第三章 無意味な者たち
(1)誰からだった?
「誰からだった?」
柚木崎はチャリに腰を預けていた。サドルから伸びた両脚が綺麗に揃えられている。背後では錆びた骨組みがモニュメントのように両手を広げていた。あるはずの看板は取り外され、鉄骨の隙間に遠くの山を掲げていた。俺はポケットにスマホを仕舞った。
「扇沢さん」
「扇沢?」
「ほら、警察の」
柚木崎は「ああ」と曇り空を仰いだ。
「あの、女の」
「お前、人の名前覚えるの苦手だろ」
「神杉くんに言われたくない」
違いない。自分のチャリに腰かける。車体がギシリと耐えるように鳴いた。歩道脇に並び田園の風景を眺めた。
「なんて?」
吐き出す空気が重く落ちた。吹き飛ばしてくれる影は車道にはない。沈黙が景色の音を明瞭にする。揺られた木々の葉が炭酸の抜けるような音を立てた。鳥の声と虫の声。用水路からは透明な音。飛行機が飛んでいるらしい。澱んだ雲のどこかで唸り声が尾を引いていた。だが、それらは概ね静けさと呼べるものだった。黙っていても景色は変わらない。俺は諦めることにした。
「見つかったそうだ」
「どこで?」
何が、とは訊かれなかった。どこで。
「海の近く。倉庫とか並んでる」
「……河川敷じゃなかったね」
「近いと言えば近いよ」
「いいよ、気を遣わなくて。ごめん」
「……何が」
「的外れなこと言って」
「柚木崎が謝るようなことじゃない」
柚木崎はささやかに頷いた。頷いてから、また「ごめん」と繰り返した。制服から覗く脚を組んだり解いたり、靴の爪先で地面を引っ掻いたりした。ためらいがちに俺の顔を窺った。
「どんな状態だったの?」
俺は口を開き、そして噤んだ。
「……すまん、言いたくない」
柚木崎は黙って返事を受け入れてくれた。
扇沢さんは相変わらず淡々としていた。淡々と、骸の様子を教えてくれた。慎重に言葉を選んでくれていることは電話越しにも伝わってきた。でも、はぐらからすような説明は一切なかった。逃げ場のない事実を一つ一つ語ってくれた。俺は、打ち捨てられた手足を思い描いた。あまりにも惨い仕打ちだと思った。
緑の景色が滲んで揺れた。手で顔面を覆い、息を吸った。肺の奥で生温かな空気が渦を巻いた。いっそ内臓を掻き出し、洗い流してしまいたかった。
柚木崎が黒色のハンカチを差し出してきた。
「今日はもうやめる? 方角も全然違うし……」
「すまん。……でも、いいよ。折角来たんだ。方角はむしろ違っていたほうがいいだろ」
行こう、と柚木崎を促した。チャリを突いて歩き出す。目の粗い舗装の上で廻る車輪ががたがたと揺れた。緑の濃い雑草が道路脇に根を張っていた。顔を上げて景色を見渡した。同じような色が静かに吹かれているだけだった。空模様を眺めると、身体の内に隙間風が吹くように感じた。
荒れ地に囲まれた小道の先でネズミ色の建物が寂しげに在った。廃院してからまだ数年と聞いている。にも関わらず、壁面は黒ずみ風雨の跡を垂れ流している。管理する人間がいない。それだけでここまで廃れてしまうのか。俺は改めて人間の営みに力を感じた。そこは数年前に経営を辞めた廃病院だった。
霧代市の西側に神池、そして木里と呼ばれる地区がある。神池と木里の間にはいくつかの小さな山があった。小道しかなかった昔は、山の南側を迂回するのが両地区を結ぶ最短のルートだった。それが二年ほど前に新たな県道とトンネルが開通し、現在は大幅な時間の短縮が可能となっている。しかし、元の場所が場所だけに新たな道が抜けたあとも景色自体は心寂しい。山間の平地にぽつぽつと農家が点在しているものの、大部分は畑と、畑らしき空き地で雑草が身を寄せ合っているだけだった。荒涼と呼ぶべきだろう。ほとんどの人間にとっては車で通り過ぎるだけの風景でしかない。
俺たちが向かっている廃病院はそんな地域の片隅でひっそりと口をつぐんでいた。
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