(4)月は静かに

 実を言えば霧代の花火大会を観にきたことは十七年間一度としてなかった。俺が住んでいるのは隣の穏前町で、穏前は穏前でまた別の花火大会が催される。わざわざ人の多い市内に出向いてまでもみくちゃにされるほど火薬の炸裂を愛しているわけではない。なので会場の位置も大まかにしか把握していなかった。だが、人の流れに従っていれば間違うことはないはずだ。まさか目に映る全員が花火を目的に歩いているわけではないだろうが、そう決めつけてしまっても全くの的外れではなさそうに思えた。仕事帰り、という体のひとは一人も見かけない。

「みんな、そんなに花火が見てえのかな」

 何の気なしに言葉が滑り出た。独り言、ともすれば失言だった。柚木崎は特に気にする様子もなく応じた。

「実感が欲しいんじゃないかな」

「実感?」

「夏を楽しんでる、実感」

 視線の先には浴衣姿の女が二人歩いていた。会話に夢中になっているようで背後の自転車に気付いていない。ベルを鳴らされようやく振り返った。車輪は二人の間を裂くようにして進んだ。

「思い出作りってことか」

「何でもいいんだよ。それが有意義だと思えれば、何でも」

 私たちだって人のことは言えないでしょう?

 そう締めくくって笑う柚木崎に、俺はまあなと苦笑いした。

 人々は水路を流される落葉のように河川の方角へ移動していく。そして、やはり大量の落葉が同じ運命を辿るように出口付近で停滞し、動かなくなってしまった。会場が近いらしい。

「柚木崎、人ごみは嫌いか?」

「好きな人なんているの?」

 違いなかった。

 列はそれでも緩慢に進み、うんざりしない程度の時間で河畔に辿り着いた。川沿いの歩道では、等間隔に立ち並ぶ街灯と、びっしりと軒を連ねた屋台が、延々と蠢く人の影を鬼火のように照らし出していた。人と人と人。真っ先に浮かんだのは大晦日の境内だ。賽銭を投げて手を叩くためだけに寒空の下で列を成す光景。しかし目を凝らしたところで拝殿らしきものは見当たらない。メイン会場はまだ少し上流にあるらしい。辿り着ける自信はなかった。堤防は花火客で溢れ、会話とも唸り声ともつかぬ喧騒が発動機のエンジン音を掻き消していた。

 花火ならもうどこにいても観られる距離だ。近くに落ち着ける場所でもないだろうか。

 目を皿にしていると柚木崎がくいと裾を引っ張った。

「神杉くん、こっち」

 示す先は会場とは逆の方角だった。人ごみにあっては、聞き取れないほどの声で囁いてくる。

「いい場所を、知ってるの」

 柚木崎の指示に従い足先を逆側へ向けた。自然と人の流れに逆らって歩くことになった。普段なら俺の巨体は避けられるのだが、この数では大勢の一人に過ぎなかった。厄介者を見る目すら一つとしてない。

「柚木崎、離れるなよ」

 自分で言いつつも、無茶な注文だと思った。

 剣川に架かるいくつもの橋。うち一つの袂に差し掛かったとき人の流れが入り乱れた。橋を渡る者。橋を渡ってきた者。西へ折れ曲がる者。東へ進路を変える者。俺も、柚木崎も、荒波からは逃れられなかった。波に呑まれた小さな身体は、どんどん俺から遠のいていった。俺は、泳ぎ、手を伸ばした。伸ばした手を取ろうと手が伸びてきた。だが届かなかった。分裂する濁流の向こうに柚木崎の姿が消えつつあった。視界が人で埋め尽くされていく。圧力と衝撃。熱と痛み。骨と骨に腕を挟まれ関節が軋みを上げた。ゆっくりとぶれる景色のなかで誰かの怒号が宙を飛んだ。

 そのとき、自分でもなぜそうしたのか分からない。肘で抉られながら、肩で潰されながら、ふと夜空を見上げた。

 月が静かに浮かんでいた。

 不思議な気分だった。

 隙間に通した右の手が、ほっそりとした指先を掴んだ。握り返す力を感じた。見えない何かに背中を押され、流れから不意に放り出された。つんのめり、顔を上げた。

 柚木崎の顔が目の前にあった。

 肌の熱を感じ取れるほどに近い。柚木崎は丸い瞳をぱちくりさせる。俺も同じ程度に間抜けな貌をしていたのだと思う。互いにぷっと噴き出した。握った手と手を握り直し、肩と肩とを寄せ合った。俺たちは波を掻き分けていく。今だけはただ離れぬように。

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