(4)菊池優也

 金曜の放課後、池の縁石を椅子代わりにして暇な時間を持て余していた。柚木崎とは同じクラスなのだからいつもはそのまま市内を巡る。が、

「先に行ってて。今日は少し用があるの」

 と中央公園で待つように言われた。

 霧代中央公園は市内の真ん中に開かれた広場で休日にはイベントやフリーマーケットが催されている。商店街とも直結しているから待ち合わせにも使いやすい。きっと文庫本でも補充してくるのだろうと柚木崎の注文を聞き入れた。柚木崎には世話になっている。待つことくらいは何でもない。

 南北の出入口を結ぶラインは近道として通り抜ける人が多いため東の出入口付近を待ち合わせ場所に選んだ。西日の照る明るいエリアだがビルの立地に理由があるのか人通りは目立たない。植樹を囲った四角いベンチに制服の女子高生が二人。対面のベンチに長髪の男子学生が一人。俺は、スマホで囲碁を打ったり、亀の日光浴を眺めたりして時間を潰した。

「ちょっ、離してよっ」

 事が起きたのは数分後、小用を足してトイレから出たときだった。先ほどまでベンチで駄弁っていた女子高生の一人が声を荒げていた。傍らには長髪の男子が片手をポケットに突っ込んで立っている。目を疑ったのはもう片方の手だ。まるで胸倉でもそうするかのように女の茶髪を鷲掴みにしていた。女は腕力に頭を傾けながら当然の抗議を上げた。

「痛い、痛いってば! 離せって!」

 長髪は反応しない。違和感を覚えるほどに平然としている。もう一人のショートヘアの女はどうすれば良いのか分からないのか、ただおろおろと手を揺らしていた。ぼそりとした声が耳に届いた。

「お前、今、僕を見て嗤ったろ」

「は!? なに言っ……っ」

 掴む手を、ぐいと引く。

「嗤ったろ」

「わらって、な」

「嗤ったろ」

 隠れていた手を引き抜いた。

「謝れよ」

 握られていたものを見て、女たちが悲鳴を上げた。さすがに俺もぎょっとした。駆け寄り、声を張った。

「おい!」

 長髪が、首をぬらりと動かした。唾を飲み、澱んだ瞳と対峙した。

 背丈は、それなりにある。俺よりも頭半分ほど低い程度だろうか。齢は同じくらいで、胸ポケットの校章から城西高の生徒であることが知れた。粗暴な振る舞いとは裏腹にどことなく育ちが良さそうな雰囲気があり、存外に整った顔立ちをしていた。

 不思議なのは、見覚えがある、と思ったことだ。知った顔ではない。なのに見覚えがある。そして、その既視感には疼くような嫌悪が伴っていた。俺は、顔をしかめながら男の手元に目を向けた。伸びた爪の先でナイフが光を放っていた。

「……やめろ。やり過ぎだろ」

 男は無表情だった。ひどく、つまらないものでも見るかのような目つきをする。そして無言のまま視線を戻すと掴んでいた髪に刃を当てた。

「!?」

 ぶちりと繊維が裂ける音。声にならない声を上げ、女ががくんと両膝を突いた。さっと頭に手を伸ばし、はらはらと落ちるものに愕然とする。腕は震え、唇は真っ青だった。見開かれた瞳からぽろぽろと涙が零れた。

「ゆき!」

 もう一人の女が、友人の傍で膝を突いた。肩を揺さぶるが反応はない。やがて茶髪の女は怯えた手つきで顔面を覆った。女の、すすり泣く声が聞こえた。

 男は、切り取ったものをゴミみたいに宙へ棄てると、絶句した俺を見て、愉快そうに目尻を垂らした。

「てめえっ……!」

 俺は大股で長髪に詰め寄った。襟首を両手で掴み、腕力で地面から引き剥がした。男の両脚がぶらりと揺れる。だが表情は涼しげだった。嘲りの眼で俺を見下している。俺は、男を宙吊りにしたまま足元に声をかけた。

「……おい、あんた。友達を連れて向こう行ってろ」

 困惑の気配が伝わってきた。

「早く、行け!」

 頷いたのだろう。嗚咽を漏らす友人を促し立ち上がった。遠ざかる泣き声。やがてそれも聞こえなくなる。烏がけたたましく喚いていた。

「それで?」

 長髪が、平気な顔でうそぶいた。

「これから僕はどうなるんだ? 無理矢理土下座でもさせられるのか? 僕は悪くないだろ?」

「切っただろうがッ」

 怒鳴っても薄ら笑いを浮かべるだけだった。得物を持つことで、くだらない万能感に浸っている。いざとなれば本当に使ってくるかも知れない。

(上等だ……!)

