(7)変なひと

「お買い上げありがとうございましたー」

 また来てねーとにこにこ手を振る草壁に頭を下げ、俺と柚木崎は店を後にした。時刻は6時を回っていた。県道では一日の勤めを終えた車たちが赤く疲れを灯している。徒歩の柚木崎に合わせ、俺はチャリを突いて歩いた。

「持つよ。重いだろ」

「ありがと」

 小さな手からキャット―フドを受け取る。選んだのは柚木崎だ。どういう種類のものなのかは分からない。値段は二千円とそこそこだった。俺のチャリには荷台がないので手首に提げてハンドルを握った。筋肉の負荷としては物足りなかった。

 次の季節へ向けてどんどん日が長くなってきている。春の前までは真っ暗になる時間帯だったのに、今はまだ空に浮かぶ白鷺の姿もはっきりとしていた。

 道場の帰りによくこんな色の空を見た。反吐の出る稽古のあと、精も根も尽き果てた身体が黄金色で満たされていくように感じた。きっと世界で一番美しい時間だと思った。

 絵画のような色彩の中で柚木崎がぽつりと零した。

「最初はあんなひとだとは思わなかったの」

 独り言のような響きがあった。

「私が校庭で絵を描いてたらよく話かけてきた。お前、変な画描くよなって」

 少し可笑しかった。

「柚木崎の画って変なの?」

「全っ然変じゃない」

 柚木崎はむうと頬を膨らませた。最近になって気が付いたが、これは柚木崎の癖らしい。今は不満を露わにしているが、たぶん照れたときにも同じようにする。小さな動物みたいだった。

 表情を戻し、遠くを見やる。

「普通の男の子だと思った。少なくとも、クラスに一人はこういう子もいる、と思える程度には。最初は私もあしらっていたけれど、そのうち雑談を交わすくらいには親しくなった。だからって特別どうってわけじゃない。私と彼が話をするのは放課後の僅かな時間だけ。同じ教室にいるときは目を合わせることもしなかったもの。でも、ある日、水泳の授業中にひとりの女の子の制服が盗まれる事件が起きたの」

 車道を行き交う鉄の塊が柚木崎の制服をはためかせた。柚木崎は前髪に指をかけた。

「制服は男子トイレのなかで……ひどく、汚された状態で見つかった。盗まれた子はショックを受けて学校に来られなくなった」

「その犯人が菊池だった?」

 柚木崎は否定する。

「犯人は彼女に好意を寄せる別の男子生徒だった。でも、最初は菊池くんが疑われたの。彼は愛想がなくてクラスには馴染めていなかったから、女子のリーダーみたいな子が、あんたがやったんじゃないの、って。菊池くんはうるさげに舌打ちするだけで否定も肯定もしなかった。そんな態度がまた女子の反感を買った」

 柚木崎の横顔に、昏い色が差す。

「それからだった。彼を犯人扱いした女の子がひどい嫌がらせを受けるようになったのは。椅子や上履きに画鋲を置かれたり、筆入れにカッターの刃を入れられたり……。教科書を切り刻まれるなんてこともあったし、一晩中非通知電話がかかってきたって話も聞いた。それこそみんなが菊池くんを疑ったけれど一度濡れ衣を着せてしまったこともあって誰も彼を追及することができなかった。証拠なんて一つもなくて、何より、みんな怖かったんだと思う。嫌がらせは彼女が菊池くんに謝罪するまで続いたそうよ」

 公園での出来事が否応なしに頭に浮かんだ。恫喝する菊池。すすり泣く女。

「胸糞悪い話だ」

 ハンドルを握る手に力が篭った。柚木崎は同意こそしなかったが別のことを口にした。

「一度、彼に訊いてみたことがあるの。あれはあなたがやったことなのって」

「菊池は、なんて」

「だとしても僕は悪くないだろって。私もそれ以上は踏み込めなかった」

 空に烏の声が響いた。前方から一人の中年が歩いてきた。チャリを寄せて道を開ける。すれ違いざま、鈍色の煙で視界が濁された。煙草だった。悪気があったわけではないだろう。だが不快感は増した。柚木崎は気鬱な面持で言った。

「私と菊池くんの関係は、表面上は何も変わらなかった。元々関係というほどの仲でもなかったんだもの。向こうは私を見かければ声をかけてくるし、私も拒絶できるだけの理由がない。別々の高校に進学した今でもそれは続いてる。でも……」

 柚木崎は逡巡したようだった。剥がれたアスファルトに視線を逸らした。しかし、自嘲めいた笑みを浮かべたあと、結局こう認めた。

「正直、少し怖い」

 橋に差しかかった。遮るものは何もなかった。欄干から望む景色は、西から東へ流れる一筋の光に変わり、さざ波が点滅を繰り返していた。全てが明らかで、全てが金色で満たされていた。柚木崎の影だけが細く伸びている。白いうなじを心許なく感じながら俺は柚木崎に尋ねた。

「柚木崎は俺があいつの防波堤になることを期待してるんじゃないのか?」

「え?」

 柚木崎は片目を丸くした。唇を結び、慌てたように首を振った。

「考え過ぎだよ」

 柚木崎の瞳が川の遠くへ向いた。俺もその視線を追いかけた。西の空に鉄塔の影が高くそびえていた。懐かしい風景だと思った。柚木崎が続けた。

「単に神杉くんに興味が湧いたの。変な人がいるなって」

「俺は全っ然変じゃない」

 柚木崎は「私の真似?」と半眼で睨んできた。ハハと笑い飛ばした。

「でも言えよ」

 不思議そうな貌をした。

「困ったことがあったら俺に言え。身体を張るくらいどうってことない」

 まん丸な目をきょとりと瞬いた。瞬いてから「うん」と頷き、前髪を垂らした。柚木崎の艶やかな頬を陽の光がそっと撫でていた。

「ありがとう。神杉くん」

 俺たちはしばらく同じ道を歩み、いくつ目かの交差点で別れて帰った。

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