(5)彼岸
「やっぱとんでもねえな、花火大会」
「……だね」
膝に手を付き呼吸を整えた。柚木崎は乱れた浴衣の襟元を直している。頬がほんのりと上気していた。
節々に肘や肩で小突かれた感触が残っていた。耳の奧にも、残響。船で釣りをしたあとみたいに平衡感覚が狂っている。くらくらと心許ない頭部を押さえ首を後ろに傾けた。雲は去り、月だけがぽっかりと鎮座していた。空はもう花火を迎え入れる準備が整っているようだった。腕時計に目を落とした。時刻は七時二十分。開始まではあと十分。時間が来るまで待つだけだ。
「しかし、よく知ってな、こんな場所」
対岸では相変わらず多くの影が行列を作っている。一方でこちら側には俺たちしかいない。喧騒が遠のき、昂ぶった心も次第に鎮まってくる。
「前に、従兄に連れてきてもらったことがあるの。静かだし、花火だって見れるでしょ」
俺は、へえと感心する。
案内されたのは、平たく言えば川原の一角だった。コンクリートの護岸から、僅かにここだけが出島のようにせり出している。小石が多く、それよりも砂利が多い。下駄の柚木崎でも歩きやすそうな場所だった。会場からは離れているため屋台の出し物は楽しめないが、ゆったりと観賞するだけなら悪くないスポットだ。無人なのは降り口が分かりづらいからだろう。背後の堤防には出島を覆い隠すように木々が茂っていた。
(悪くない)
悪くはないが、落ち着けたかと言えばそれも違った。どこか寄る辺ない心地がした。それは、自分はなぜ対岸で笑い合う影の一つではないのだろうという身勝手な感傷ではあったが、川幅を幾分か広く感じることも否めなかった。
分け隔てられている。ほんの少し立つ位置が違うだけなのに。
「神杉くん」
遠くの灯りを眺めていると、ぽつりと名を呼ばれた。砂利を踏み締め距離を縮めてくる。並び、同じ景色を望んだ。
「ありがとうね。花火、誘ってくれて」
「……ああ、見たいって言ってたろ」
蛍狩りに誘ってくれたのは柚木崎だ。だから俺は花火に誘った。必要なことだと思ったからだ。
あるいは柚木崎は俺よりもずっと強い人間なのかも知れない。取り乱すことも、無様に泣くこともないのかも知れない。だが一体それが何の証拠になるのだろう? 一生消えない疵を負い、かつての級友に偏執的な好意を向けられ、大事な家族を奪われた。それでもなお平静を保つことが傷付いていない証拠だと言うのなら、馬鹿げた妄想だと返すしかないだろう。
(……まあ、慰めが必要なのは、俺のほうかも知れないけどな)
軽く手を握り、そして開いた。何も掴めてはいなかった。空っぽの手だけがそこにあった。
もう猫が殺されることもなくなった。しかし、すべてが解決したという感慨は何もない。勝利の感慨は、湧いてこない。
空手をやっているときは分かりやすかった。俺が立ち、相手が倒れる。そうでないときも審判がいる。考える必要はなかった。
今、俺たちは花火を観に来ている。菊池は病院に縛り付けられている。けれどナツメは生き返らない。
生き返らない。生き返らないのだ。死んだ者は生き返らない。
視界がゆらりと波打った。
「……はは、まただよ」
目からぽろぽろと雫が零れた。一滴、二滴と掌を濡らし皮膚を伝って滑り落ちた。熱の這う余韻だけが手元に残った。一方でその様をどこか他人事のように感じていることも自覚していた。妙な気分だった。自分の中に、もう一人自分がいるような。
目元を拭い、柚木崎の手を握った。
「柚木崎、明日は別天祭りに行こう」
声は、思うより確かではなかった。
「祭りが終わったら、海に行こう。波と空を眺めに行こう。綺麗なものを、たくさん見よう。夏が終わってしまう前に」
「……神杉くん」
柚木崎の手は子供みたいに柔らかく、温かかった。でも、握り返す力は見た目よりもずっと強くて痛みを感じるほどだった。柚木崎は繋いだ手を胸の高さまでゆっくりと持ち上げた。そして、絡まる糸をそうするようにするりと指を解くと、自由になった手で浴衣の襟元に皺を作った。柚木崎は目を伏せ、唇を噛んでいた。潤んだ瞳を俺に向けた。
「神杉くん、あのね。……あのね、私、ずっと神杉くんのこと……」
瞬間、眼球の奧に火花が散った。
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