 刃を睨み奥歯を噛む。怒りで顎が砕け散りそうだった。長髪は虚空を見上げた。

「お前は、何なんだ?」

「あ?」

「関係ないだろ? どうして僕を吊し上げるんだ? 僕は悪くない。お前も関係がない。だったら……この騒ぎの意味は何だ? 一体誰が得をするんだ? たとえば、そうか」

 一人で勝手に納得する。

「お前あの二人に恩を売ってヤらせて貰おうとでも思ってるのか?」

 こめかみが小刻みに蠢く。その不快感を自覚した。

 長髪はゲラゲラと嗤い、艶々とした唇を歪めた。

「まったく、やかましい猿だ。脳味噌の足りてないバカ女の髪を切ったからってそれが何なんだよ。見るに耐えない不細工な面も多少は見栄えもするってもんだろ? なあ、言葉は分かるか? 分かったらさっさと手を離せ。便所で器用に腰でも振ってろ。息が臭くて死にそうなんだよ」

 瞬間、頭の中が血の色で満ちた。気付けば俺は拳を振り被っていた。振り被り、握り締め、放つ寸前で、硬直する。それ以上身体が動かなかった。

 理性ではない。原因は腹部の違和感だった。悪心が内部で這うように蠢き、徐々に大きく膨らんでいった。やがて収まり切らないほど肥大化したそれは食道を逆流し、すえた臭いが鼻孔を突いた。襟を掴んでいた指は力なく剥がれ、俺は地面に膝を着く。喉に充満したものを込み上げるままに吐き出した。長髪が「げっ」と呻き声を上げた。

「なんだよ急に、気持ち悪いなっ」

 頭上から侮蔑と不快が吐き捨てられる。石畳には昼飯の残骸が体液を搦めて飛び散っていた。喉の奥に満ちていた臭気が膝元からも漂ってくる。口内には吐瀉物の切れ端が引っかかり、不快感を倍増させていた。さらに二、三えずいたところで、声が聞こえた。

『拓也』

 聞き慣れた声だった。

『拓也!』

 一年以上頭の中で鳴り止まなかった声。聞くに堪えない悲痛な叫び。だから、すぐに幻聴だと理解した。俺は、口元を拭い、顔を上げた。長髪がゴミ溜めを見下ろすように貌を歪めていた。その両目がちらりと横に動いた。自然と俺は長髪の視線を追っていた。

「神杉くん?」

 制服姿の柚木崎が公園の出入口で立ち尽くしていた。

「柚木崎!」

 と声を上げたのは俺ではない。長髪の方だ。俺は驚きを以って長髪を見上げた。嘘のように人懐こい笑顔を浮かべていた。刃をさっと服に仕舞う。

「柚木崎じゃないか! 今日はなに? 買い物でもしてたの? 水臭いな。言ってくれれば荷物くらい持ったのに」

「神杉くんっ」

 柚木崎は長髪を無視して俺の傍に駆け寄ってきた。膝を着き、俺の背中に手を添えた。小さな手のひらの感触と共に、柚木崎の体温が伝わってきた。

「柚木崎……」

「どうしたの、神杉くん。大丈夫?」

「なに? 柚木崎、このでかいの知り合い? なんか急に吐いちゃってさあ」

 柚木崎は長髪の言葉にはやはり応じず、俺の背を柔らかくさすった。腕を取って支えようとしてくれたが、右手で制した。

「大丈夫。大丈夫だ。ちょっと気分が悪くなっただけだ。もう立てるから」

「無理しないで」

 ありがとうと返して立ち上がった。微かに眩暈を覚えたが、立って話せないほどの消耗はない。再び長髪を見下ろした。

「柚木崎、こいつのこと知ってるのか」

「……菊池くん。中学の、同級生」

 長髪……、菊池は面白い冗談を聞いたとばかりに笑った。

「同級生だなんて他人行儀だなあ。柚木崎と僕は親友じゃあないか。もしかして照れてるの? かっわいいなァ」

 柚木崎は俺の袖をぎゅっと掴み「同級生だから」と小声で漏らした。菊池の耳には届いていないようだった。へらへらと俺を指差した。

「で、この気持ち悪いゴリラは何? 柚木崎が飼ってんの?」

「いい加減にしろよ、てめえ……っ」

 俺は何度目かの怒気を放った。だが、やはり長髪に動じる気配はない。そこで気が付いた。長髪はそもそも俺の存在を認めていない。今この場においては柚木崎だけしか話し相手として認めていないのだ。だが、当の柚木崎は表情を強張らせるばかりだった。

