたまたあ。照れなさんな、少年よ」
「いやいや、ホントに」
草壁は「なにー? 片想いー?」と肘でウリウリと小突いてくる。何なんだよこのオバサン。
げんなりしつつ、屈んだ柚木崎に目を向けた。柚木崎は、両手で掲げたキャットフードを色んな角度で眺めていた。多角的に観察したところで何が決まるわけでもないだろうに。でも、その真剣な横顔が妙に可笑しさを誘った。
(まあ)
柚木崎がクラスで見るよりずっと可愛いやつだということは認めざるを得ないだろう。ちょこんと座る制服姿が子猫みたいに愛らしかった。
そのとき陳列棚の陰から糸目の男がひょっこりと顔を出した。別の店員だった。隣に立つ草壁に向けて「あー」と咎める口調を向けた。
「店長またこんなところで油売ってる」
草壁が子供みたいに口を尖らせた。
「油売ってるとは失礼だね柴崎くん。ちゃんと商品を売っとるだろ商品を」
「本店から電話かかってますよ。たぶん例の件で」
草壁は「え~」と嫌そうな声を上げた。面倒な用件らしい。接客を理由にやり過ごそうと考えたのか、ちらりと俺に視線を投げてきた。が、俺は掌を向けてシャットする。大体のことは聞いた。これ以上付き合って貰う必要もなかった。後尾を引きながらカウンターへ消えていく黒髪を見送ったあと、柚木崎に問いかけた。
「決まりそうか?」
うーん、と難しい貌をする。
「種類が多くて何が良いのかわかんない。肉と肉副産物ってどう違うんだろ」
「こうも多いとパッケージで決めたくなるな」
柚木崎の手元を覗き込む。デフォルメされた猫のイラストが大きな口を開けてウインクをしていた。イラッとくる絵柄だった。柚木崎は隣のキャットフードに手を伸ばした。
「内容量が同じなのに値段が全然違うのもあるよ。こっちは三千円なのにこっちは六百円。何なのこの差」
「たぶん添加物とかじゃねえかな。多少高くても良いものを食べさせてやりたいって親心だろ」
「贅沢だよこんなの」
「それだけの価値があるってことだ」
柚木崎が肩越しに振り返った。視線の先では相変わらず子猫がもちゃもちゃと転がっていた。
「この子なんか19万円もするしね」
値札には価格と共に品種の名前が書かれてある。サイベリアン。聞いたことのない種類だが相応に希少なものなのだろう。
「この子の価値は19万円。うちの子はただ。じゃあ、あの子の値段はいくらだったんだろうね」
あの子。湿った路地裏で内臓を零していた猫。薄汚れた灰色の猫。多分雑種だろう。店に並べられるような猫ではない。
「じゃあ、あの子には価値がなかったっていうことになるのかな」
「それは違うだろ」
否定の言葉が滑り出た。反射的に。
口にしたあとで考える。響きの意味を吟味する。壁面には整然とショーケースが並んでいた。同じ規格のものが縦に三段、横に八列。その全てに商品が収められ、価値を示した数字が羅列している。
「それは、違う」
だが目の前には現実がある。現実が俺の心を曖昧なものにする。情景が内側に流れ込み、澄んでいたはずの感情が混濁する。もはや色も分からない濁りで満たされた脳髄が自らに疑問を発する。値札の付く命と、付かない命。その差は一体どこにあるのか。
柚木崎の目玉があった。じっと俺を覗き込んでいた。見透かすように。試すように。
どうしてそんな目で俺を見る。お前の欲しい答えは何だ?
猫殺しの捜索はあれから一つも進展していない。数日に渡って河川敷で張り込みをしていたが、長閑な景色を眺めるばかりで犯人が現れる気配はなかった。
ただ一つ、いつもと違う放課後があった。西高に菊池が現れたのだ。
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