「この人は、神杉くん。高校の

「へえー……、そうなんだ。柚木崎の友達なら僕の友達だな。よろしく神杉くん」

 菊池は平然と右手を差し出してくる。直前まで侮辱の言葉を吐きつけていた俺に、平然と。俺が何の反応を示さないでいても菊池は眉ひとつ動かさなかった。すぐに手を引っ込め柚木崎にぐいと顔を寄せた。

「で、これからどうするの? どっか遊びにでも行く?」

 柚木崎は迫られた距離だけ身を引いた。掴まれた袖の生地がぴんと張った。

「……今日は神杉くんと行くところがあるの。悪いけど」

「え? 何でさ、だって今日は僕と……」

 菊池が見捨てられたような顔をする。柚木崎の指に力がこもった。菊池はさらに口を大きく開いた。

「こんなゴミと何の用があるの!?」

 俺は、菊池の襟首を掴み、勢いよく腕を下に引いた。上半身がのけぞる体勢になり菊池の顔が空を仰ぐ。上から圧をかけた。

「俺と柚木崎に用があっちゃいけないのかよ、菊池くん」

 菊池が歯茎を剥き出しにした。

「反吐臭い顔を近づけるなよ神杉。頭に筋肉が詰まると考える力もなくなるのか? 柚木崎は芸術家だぞ?」

 俺は腕を振るって菊池を柚木崎から引き剥がした。菊池は後方へ二、三歩よろめき踏みとどまった。眼光で互いを刺し合った。

「美術部だったのは知ってる。それがなんだ?」

「つくづく阿呆だな。お前には似合わないって言ってるんだよ。鏡の見方を覚えてから喋れ原始人」

「上等だよ菊池……っ」

「やめてっ、二人とも」

 一喝が飛んだ。柚木崎にしては鋭い語気だった。菊池に掴みかかろうとしていた俺も、思いがけず動きを止めた。柚木崎は気を落ち着かせるように息を吐いた。

「やめて、神杉くん。……菊池くんも。特別なことじゃないの。ただの友達。最近物騒だから家まで送って貰っているだけ」

「い、家まで!?」

 菊池は大袈裟に両手を広げた。胸倉を掴まれても変わらなかった余裕面が初めて動揺していた。

「僕だって柚木崎の家は知らないのに……」

「神杉くんは、ほら、見た目通りの人だから。一緒に歩いてくれるだけでも安心なの。それに私が誰と帰ろうと菊池くんには関係ないよね」

「いや、僕は……!」

「関係、ないよね?」

 柚木崎が強く念を押した。菊池はなおも反論しようと口をぱくぱく動かした。しかし、何も浮かばなかったのだろう。自嘲気味に口の端を歪めると、鬱陶しげな髪をかき上げた。

「ふん、確かに関係ないな。関係ない。わかったよ柚木崎。今日は駄目だってことだな。わかったよ。退散するよ」

 菊池は憎々しげに俺をねめつけた。踵を返し、ベンチで寝かせていたバッグを引っ掴んだ。去り際に歯をぎちぎちと鳴らして吐き捨てた。

「気を付けろよ、神杉。最近は物騒だからな」

 俺は鼻を鳴らして応じた。大股で小さくなっていく後ろ姿を見届けたあと、疲労感を柚木崎に投げかけた。

「柚木崎、何なんだよ、あいつ」

「……何でもないよ。ただの、中学の頃の同級生。……会うとあんなふうに言ってくるの」

 ちょっと困ってる。伏し目がちにそう結んだ。柚木崎は最後まで俺の袖を離さそうとしなかった。身じろぎができずに困ったが、もういいだろうとも言えなかった。柚木崎の手は震えていた。だから、しばらくは任せるままにしていた。

 そのとき、柚木崎が俺と行動を共にする理由が何となく分かったような気がした。

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